終章 世界が観るべき一コマ
「くっ……フシュー、フシュー……!」暗黒卿のヘルメットから、過負荷による異音と絶望の吐息が漏れる。ホログラムに映し出された電子渓谷のサーバー群は、職人の人間のノイズを計算しきれず、完全にハングアップしていた。「……撤退だ」チャールズ大使が力なく右手を上げると、パワードスーツの工作員たちは木下監督をそっと地面に横たえ、漆黒の車両へと逃げ込んでいった。成田の住宅街に、再び静寂が戻る。「首席、やりましたね! デジタル庁の呪術班からも連絡が。敵のハッキング回線は完全に遮断、原画データの防衛に成功しました!」青龍刀を構えた部下が歓声を上げる。私は小さく頷き、気を失っている木下監督の元へ駆け寄った。その瞬間、夜風が私の胸元を通り抜け、ようやく一本の違和感に気が付いた。
「……あ」
私のトレードマークである胸のピンクのリボン。それが、右に十度傾いたままだった。国家の危機を前に、私は官僚としての、そして一人のレイヤーとしての命である再現度の厳密さを完全に忘れていたのだ。これでは、先ほどの大使への啖呵も、ただの滑稽な道化でしかない。私が愕然としてその場に立ち尽くしていると、うっすらと目を覚ました木下監督が、私の足元と胸元を交互に見つめ、かすれた声で呟いた。「……いや、首席。その十度の傾き、実にいい」「え?」「完璧な左右対称のフリルの中に、突如として現れた十度の歪み。それこそが、今この瞬間にしか描けない、最高の躍動感だ。……次のカットの原画、そのリボンの線をそのまま使わせてもらうよ」天才作画監督はそう言って、満足そうにニヤリと笑った。
数日後。外務省の私の執務室。壁面の大型モニターからは、いつものように世界情勢を伝えるニュースが流れていた。「本日、米国政府は我が国に対する関税引き上げ案の完全撤回を発表しました。また、昨日世界同時配信された覇権アニメ『エルドラドの境界』第五話は、過去最高の視聴数を記録。特に終盤の魔法少女の戦闘シーンにおける、凄まじいまでの線の揺らぎと圧倒的な作画クオリティは、電子渓谷の批評家たちからも『人類の至宝』と絶賛されています。なお、外務省は次回作の分割二クール決定権について」私は鏡の前に立ち、シルクハットの位置を直し、純白のマントのドレープを整える。そして、胸のピンクのリボンを、今度は一ミリの狂いもなく、完璧に水平へと打設した。
「首席、本日の中国外交総局とのオンライン会談の時間です。相手のCEOは、伝説の魔王のコスプレで出席するとのことです」「分かった。すぐに行こう」チタン製の魔法のステッキを手に取り、私は再び、大理石の廊下へと八層のスカートをなびかせて歩き出す。世界がこの一コマを求めている限り、魔法少女の衣装をまとった三十二歳の国家公務員の、八層のスカートはなびくことを辞めなかった。
納期と国益を賭けた戦いは終わらない。
【エピソード一 完】




