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矢塚の屋敷を出る頃には、すでに日が暮れ始めていた。
ちょうど山を降りた道路脇に、紫のマントを被った一人の女性が小さなテーブルを前に置いて座っているのが見えた。それはどう見ても占い師の格好だった。テーブルの上には小さな水晶玉がチョコンと置かれている。だが、夜の繁華街の裏通りなら理解出来るが、こんなところに占い師がいるのは異質としか思えない。
瑠樺が近づいていくとーー
「そこの人、あなたの運勢、見てあげましょうか」
わざとらしい低くくぐもった声で占い師は声をかけてきた。
「いいえ、結構です」
そう言いながらも、瑠樺はその女性の前で立ち止まった。
「あら、冷たいのですねぇ、自分の運命を知るのは悪いことではありませんよ。さあさあ、もっと近くへいらっしゃい」
白く細い指先を瑠樺のほうへ向けて、ゆらゆらと揺らしてみせる。
「ふみのさん、ですよね」
瑠樺がそう言うと、怪しげな占い師は被っていたマントをパッと取り去った。
そこに現れたのは『妖かしの一族』の一つ『美月の一族』、美月ふみのだった。美月あやのの双子の妹で、昨年、瑠樺が『妖かしの一族』の力に覚醒する手助けをしてくれたのが彼女だった。
彼女たち『美月の一族』は『騙し神』と呼ばれ、出会った頃は敵なのか味方なのかわからずまごついたこともあった。
「やあ瑠樺ちゃん、久しぶりだねぇ。元気だったかい」
美月ふみのは弾むような口調で言った。
「こんなところで何をしているんですか?」
「ご覧の通りさ。ちょっと占い師の真似事をね」
ふみのの指先で小さな水晶玉がヒョイヒョイと踊る。
「こんなところでですか? こんなところで待っていてもお客さんは来ませんよ」
「うん、そうだねぇ。さっき狐を見かけたから、運勢を見てあげようと思ったけど逃げられちゃってね」
いつものようにふざけたことばかりを言う。
「狐ですか」
「でも、おかげで瑠樺ちゃんに会えたねぇ。どんなことにも良いことはあるものだねぇ。ところで瑠樺ちゃん、ここに来るまでに誰かに会ったかい?」
ふみのはそう言ってクンクンと匂いを嗅ぐ仕草をしながら顔を近づけた。
「ここに来るまで? 矢塚さんだけですよ」
「そうかい? もう少し違う人と会ったような気がするんだけどね」
「ハズレですよ」
そう答えながらも、どこかで記憶がボヤけているような気がする。そういえば誰かに会っただろうか。
「そうかい、私の鼻もアテにならないかね。さて、それじゃ、そろそろ瑠樺ちゃんの運勢でも見てあげようかな。何か悩みはあるかな? 恋の悩みとかないのかい?」
「からかってるんですね」
「いやいや、私は瑠樺ちゃんと話をするのが大好きなんだよ。出来たら恋人にしたいものだよ」
実のところ、瑠樺も美月姉妹と話すのは嫌いではなかった。彼女たちと話すと、悩みが消えて気持ちが明るくなる気がする。
「やっぱりからかってますね。じゃ、私は帰ります」
「帰っちゃうのかい? どうしてさぁ。もっとお話しようじゃないか」
「私、これから一条さまのところに行かなきゃならないんです」
「なるほど。春影さまか。それじゃ待たせちゃいけないね」
「まあ、別にこの後すぐってわけじゃありませんけど」
「瑠樺ちゃんもすっかり一族の一員だね」
「そうでしょうか。いつも大事なことは話してもらえませんよ」
「大事なこと? 何が大事なことかなんて人によって違うものだよ。大人たちの秘密なんてくだらないよ。気にしない気にしない」
「それじゃ、ふみのさんにとって大事なことって何ですか?」
「決まっているよ。瑠樺ちゃんとのこれからさ」
ふみのは満面に笑みを浮かべてみせた。
「また、ふざけて」
「さては瑠樺ちゃん、私と知り合ったことを後悔しているね?」
「そんなこと思ってませんよ」
「本当かなぁ?」
「本当です」
