第12話 幸せな夢
ハデムが悪夢に悩まされている頃、アデルは領地に引きこもったまま、眠る時間が日に日に増えていた。
アデルの世話をする使用人達は心配したが、眠っている時のアデルがとても幸せそうな顔をする為、起こすのが可哀想で敢えて起こそうとはしなかった。
使用人達が見た幸せそうなアデルの顔は、大抵がハデムと愛を語り合う時だった。
ハデムがアデルに嫌悪感を持てば、反発する様にアデルの夢の中のハデムは愛を囁く。
アデルが夢でハデムに愛を囁けば、それはハデムの夢に現れハデムがそれを受け入れる。
この夢の現象は何故起こるのか分からないが、アデルにとっては幸せな夢で、あの時の声が言ったようにハデムが自分だけのものになったという事だと思った。
次第にアデルはこの幸せな夢が、いつか現実になるんじゃないかと思うようになっていた。
今のアデルは、以前の様な清廉潔白で不誠実が大嫌いだった淑女ではなく、自分が最も嫌悪した自分勝手なナルシスト令嬢に成り下がっていた。
オリビアに手紙を書いた事もすっかり忘れていた。
だから、手紙の返事が来ない事にも気付かない。自分は夢の中の住人で、そこがアデルの現実になっている。
アデルは幸せだった。
此処に来るまでは次期当主として恥ずかしくないようにあれと、幼い頃から厳しく躾られ己を律する毎日。
厳しいながらも仲のいい両親に愛され、いつか自分も両親の様に愛し合える人と結婚して家を継いでいくのだと疑わなかった。オリビアと知り合い親友になり、婚約者との将来に不安もなかった。
しかし、信じていた婚約者の裏切りと死が少しずつアデルを壊していった。
二度目の婚約者の裏切りに絶望し、またも死なれるという経験はアデルが完全に壊れるのに相応の出来事だった。
それからは他人の目が気になり、他人の声が怖くなり、でも逃げ出す事も出来ず、誰かに救いを求めたいがそんな相手も見つからず…自身も気付かないうちに精神を病んでいた。
そんな状態のアデルの前にハデムが映った。
以前から知っているにも関わらず、何故ハデムだったのかアデルにも分からない。
ただ言えるのは、オリビアが羨ましかった。
自分は二度も婚約者に裏切られ死なれ、次の婚約者も決まらない…そんな絶望を味わっているのに、同じ伯爵家で同じ次期当主、容姿も自分と大差はない。なのに何故、オリビアには信頼できて愛し愛される婚約者がいるのか…何故自分にはいないのか…
妬みや嫉妬…きっかけはそんなとこだろう。
だが、オリビアを貶めるつもりはなく、ただ羨ましかっただけ。新しい婚約者が決まれば、こんな感情は消えるだろう…そう思っていたのに、婚約者は決まらず仲のいいオリビアとハデムの姿に、徐々に苦しさが増し黒い感情がジワジワと広がる。
結局二人の間に入る隙はないと分かり、自ら身を引く形で自分の気持ちにケリを着け、もう大丈夫だと思える様になったらまた二人の前に姿を見せて、以前のように親友と親友の婚約者という関係に戻ろう…あの時は、本心からそう思って領地に下がったのだ。
だが、そんなアデルにあの声が囁いた。
『悪魔の囁き』
それは、この国の子供が必ずと言っていい程誰もが知る存在で、甘い言葉に乗ってはいけないよという教訓でもあった。
『悪魔の囁き、は自分が弱っている時程心地いい声で聞こえてくる。自分にだけ都合のいい話は悪魔の囁きだから、聞いてはいけない。聞こえたら耳を塞ぐんだよ。』
こんな風に、親から子へ伝えられる教訓。
アデルはその『悪魔の囁き』を聞いてしまった。そして、一度は塞いだその声を壊れたアデルは受け入れてしまった。
アデルは知らない。その教訓は子供向けであって、大人達の間…特に王族とそれに近い高位貴族の当主達には、本当の教えが伝わっている。
