6.ダイチの誤断
湿った地面の土と落ち葉の上を歩くときの、足の裏のやわらかい感触。
そよ風が運ぶ腐葉土と雑草の合わさった独特な匂い。
カ・カ・カ・カ・カ、と啼く、いっこうに姿を見せぬ鳥の鳴き声――
そんなクングースカの森をあとにして、ソラたち一行は道なき道を歩いていた。白くてわたがしのような雲が、いくつもぷかり、ぷかり、と青い空に浮いている。
小高い丘の上で4人は昼食を取った。
パンにバターを塗っただけの粗末なメニューだったが、何日ぶりかの広い空の下で、食べる昼食は、何よりも嬉しいものだった。
簡素な食事を終えて、再び進むと、しばらくして石や岩が露出している地形が姿を現した。それもそのはず、彼らの目前には高くそびえる山々、〝キリ・カリ山脈〟が悠然と横一線に連なっていたのだ。
「あの山を、越えるの?」
ウミが愚痴る。尖った山頂付近に、まるで白い帽子をかぶったように雪が積もっていたからだ。
「みんな薄着だし……あんな所に登ったら、凍えてしまうわ」
と、白いマントを引き寄せて心配する。
「なるべく」と、ジフォッグが言った。
「低い場所を越えるルートを進みます。谷間の峠を通れば、わざわざ寒い山頂を登らずに山を越えることができます。距離も短縮できますし。
順調に行けば日が落ちるまでに山の向こう側に下りることができます。
――〝何も起こらなければ〟、ですが」
足場も固い砂利道に変貌して、足をくじかないように歩かなければならなくなった。旅慣れしてきた子供たちも、これには苦戦しそうだった。
森のやわらかい道が懐かしい。
ダイチは激しい空腹をまぎらすため、水ばかり飲んでいた。
お腹が空いているのはソラやウミも同じことだったが、食いしん坊で大食いのガキ大将の食糧事情は、大げさに言うとこの旅で最大の危機に瀕していた。
「そんなに水をがぶ飲みしたら、全部なくなっちゃうわよ。バカね」
「あんなに少ない昼飯だけじゃあ、もたねぇんだよ」
ウミとソラは自分の手持ちの水を毎日きちんと配分して、計画的に飲み続けていた。
ジフォッグに至っては今朝、森の中で草についた朝露をなめていた。そのことをダイチは知って知らずか、謙虚な小人から奪った水筒の水はとっくになくなっており、とうとう〝非常用に〟と分別していた皮袋のお水も飲み干してしまった。
「ほらァ、なくなっちゃった。アタシの分は、あげないからね!」
と、ウミが抱えた荷物を隠しながら冷たく言い放った。
このままでは自分の水筒を取り上げられてしまう、と危機感を感じたソラも、
「僕も、イヤだよ」
と、あわてて言った。
空腹を水でごまかす――、なんてことを今まで経験したことがないダイチの食に対する欲求はガマンの限界に来ていた。そのうえ、皆から冷たい態度をとられたために、すっかりへそを曲げてしまった。
「あーあーッ。ほんっとにおめぇらは、冷てぇ野郎たちでぇ」
と、歩みを止めてしまった。やはり仲間の水筒をあてにしていたようだ。
ソラは自分の水筒をぎゅっと両手で持ち直した。
「何やってんのよ、バカ。早く行くわよ」とウミは振り返り、ふくれっ面でつっ立っているダイチをにらんだ。
「時間が無いんだから。ほら、立ち止まってないで、歩く、歩くッ」
「水も、ねぇぞ」
「それは、アンタがバカみたいに飲みつくしたからでしょ」
「ハーー ラーー 減ーー ったァーーッ」
「バッカじゃない」
「バッカじゃねぇ!」と、ダイチが激怒して叫んだ。
「オレはバカじゃねぇッ。そんなら、オレがどっかで水を探してくればいいんだろ!」
投げ捨てるように言ったあと、駄々っ子と化したダイチは、道から外れて脇の茂みに入って行ってしまった。