「そう? でも、私は少し後悔しているんだよ」
ふみのはふいに真面目な顔をした。
「どうしてですか?」
「私の勝手で、大人の勝手な事情で瑠樺ちゃんを私たちの世界に引きずり込んだ。あれはちょっとだけ、フライングだったかもしれない。あなたは普通の人として生きたほうが良かったかもしれないってね」
一瞬、戸惑いはしたが、それがふみのの本心だということにすぐに気づいた。冗談めかして言ってはいるが、彼女はきっと本気で自分のことを心配してくれているのだ。出会った時から、ずっと気にかけていてくれたのだろう。
同時に頭をよぎったのは雅緋のことだった。
「それって雅緋さんに対しても同じですか?」
「雅緋ちゃん?」
「私は『妖かしの一族』です。覚醒したのはふみのさんのおかげですけど、それでも私は『妖かしの一族』です。でも、雅緋さんは違いますよね。雅緋さんが沙羅ちゃんを宿したことはどう思っているんですか?」
「難しいことを訊くんだね」
「もちろんそれをやったのは私の父です。ふみのさんじゃないのは知っています」
「いや、私だってそれには関わっているよ。責任逃れをするつもりはないよ」
「私、今でもわからないんです。父がどうして『妖かしの一族』でもない雅緋さんの中に沙羅ちゃんを宿すことを決めたのか。ふみのさんはその理由を知っているんですか?」
「そうだね。私は知っている。一つは雅緋ちゃんのためさ。雅緋ちゃんには実の親は存在しないってことは知っているだろ? 幼い頃からずっと育ててくれた警察官だった父親が死んで、彼女は絶望して毎日を過ごしていた。そんな彼女を救うためには、大きな変化が必要だった」
「それが沙羅ちゃんですか?」
「うん、でも、それ以上にやっぱりアレも私たち大人の事情だったかもしれない」
「それってーー」
口を挟もうとする瑠樺を制して、ふみのはさらに言った。
「それでも私はこう思うんだ。もし時間を遡って、もう一度同じ場面に向き合うことになったら、私はきっと同じことを繰り返す。瑠樺ちゃんに対しても、雅緋ちゃんに対してもね。私は自分勝手な悪い大人なんだよ」
その口調にはほんの少し寂しさが入り混じっているように感じた。やはり雅緋に沙羅を宿らせたのには特別な理由があるのだろう。そして、彼女はそれを話すつもりはないのだ。
「今日はいったいどうしたんですか?」
「何が?」
「なんか……らしくないっていうか」
「そうかい? こう見えて私も乙女だよ。普通に悩んだり、悔やんだりするものさ。やりたいこととやらなきゃいけないことが一致しない時は特にね。むしろ瑠樺ちゃんは私を恨んではいないのかい? 言いたいことがあるならハッキリ言っておいたほうがいいんだよ」
ふざけたような言い方をしているが、ふみのの真剣な気持ちが伝わってくる気がした。
「じゃあ、真面目に答えます。私は、あなたに引きずり込まれたとは思っていません。私は自分の意思で、『妖かしの一族』になったつもりでいます。ふみのさんが責任を感じる必要はありません。むしろ、手助けをしてもらって感謝してるくらいです」
するとふみのは再び大きく笑ってみせた。
「やだなぁ。そんな愛の告白みたいなこと言わないでよ。照れちゃうなぁ」
「愛の告白はしてません」
「ハハハッ。それを聞いてホッとしたよ。やっぱり瑠樺ちゃんは優しいんだね。それなら次はもっとディープな大人の世界に引き込んであげようかな」
「それは結構です」と即答する。
「あら、やっぱり冷たいねぇ」
ふみのはいつものように明るく笑った。「一つ私たち一族について教えておいてあげるよ。瑠樺ちゃんは意識する立場じゃないけれど、私達には順列があるんだよ」
「順列?」
「そう、それは私なんかには決して覆すことの出来ないものだ。それが出来るとすれば、それは瑠樺ちゃん、あなたなんだよ」
それがどういうことか、それは瑠樺にもなんとなくわかるような気がした。