『弱みを見せれば悪魔に魅入られる。悪魔に魅入られた者は、壊され最後は連れて行かれる。願いを叶える代償にその命と心を払わされる。』
これが『悪魔の囁き』の本当の話だった。
アデルは願いを叶えてしまった。後は代償をいつどのタイミングで支払うのか…。
悪魔はアデルを連れて行くタイミングを図っていた。
条件は満たしているので、いつでも連れて行けるが悪魔にはある考えがあった。
『……もう少し…溜めてみるか…』
悪魔はアデルの夢の中に現れた。
アデルは今日も夢の中でハデムを待っていた。
するとそこへ見た事もない美人が立っていた。全身真っ黒…長い髪も服も爪も真っ黒。背中には立派な翼が生えており、それも真っ黒だった。
細身の身体はしなやか且つ程よい筋肉が着いていて、スタイル抜群だ。
アデルは突然目の前に現れたその黒ずくめの人らしき者を、上から下までじっと見つめ口を開いた。
「あら?貴方男性なのね?そんなに綺麗な顔してるからてっきり女性かと思ったわ!」
脳天気な言葉を発し、相手の返事を待つアデル。
『…ハハハ…これは驚いた。私を見ても怖がらないとは…それに綺麗な顔とはな…お褒めに預かりありがとうございます、レディ。』
「まぁ、ご丁寧にありがとうございます。
貴方、お名前は?私はアデル ベルクラーと申します。」
『こんにちは、アデル。私の名前は特にありません。でも「堕天使」と周りの人は呼びますね。』
妖艶な笑みを浮かべ、真っ赤な瞳がこちらを見つめる。
「…まぁ…堕天使さん?それは私が知ってるあの堕天使かしら?」
『恐らくそれで間違いないと思いますよ。』
どうする?と言わんばかりの挑戦的な視線を向け、ニヤリと笑う。
「そうなのね!初めまして堕天使さん。本物を見れるなんて光栄ですわ。」
堕天使を目の前にして恐れるどころか、喜ぶなど…と思ったが、懐かしいその言動に少し胸が疼く。
『……今日は少し話し相手になってもらえますか?』
「………ねぇ、堕天使さん?貴方…初めましてじゃないわよね?」
堕天使はまさかの発言に動揺する。
『……?…お会いするのは初めましてだと思いますが?』
「そうね。顔を見るのは初めましてだけど、貴方以前私に話しかけた事があるわよね?
そして、私の願いを叶えてくれた…違う?」
『……よくお分かりになりましたね。素晴らしい。』
パチパチパチ…と、少し小馬鹿にしたようなその拍手にムッとしつつ、アデルは姿勢を正し頭を下げる。
「その節はありがとうございました。貴方のお陰で私は今幸せです。」
堕天使は瞼をパチパチと瞬かせ、少し驚く。
『…どういたしまして。ですが…願いを叶えるには代償が必要だと聞いていませんか?』
「……代償?」
『そうです。代償です。さすがに願いを叶えるには、それ相応の代償は必要です。あ、お金とかではありませんよ。……もっと貴重で尊いものです。』
「…貴重で尊い……?」
『そうです。人間にとってはとても貴重で尊いものです。それをいつ頃頂戴しようかと、今日はご相談に参りました。』
「そうですか……ですが、もう少し時間を頂く事は可能かしら?今日はハデム様とお会いする予定なの。彼にも相談したいし。」
『……分かりました。ではまた日を改めて参ります。』
「そうして下さると助かりますわ。」
『では、ご機嫌よう…』
「はい。ご機嫌よう…」
堕天使は霧が晴れるように姿を消した。
「……アデル?」
「……ハデム様!!」
「会いたかったよ、アデル!」
「私もです、ハデム様…」
今日もアデルは、夢の中でハデムと逢瀬を重ねる。
ハデムもまた、自分がアデルに愛を語るという悪夢を見て苦しむのだった。




