瑞々しい緑に囲まれて
僕がこの屋敷を訪れてまずしたことは、隅々まで箒を走らせ、雑巾を黒ずくめにし、そして僕自身も泥だらけになることだった。それは燦々と照り付ける太陽の日差しを受けて、心地良い達成感をもたらしてくれた。汚れた僕は、逆にぴかぴかになった屋敷を見て、透き通った湖面を心の中に見ているようだった。それだけその屋敷は薄汚れていて、しかし僕が来たことで、数年前の姿へと生まれ変わったのだ。
僕がこの屋敷に引っ越してきたのは、真夏のことだった。田舎の獣道を抜けて、村へと辿り着いた僕は、遠くから聞こえる列車の揺れる音を聞きながら、まず最初にその雄大な景色に心を奪われたのだった。美しい青空が広がり、そしてその下に流動する様々な緑が続いていた。泥臭く、草いきれの漂う道でも、それは絵画よりもずっと驚くべき自然の情景を描いてくれる。それは大地が生み出した、文字通りの奇跡のアートなのだ。
僕はリュックを担ぎ直して、ふっと息を吸うと、持っていたデジカメで何枚もの写真を撮った。左手に伸びる山麓の稜線、田園風景、荒々しい獣道、そして遠くに見える微かな街中の風景。住宅街から少し離れた田舎の景色は、本当に大地が剥き出しになったように雄大だけれど、それと同時に懐かしい心の原風景を思い出させてくれた。
きっとそれは、僕がずっと昔、何者かだった時に目にした眩いほどの人生のワンシーンだったのだろう。それを今度は、この二十歳を迎えた年に、目にすることができるなんて、僕は何だか村の入り口に突っ立って、しみじみと感慨に耽ってしまった。
まっすぐ丘を上れば、すぐそこに民家の古い外観が見えた。石垣が続いていて、その間を縫うように、土が剝き出しになった道が入り組んでいて、明るい緑と日陰の濃淡がコントラストになって、素朴な田舎の景色を浮き彫りにし、僕はこんな素敵な場所があったのか、と大袈裟だけれどとても心を揺れ動かされていた。
僕は今まで民俗学の本を読み漁ったり、各地の農村漁村へと赴いたことがあったので、こうした景観には見慣れているものの、いつ見てもその村のカラーがそれぞれ違っていて、とても興味深かった。この村は街中からそれほど離れていないからか、観光地のように美しい田舎の風景が保たれている。
しかし、やはり頭を焦がさんばかりの強い日差しと、けたたましい蝉の鳴き声は健在だった。僕はすぐにデジカメをリュックに仕舞うと、ゆっくりと周囲の景色を眺めながら村へと進み入った。村の入り口を抜けると、大きな木々が道へと覆い被さっていて、少しだけ涼しくなった。
僕は帽子を被っていても体中が火照ったように熱くなり、次第に道を進んでいくにつれて景観を気にしている余裕もなくなってきた。ただただその土の咽返るような匂いや、周囲を飛び交う虫の煩わしさが暑さと相まって、辛抱強く進み続け、ようやく民家が見えるところまでやって来た。
「すみません」
僕は古民家の庭で歩いていたおばあさんに声を掛けると、彼女が不意にこちらに振り返って「何ですか」と驚いたようにつぶやいた。この辺は観光地となっているので、こうして村を訪れる人々もいるはずなので、言葉の隅々に訛りはあまりなかった。
「この村に新しく引っ越してきた佐山という者です」
おばあさんは何か溌剌とした声を上げて、ぽんと手を打った。そして、麦藁帽子の鍔を少しだけ上にして、僕の顔をしげしげと見た。
「佐山さんの曾孫さんかい。こりゃたまげたな。すごく似ているから」
彼女はそう言って、すぐに僕へと近づいてくると、「こちらに来なさい」と自分の家へと促した。僕はこのまま引っ越し先の屋敷に行くのかと思っていたけれど、言われるまま中へと入っていった。
「こんな暑いところをずっと歩いていったら、どうにかなっちまうよ」
彼女は屋敷の縁側に上がるように勧めてきて、そして中に入ると、すぐに麦茶の入ったグラスを持ってきた。僕は渡された手拭で有難く顔を拭かせてもらい、麦茶を一気飲みした。
