臆病な自分へエールを贈る
僕には少し、臆病なところがあるのだけれど、それは体の内側に――それも骨の隙間に眠っている――隠れていて、そしてある時何の前触れもなく骨を突き破り、僕の口から大きな恐怖となって零れ出るのだ。女の子と一緒に帰ることになった時、彼女が突然他の男のことを語り出して、拍子抜けを食らって、僕は思い切って「僕と付き合ってくれ」と言わず、逆に「なんとか僕が図らってみるよ」と何とも余計な配慮をしてしまったのだった。
その時も、僕の口からは恐怖の塊が零れ出て、それは彼女にとって僕が全く眼中にないということと、自分が壊滅的に恋愛に関して奥手中の奥手であったということへの、ショックとやるさなさと、そして絶望があったのだ。彼女は飛び跳ねながら喜び、僕は心臓が破裂寸前まで飛び跳ねながら落胆し、そうして若き日の青春の一コマが終わりを告げたのだった。その恐怖の塊は度々僕を苦しめて、その唐突な消極的行動に出る癖を治すことはできなかった。
それからというもの、僕は恐怖を骨の隙間に抱えながら、何とか小出しにして口から零し、消極的行動に出ないようにしたのだった。消極的行動なんて、消極的なのか行動的なのかわからないけれども、とどのつまり、僕は臆病者だったということだ。
けれど、こうして田舎の屋敷に来てみると、少なくとも恋愛以外のものに関してはひどく活発で、驚くべき行動力を持っているのだと実感することができた。僕がもしかして美咲さんと恋人同士になったとしても、きっと僕はこう言うだろう。美咲さんにはもっと素敵な男性がいるから、僕なんてとても……全く、馬鹿げたことだとは思うけれど。
*
「おはよう! 昨日は良く眠れた?」
屋敷の扉を開いて入ってきた美咲さんは上機嫌で、早朝にも関わらず大きな声を上げて廊下に上がると、八畳間で寝ていた僕と鉢合わせして、盛大に噴き出した。
「ちょっと、すごい寝癖だよ? 寝不足は心配いらなそうだね」
「いや、ちょっと昔失恋した時の夢を見てて。うなされていたんですよ」
僕は欠伸を噛み殺しながら、居間へと入って、美咲さんに昨日作っておいた麦茶をグラスに入れて差し出した。
「あ、なんか麦茶の味が違うような気がする。すごく美味しい……」
「美咲さんの冷やし中華も具がたくさん載ってて、本当に美味しかったです」
僕がそう言って朝食の準備を始めようとすると、美咲さんが「私がやるわよ」と気を遣って申し出てくれた。
「いや、僕もこの厨房の勝手がわからないとあれだし、一緒にやりましょう」
「わかったわ。じゃあ、一から教えるわね」
そうして僕は美咲さん流だし巻き卵と味噌汁、山菜ごはんを伝授され、ほくほく顔で居間についた。すると美咲さんがエプロンを外して向かい側に座り、「なんかこうしてみると」とふとつぶやいた。
「なんか歳の近い弟ができたみたいだね。物分かりのいい部下とも言うけど」
「美咲さん、兄弟はいないんですか? というか、この村に僕らと同じぐらいの歳の若者っているんですか?」
「そうね。私は一人っ子だけど、あと二人、村にも若者がいるわよ。でも、二人共なんかこの村を出て行きたいみたいだし、近い将来、私だけになるかも」
僕はすぐにフォローしようとしたけれど、美咲さんが本当に苦々しい顔をして寂しげな様子を見せたので、口を閉ざしてしまう。やっぱり村に住んでいると、少なからず自分の将来は考えてしまうものなんだな、と思った。
「美咲さんはなりたいものってあるんですか?」
「私はね……渋いけど、文学評論家になりたいんだ」
「すごいじゃないですか。美咲さんなら、なれますよ、絶対」
僕がそう意気込んで言うと、美咲さんは肩をすくめて大きな溜息を吐いた。その吐息には零れるような大きなあきらめの感情が含まれていて、僕はその波が味噌汁にさざめきを与え、僕の心を通り過ぎていったのがわかった。それでも彼女には全く憂いもいらだちも、ましてやこの村への否定的な感情もないのだと悟った。
「美咲さんがこの村を離れたくないって言うのもわかりますし、だったら新しい文学評論家を目指せばいいじゃないですか」
「でも、大学も出れるかどうかもわからないのに。東京に出る訳にもいかないし」
「だったら、僕がその橋渡しになりますよ」
僕がそう言うと、彼女は目を丸くしてきょとんとした顔をした。しかしすぐにふっと笑って、僕の顔を少し可笑しげにじっと見つめた。そして、「ありがとう」と一言、つぶやいた。
「その心遣いには、本当に感謝するよ。今の私には本当に有難いエールだよね。でも、こればかりは自分で決着をつけなくちゃいけないものだってわかってるから。私が村を選ぶか、都会での夢を選ぶかは、これからもずっと考え続けるんじゃないかと思う。だけどね、きっとそれは憂鬱な悩みじゃなくて、考えるだけで楽しい、とっても幸せな悩みだと思うのよ」
彼女はそう言って美味しそうに味噌汁を飲み、熱い吐息を零した。僕もそんな彼女に倣って味噌汁を口に運び、喉を通る暖かな感触を味わった。けれど、それは味噌汁の熱さだけじゃなかった。確かに彼女の言葉の余韻が、僕のひんやりとした肌に熱を与えているのだ。
「私にはこんなに素敵な故郷があって、待っていてくれる人がいる。そして、すぐにでもその故郷を出発して、都会に出たければ、覚悟を決めて出て行けばいい。これってすごく、すごく有難いことだよね」
「キエさんは、都会に出ることも認めてくれているんですね」
「うん。私が本当に本が好きで、いつも都会の文化に触れたいって知っているから。でも、それと同じくらい私はこの村が好きで、大切に想ってるんだ。だから、私には元々、どちらも天秤にかけることなんてできないんだと思う。でも、新君と会って、確かに私には夢を追いたいという気持ちがあるんだってわかったわよ」
そうして美咲さんは僕をどこか含みのある眼差しでじっと見つめ、そしてふと僕の皿にだし巻き卵を一つ置いた。
「新君は夢を叶えた人だから。だから、自分も夢を叶えたいって強く思うことができたの。これはその感謝の気持ち。だし巻き卵を食べて、舌を巻くような文章を書いてね」
「ありがとうございます。美咲さんは本当に素敵なものをたくさん持っていますね」
「やだ、何言ってるのよ。褒めても、これ以上何も出ないわよ」
彼女はそう言ってくすくすと笑いながら、食事を淡々と進めていった。僕はそうした穏やかな時間を噛み締めながら、心の中に広いスペースができたような、そんな余裕を感じた。都会では味わったことのない、素晴らしい心の流れが、小川のように村には漂っていた。僕はその源流に触れて、呼吸がしやすいということを心から実感することができるような気がした。
それはその機会を与えてくれた美咲さんや村の人々への、心からの感謝の気持ちと、まだ見ぬ未来への憧憬に溢れているのだった。そこに、僕の求めている物語の福音も、文学の源泉も、息づいているに違いない。それを知っただけで、僕はその日の朝のゆったりとした空気を、肌にいつまでも思い出すことになるだろう、と確信していた。




