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虚無戦線  作者: MIROKU
バレンタイン・クライマックス
83/99

10 バレンタインの余韻の余韻


   **


 煩悩郷――


 そこは、この世とあの世の間にあるという。


 満たされぬまま死んだ者の魂が行きつく場所とされている。


 江戸の夜に出歩く者は、稀に紛れこんでしまうらしい。


「わ、私が招待したのよ」


 煩悩郷の大きな屋敷に住む美女せつな。


 彼女は蘭丸を前にしてツンツンしていた。


「だ、だって、『ばれんたいん』でしょ」


「はあ」


 蘭丸は目を点にしていた。まさか、せつなの口から「ばれんたいん」という単語を聞くとは。


 ましてや、せつなは屋敷においては「お館様」と呼ばれるような存在だ。


 煩悩郷の有力者の一人だろう。そのような者が、どうして蘭丸を気にかけるのか。


「そんな事もわからないの? 全く、馬鹿ねえ」


「め、面目ない……」


「私の事を都合のよい女と思ってない?」


「そ、そんな事はない!」


 言った蘭丸の顔は瞬時に引き締まった。


 男が本気の顔つきだ。せつなは、その顔が好きだ。


「ふふふ…… 今夜はゆっくりしてね」


 せつなは妖艶に笑った。部屋の襖が開き、屋敷の下女が酒や料理を運びこむ。


 蘭丸が呆気にとられるような豪華さだ。


 これは、今夜は蘭丸を帰さないようにするための、せつなの神算鬼謀であった。


「はい、あーん♥」


 せつなの輝かしい笑顔。普段とはまるで別人だ。


「あ、あーん」


「美味しい? ねえ、美味しい?」


 蘭丸とせつなの甘い一時。


 この世とあの世の境界でも、男と女が活力を生み出している。


 だが蜜月は長くはない。


「お、お館様ー! れ、例の女が……!」


 女中の緊迫した声に、せつなから笑顔が消えた。


 蘭丸ですら背筋が凍りつく迫力だった。


「……私の得物を持っておいで!」






 屋敷の庭では、ねねが暴れていた。


「大江戸ぶらすと!」


 ねねが目から発射した破壊光線によって、屋敷の男衆が蹴散らされていく。


 これでも、ねねは手加減していた。ねねが本気ならば、一晩で煩悩郷は滅んでしまうかもしれぬ。


 そうなれば、満たされぬ思いのまま亡くなった者の魂が、行場に困る。


 この煩悩郷は、死出の旅の途中にある休憩所のようなものだ。


 煩悩郷に立ち寄り、自身の人生を見つめ直し、決意新たに冥府へ向かう……


 そうして最悪の状態から一段救われた魂も少なくない。


「蘭丸様ー!」


 ねねは月下に吠えた。


 怒りと破壊の顕現かと思われた。


「やってくれたわね、この女ダヌキ……!」


 屋敷からは薙刀を引っ提げたせつなが出てきた。


 蘭丸との「はっぴーばれんたいん」を邪魔されて、せつなは怒り心頭だ。


「出たな、女狐! 蘭丸様を返しなさい!」


「あんたのものじゃないわよ!」


 せつなは薙刀を振るって、ねねに斬りかかった。


 ねねは薙刀の刃を避けながら、勝機をうかがう。


 二人の死闘を蒼白な顔で見つめる蘭丸。


 その蘭丸に、いつの間にか黒夜叉が寄り添った。彼女もねねも、どうやって煩悩郷に来たのだろうか――


「ねねさんは、どこぞの女神様みたいでやす……」


「え?」


「怒りと破壊の象徴で、勝利の舞で天地を崩壊させようとしたり、亭主を踏んづけたり…… でも全ての魔を滅ぼす大いなる力を持つ女神様…… ねねさんは似ているでやす……」


 黒夜叉の言葉を、蘭丸は厳粛な顔で聞いていた。


「でやあー!」


「ふん!」


 せつなが振るった薙刀の刃を、ねねは必死の形相で真剣白刃取りした。


(全ての魔を滅ぼす女神……)


 蘭丸はねねとせつなの対決を見つめながら、奇妙な思いに駆られる。


 魔を斬る運命に落ちた蘭丸。それを支えるねねは、全ての魔を滅ぼす女神が遣わしたのだろうか?


 黒夜叉もせつなも超越の存在だ。彼女たちは、どうして蘭丸の前に現れたのか。


 また、せつなはパラレルワールドの「ゼルマン」という街では、オフェーリアと名乗っている……






「いいなあ、モテる男はー!」


 隻眼隻腕の七郎は、血涙を流しながら夜の江戸をさまよっていた。


 一升瓶を左手にラッパ飲みしながら練り歩く七郎は、迷惑な酔っぱらいである。


 そんな七郎は、夜空に広がる巨大な蜘蛛の巣を見た。


 その蜘蛛の巣の表面に蠢く、不気味な人影をも。


「こ、これが、俺の担当……?」


 七郎は泣き笑いになった。酔いも覚めた。


 蘭丸は周囲を女性に囲まれて華やかなのに、七郎は夜の闇に蠢く魔性とガチンコとは。


 しかも隻腕である七郎は、小太刀や小柄くらいしか武器はない。魔を斬る名刀、三池典太は彼の墓に納められたと聞く。


 七郎の正体は、謎の死を遂げたとされる柳生十兵衛三厳だ。


 その七郎めがけて、魔性が舞い降りてきた。


 背に八本の脚を生やした、人間蜘蛛だ。


「こんちくしょうー!」


 七郎は踏みこみ、人間蜘蛛を素早く出足払いで転倒させた。


 その背に飛び乗り、両足を人間蜘蛛の首に巻きつけ、一気に絞める。


「も、もてない男の気もちがわかってたまるかあー!」


 七郎は悲痛な叫びを夜空に響かせた。


 人間蜘蛛はすでに気絶していた。

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