「本当に暑いですね。おばあさんも、こんな暑い中、外に出ていて大丈夫ですか?」
「そりゃまずいだろうねえ。でも、今年はいつもより涼しい方だよ」
彼女はそう言うと、再び僕の顔をしげしげと眺めた。もう村の人から話は聞いているのか、僕を見てもさほど驚かない様子だったけれど、その目はどこか好奇心で満ちていた。
「若者がこんな田舎で一人暮らしなんて大変なことだろうよ」
「一応期限付きなんですけどね。今書いている原稿が、田舎を舞台にしたものなので、祖父の屋敷に少しだけ住まわせてもらえないかって交渉したんです」
「駆け出しの物書きなんだってね。若いのに、大したものだ」
おばあさんはそう言うと、ふと僕の背後を見遣って、「おい、こっちだよ!」とその歳では考えられない程の大声を出した。僕はびっくりして背後へと跳ね上がるようにして振り返った。
「おばあちゃん、何してるの! 誰かお客さんでも来て――」
ふと庭を横切ってこちらにやって来た女性を見て、僕は軽く会釈した。女性も僕を少しだけ物珍しそうに見たけれど、すぐに笑顔で会釈してくる。
「もしかして、佐山さんとこの曾孫さんかな?」
「わかりますか? これからお世話になります」
僕が頭をもう一度下げると、その女性はポニーテールの髪を揺らせながら跳ねるように縁側へと近づき、「せっかく来てもらったんだから、スイカ切りますよ」と中へと入っていく。
「あの子は私の孫の、ミサキだよ。活発で優しい子なんだが、少し頑固なところがあってねえ」
「おばあちゃん、聞こえてるよ」
僕はそんな二人の会話を微笑みながら聞いていたけれど、この村の人が本当に人懐っこく、穏やかな人柄をしていることに安心していた。たぶん、祖父のおかげでもあるのだろうけれど。
「新君は、こっちにどのくらいいるの?」
女性は大きなお皿にスイカを山盛りにして持ってくると、僕達の隣に座り、弾けるような笑みでそう聞いてくる。
「とりあえず三か月ぐらいお邪魔しようかな、と」
「この村を舞台にした小説を書くんだって? 私、新君の作品、読んでみたんだけど、若者向けじゃないね、あれは」
「余計なこと言うんじゃねえ、ミサキ。寿郎さんの影響もあるんだろうよ。寿郎さんも、すごく難しい文学作品ばかり書いていたろうに」
「まあ、新君の方はまだ難しいと言っても、今の人が理解できる範囲だからね」
「ミサキは結構読書家でねえ。色んな作品を読んでいるんだよ。松山さんがこの村に来るって聞いて、それも物書きだなんて言うもんだから、楽しみにしていたんだよ」
おばあさんはスイカを一つ取ると、僕へも「どうぞ」と勧めてくる。僕は有難くそれを貰うことにし、ミサキさんへと視線を向ける。どこか人懐っこい笑みを浮かべ、ぱっちりとした瞳がこちらを向いていた。たぶん僕より少し年上ぐらいだろう。
「新君の家に、案内するよ。こないだ掃除はしたけど、まだちょっと汚れてるな、あれは」
「掃除してくれたんですか。すみません、本当に」
「いいの、いいの。私も楽しみにしていたんだから」
彼女はそう言って麦茶のグラスを僕に手渡してくる。本当に気遣いのできる、優しい人達だった。こんな素敵な人が住む村なら、本当に暮らしやすいかもしれない。
「私の名前は、キエと言うから、よろしくな」
おばあさんはにっと微笑み、僕の背中を大きく叩いてきた。僕は咽かけたけれど、すぐに噴き出し、「よろしくお願いします」と丁寧に頭を下げた。
「私も、よろしく。新君には文学について色々と聞きたいんだ」
ミサキさんはそっと手を差し出してくる。僕はそれを握りながら、その汗ばんだ掌に、ほんわかと心が暖かくなっていくのを感じた。
これから始まる村での生活に、早くも心が毬のように飛び跳ね、浮き立つのを抑えられなかった。