成り行きを黙って見ていた旅先案内人のジフォッグも焦って、
「ダイチさま、いけませんッ。ひとりで行動してはなりません!」
とダイチを引きとめようとするも、すでに大柄な毛だらけの男の子の姿は消えていた。
「ソラさまッ、ウミさまッ。ここを動かぬように。わたくしめがダイチさまを、連れて帰ってくるまで、お待ちくださいッ」
ジフォッグはすばやく荷物を置き、ぴょんと跳ねてダイチと同じく茂みの向こうに消えていった。
「アタシ」と、ウミは口をとがらせた。
「あの〝バカ〟に、なんか悪いこと言った?」
――ジフォッグは小人族だ。
体が小さく足も短いためぴょんぴょん跳ねて先を急いだが、大きな体で歩幅の大きいダイチの足にはなかなか追いつかなかった。
一本道を外れた茂みの向こうは道なき道。さらに悪いことに高低差のある岩山が連なっており、背の低いジフォッグは途端にダイチの姿を見失ってしまった。
そんな小人のことなどは全く気にも留めず、ダイチは露出した岩の悪路を力強くさまよっていた。
「くそ……ッ。バカ、バカ、バカと連発しやがって……」
空高く旋回するトンビのような鳥が、カ・カ・カ・カ・カ……と、ダイチをあざけるように啼いている。
森でも聞いたことのあるあの声だ。
「うるせぇ!」と、ダイチが怒鳴った。
「来る日も来る日も、カ・カ・カ・カ、鳴きやがって。降りてきやがれ!オレが焼いて食ってやるぅッ」
要するに、腹が減りすぎてダイチの方が「カッカ、カッカ」していたのだ。
しばらくすると、空腹もピークを過ぎたのか、徐々に気持ちも落ち着いてきた。
同時に、ダイチは自分のやらかした重大な過ちに気付き始めた。
見知らぬ土地で皆と別行動……これは死に値する愚行なのではないか。
急に不安が募り、来た道を戻ろうとしたが、そのときダイチの耳の奥で「バカじゃない?」というウミの高飛車なセリフが連呼した。
「いや――戻らねぇ!」
ため池でもドブ川でも(!?)、なんでもいい。たくさん水を持って帰って、あいつらをギャフンと言わせてやる!と、彼は意地を張って、大きな皮袋と水筒を両手に抱えたまま、くるりと背を向けた。
しかし、行けども行けども、灰色や白濁色の岩山と、ぺんぺん草ばかり。
水たまりさえ見当たらない。
陽も高くなり、ムダに汗ばかりかいてしまった。ダイチは全身から水分が失われてゆくのを感じた。
あいかわらず頭上では空高く、トンビのような大鳥が旋回している。
(アイツ、ずっとオレさまを追いかけきやがるな……)
ようやくダイチは気が付いた。
灼熱の砂漠で、旅人が力尽きて倒れるまでじっくり待つハゲタカのように、彼もダイチが息絶えるのを待ちわびているのだ。
こちらが焼いて食ってやる、なんてとんでもないことだった。
喉もカラカラ。足腰もガタガタ。
トンビだけでなく雲やまわりの岩までグルグルとまわり始めた。
もっとも、ダイチの目の方が回り始めたのだが。
このままでは本当に力尽きてしまう……大自然の前に人間はなすすべもないんだな……、と今さら後悔しはじめた、そのとき。
最初は気のせいだと思った。
ダイチは最後の力をふりしぼり、岩をよじ登った。
その岩山のてっぺんに立ち、うぶ毛だらけの耳をすませると、確かに水の音がする。それもチョロチョロと流れる小川のせせらぎではなく、ジャバジャバと大量の水が落ちてはねる音だ。
はやる気持ちを抑えきれず、ダイチは音のする方角へ急いだ。最後の大きな一枚岩を登りきると、信じられない光景が広がっていた。
眼下に、水しぶきをあげる滝つぼと、なみなみと水をたたえた泉が現れたのだ。
「み、水じゃねぇか!」
