プロローグ『死ぬ前に諦めた恋を、異世界でもう一度』
「誰も……来てくれないなぁ……」
白い天井を見つめながら、あたしは小さく呟いた。
音の少ない病室。
時計の針の音だけが、やけに大きく響く。
窓の外の空は、今日も変わらない色をしていた。
変わらないものなんて、この場所にはもうほとんど残っていない。
今日も、両親は来なかった。
――いや、来ないんじゃない。来たくないんだ。
あたしの病気は治らない。
そう告げられてから、家族は病院に来なくなった。
仕事が忙しいから、と言っていたけれど。
本当は、きっと。
あたしを見ているのが、つらいんだと思う。
「……あたし、もうすぐ死んじゃうんだよ」
誰にも届かない言葉が、白い天井に吸い込まれていく。
最後くらい、そばにいてほしかった。
たとえ優しさじゃなくてもいい。
ぎこちない沈黙でも、形だけの言葉でもいい。
――ひとりじゃないって、思わせてほしかった。
それでも、どうにもならないまま時間だけが過ぎていく。
看護師さんがカーテンを開ける音がした。
「澪ちゃん、今日は調子どう?」
「……普通、です」
できるだけ明るく答えようとするけれど、声は思ったより弱かった。
「そう。じゃあ、少し本でも読もうか」
「はい……」
本を読む時間だけは、少しだけ世界が変わる。
病気も、時間も、全部忘れられる気がした。
「澪ちゃんは本が本当に好きね」
「……はい。本を読んでいると、別の世界に行ける気がするので」
「それなら、今度もっと持ってきてもらえるように頼んでおくわね」
「ありがとうございます。できれば……異世界のお話がいいです」
少しだけ恥ずかしくて、視線をそらす。
看護師さんは優しく笑った。
「ふふ、いいわね。ちゃんと伝えておく」
異世界の物語が好きだった。
選ばれて、誰かに必要とされて。
当たり前のように、誰かと一緒に歩いていける世界。
そんな話を読んでいると、ほんの少しだけ、自分もそこにいていい気がした。
……もう長くは生きられないことは、わかっている。
だからせめて。
夢の中くらいは、普通の女の子でいたかった。
――その日の夜。
呼吸が、少しずつ苦しくなっていた。
視界がぼやける。
音が遠くなる。
(ああ……)
これが、最後なんだ。
お母さん達、結局来なかったなぁ……
ほんの少しだけ、残念に思ってしまう。
でも、仕方ない。
あたしは、誰かにとって“重い現実”だったから。
指先に力が入らない。
それでも涙だけは勝手に溢れてくる。
あたしの人生は、きっと。
誰が見ても、寂しいものだったと思う。
それでも――
最後くらいは、この世界に少しだけ抗いたかった。
物語の主人公みたいに。
「ありがとう」って思いながら終わりたい。
――こんな世界でも、生きてよかったって。
そんな小さな意地だけを抱えて、意識がゆっくりと沈んでいく。
◇
光が、見えた。
まぶしいのに、不思議と痛くない。
「……ここは?」
目を開けると、そこは崩れた石造りの空間だった。
病室ではない。
空気が違う。
匂いが違う。
世界そのものが違っていた。
「――どうして、こんな場所に女性が?」
声がした。
肩が跳ねる。
振り向くと、金色の髪をした男が立っていた。
「私を知らぬのか? 私はこの国の第一王子、レオン=アルヴァレスだ」
王子……?
現実感が追いつかない。
「殿下、近寄り過ぎです……。女に化けた魔物の可能性もありますので、油断なさらぬよう……」
鋭い視線を向けてくる騎士に、思わず身がすくむ。
「カイル団長、こんなに穏やかな顔をした女性が、魔物なはずないだろう」
「え……?」
ただ見ただけなのに、そんなふうに言われるなんて思わなかった。
胸の奥が、少しだけ揺れる。
「怖がらせてしまったな」
王子は一歩距離を取る。
その目は、驚くほどまっすぐだった。
「もし行き場がないのなら、私が守ろう」
守る――?
その言葉が、胸に落ちる。
あたしはずっと、守られる側じゃなかったのに。
「君はここにいていい」
静かで、迷いのない声。
その一言だけで、視界が少し滲んだ。
――どうして。
どうして初めて会った人が、そんなことを言えるの。
「……ほら、見ろ。魔物が涙を流すか?」
「確かに、そのようですね――」
張りつめていた空気が、少しだけ緩む。
ここがどこなのかはまだわからない。
でも。
ベッドの上で終わるはずだった人生は、今。
少しだけ続いている気がした。
「行こう」
差し出された手。
あたしはそれを見つめる。
触れていいのだろうか。
もう長い間、人の手なんて握っていない。
それでも――
この手を取れば、何かが変わる気がした。
おそるおそる、その手に触れる。
あたたかい。
ちゃんと、生きている温度だった。
その瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
――ああ。
あたしは思ってしまった。
この世界で、まだ生きていけるのなら。
この人の隣で、笑っていたい、と。




