942話
3月12日(木曜日)
「ゲイユ〜。ゲイユ〜。ボク、キタヨォ〜」
江川厩舎に訪れた悠助が馬房に近づきながらメイゲイルを呼ぶ。
馬は耳が良く、視野はかなり広い。だから、悠助が呼ぶ前からメイゲイルには悠助が見えていた。
「アノネ、ゲイユ。ツギモガンバルンダヨ。ボク、オウエンシテルカラネ」
メイゲイルはピョコンピョコンと耳を動かした後、悠助のほうをジッと見ている。
「パーパ。モウ、ゲイユナデテイイ?」
悠助はゆっくりと歩いてきた雄太のほうを振り返る。
「分かった、分かった」
雄太はメイゲイルに手を振ると、悠助を抱き上げた。
「ゲイユ、ゲイユ。アノネ、エガワセンセガ、リンゴアゲテモイイヨッテイッテクレタンダヨ」
悠助はメイゲイルの鼻面を撫でながら一生懸命に話す。モニモニと鼻面を撫でられ、メイゲイルは時折悠助の手に顔を押し付けている。
「悠助。そのリンゴはどうした?」
「アレ? アレ?」
「お前、ママにリンゴだよって言われたのに、ゲイルに会えるの嬉しくて玄関に置いてきただろ?」
悠助はハッとした後、泣きそうな顔をした。
「ボク、ゲイユニリンゴアゲタカッタノニ。ドウシヨウ」
「ママが持ってきてくれるってさ」
「マーマガ?」
「ああ。美理愛と俊洋と一緒にな。ママが来たらありがとう言わなきゃな」
「ウン」
しばらく悠助はメイゲイルの鼻面を撫でたり、顔を寄せたりしていた。
「悠助。リンゴ持ってきたよ」
「ア、マーマ」
雄太が地面に悠助を下ろすと、春香へと駆け寄った。春香の手にはタッパーの入ったビニール袋を見せた。
「マーマ。モッテキテクレテ、アリガトウ」
「うん。もう忘れ物しちゃ駄目よ?」
悠助は深く頷くと差し出されたビニール袋をギュッと握ってメイゲイルの元へ走った。
「ゲイユ、リンゴキタヨ。マタセテ、ゴメンネ」
春香はそんな悠助の姿を見てニコニコと笑っている。
(悠助ったら、本当にゲイルが好きなのね)
今日は乗馬教室もないからと、週末にレースに出るメイゲイルにゆっくり会えると言われて舞い上がったのだろう。
玄関にポツンと置かれていたビニール袋を見て、春香は雄太の携帯に電話をした。
『取りに戻って来たら悠助とゲイルが会える時間が減っちゃうから私が追いかけるよ。凱央が帰って来るまで、お義母さんに家にいてもらうから』
週末、メイゲイルは中山競馬場への移送があり、多少ならオヤツをあげても大丈夫と言われていたから余計に気持ちが高ぶっていたのは春香も理解出来る。
悠助も俊洋もメイゲイルにリンゴを食べさせてやり満足そうだ。
美理愛も二人のお兄ちゃん達が楽しそうなのが嬉しいようでベビーカーに乗って足をパタパタさせていた。
「雄太くん。気をつけてね」
「ああ。頑張ってくるからな」
翌日、中山競馬場へ向かう雄太に春香はお弁当を手渡した。
「新幹線の中で食べてね。塩崎さんの分も入ってるから」
「だろうな。俺の分だけって感じの量じゃないし」
「あはは」
明日誕生日を迎える雄太にフライングでのお祝いの意味もある。
「パッパ。イッテラッシャイ」
「行ってくるな、俊洋。良い子にしてろよ?」
「ウン」
雄太が膝をついて俊洋の頭を撫でていたその時だった。
「パー。バゥアゥア〜」
「え? 今……」
「パッパ、ガンバレッテ、ミリアガイッテル」
俊洋が通訳してくれた。
雄太はベビーウォーカーで大きく手をフリフリしている美理愛をギュッと抱き締めた。
「美理愛……。パパ、頑張ってくるからな? 帰ってきたら、いっぱい遊ぼうな」
「パー」
四人目であっても、我が子が『パパ』と呼びかけてくれるのが嬉しかった。
(俺……、嬉しい……。スゲェー嬉しい)
胸が熱くなる。愛娘の『パパ』が力を与えてくれる。
門扉の外から軽いクラクションが聞こえた。
「あ〜。名残惜しいな」
「ふふふ。気持ちは分かるけど、新幹線乗り遅れちゃうよ?」
「ああ。じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」
雄太は春香を目一杯抱き締めて中山競馬場へと向かった。