ダイチは狂ったように岩肌を滑り落ちて、泉の岸辺に駆け寄った。すぐに水際にしゃがみこんで、毛深い両手で水をすくってひと口飲んでみた。
甘くてやわらかいのどごしだった。
「う……うんめぇぞ、こりゃあ!」
ダイチはたまらず四つんばいになって水面に直接顔を突っ込んだ。そのまま野獣のように――すでに野獣のような姿だが――泉の水をガブガブと飲みまくった。
少し落ち着くと、ダイチは持ってきていた皮袋の栓を抜いた。
泉の奥にある滝は、体育館の天井くらいの高さから絶えずひと筋の水を放出していた。流れ落ちる水の音が、オアシスの空間を支配する。
衝撃で舞い上がった水しぶきと、落ち切れずに霧と化した細かい水の粒子が、日光に照らされてキラキラと不規則にきらめいていた。
水面の波紋の山が岸まで届くほどの小さな泉だったが、皮袋と水筒を満たすには充分な水をたたえていた。
「これでアイツらも、オレさまをバカあつかいできなくなるぞぉ」
満タンに水を補充して、これでひと安心、とダイチは泉のほとりに腰をおろしてあぐらをかいた。
喉の渇きが潤うと、今度は強烈な空腹感がよみがえってきた。
空を見上げると、先ほどまで旋回していた鳥がいなくなっていた。平和に浮かんでいた雲たちもお互いくっついて薄黒く色あせはじめており、なにやら雲行きが怪しい。
「そろそろ……戻るか」
皆の所に戻れるかどうか、不安だったが、きっとジフォッグが見つけてくれる。
大した食糧は無いが、腹の足しになるくらいの料理をまたジフォッグが作ってくれる。
少年ダイチは、急に旅仲間たちのことが恋しくなった。
「早く戻ろう……」
と、立ち上がったダイチは、泉の滝の方向に気配を感じて、手をかざして見た。
ひとりの女性が立ち尽くしていた。
いや――正確には、水面の上で宙に浮いていたのだ。
彼女の体はキラキラとちりばめられた星のようなベールに包まれている。
この泉の精霊――〝ツァヴィーネ〟だった。
もちろん、そんなことは知らないダイチは、口をぽかん、と開けてマヌケな顔で彼女に見つめていた。
精霊ツァヴィーネは宙に浮いたまま、水面の上を滑りはじめた。そして音もたてず、ダイチのいる水際の近くで止まった。
年頃の少年ダイチは、なによりも目のやり場に困った。
目の前の女性は全身が裸で、衣を一切身に着けていなかったからだ。豊かな胸元がはだけて長い髪の毛で見え隠れしている。
しかし、彼女の肌は透き通る紫色をしていて、足の先もかすんで見えなかったから、人間以外の生き物であることは明らかだった。
「どなた……さまですか?」
柄にもなく、丁寧な言葉でダイチが尋ねた。
「あなた。ハラ、空かしているのね」ダイチの質問には答えず、精霊は言った。
「こちらにおいで。美味しい食べ物――食べさせてあげる」
遠くから見たときの、ちりばめられた星のようなベールの正体は細かい水の粒子だった。
彼女の全身を無数の霧が包み込み、雪山で発生するダイヤモンドダストの如く、輝いていた。まるで天使のようだった。
「こちらにおいで。牛肉、豚肉、鶏肉――ウサギの肉料理、あるわよ」
精霊ツァヴィーネに手招きをされて、ダイチは体が引き寄せられるような気がした。
ダイチの右足が一歩、水際に近づいた。
「こちらにおいで。甘いケーキ、フルーツ――お菓子、あるわよ」
精霊ツァヴィーネに手招きをされて、ダイチは口をふさがれたような気がした。
眼の焦点が乱れて正気を失い、泉にザブンと、足を突っ込んだ。
「こちらにおいで。やさしく、だきしめて――あげるわ」
精霊ツァヴィーネは手招きをして、ダイチの心をつかんだ。
彼女の豊かな胸にうずもれて、少年ダイチは意識を失ってしまった。




