872話
夕方になり、陽射しが少し柔らかくなった。
悠助と俊洋は、雄太と積み木の積み上げをしたりして遊んでいる。
春香は夕飯の下拵えを終えて、タオルで手を拭きながらチラリと壁掛け時計に目をやった。
「帰ってくる約束は夏は六時だっけ?」
「え? あ、うん」
時計を気にしてる春香に雄太は声をかけた。
真夏の六時はまだ明るいが、それでも街灯が少ないから車から小学校低学年の小さな体は見づらくなる。
しかも、これまで凱央は帰宅時間に遅れた事はなかったから春香の胸に少し不安がわく。
「まだ六時にはなってないけど、小学校の辺りまで見に行ってくるね。もしかしたら野菜が重くて自転車に上手く乗れないのかも知れないし」
「あ〜。それ、ありそうだな」
子供なら楽しくて、自分の限界を超えるぐらいにたくさん収穫してしまうかも知れない。
「俺も行く……って、もういないし」
悠助と俊洋を理保に預けて行くつもりの雄太の言葉を聞く間もなく春香は玄関を出ていた。
(凱央は、この道から帰ってくるはずだし……。え? 何……?)
小学校のフェンス沿いへ春香がたどり着いた時、複数の大人の怒鳴り声が聞こえた。
途切れ途切れに聞こえる声に春香は集中する。
「この人拐い……」
「……駐在さんに……」
「……待てっ‼」
心臓がバクンっと跳ねた気がした。
(人拐い? 人拐いって……誘拐って事?)
春香は声がするほう、小学校と幼稚園の間の道に向かって走った。
(こっちは凱央が帰ってくる道……。まさか……嘘だよね? 凱央っ‼)
声のする道に入った春香の目にうつったのは、大人達の手を振り切ってこちらに向かって走ってくる中年男性だ。
その後ろにあったのは、地面に転がる野菜と横倒しになった青い自転車とオレンジ色の自転車だ。
(あれは……凱央と尚道くんの……)
助け起こされている子供の足には血が流れている。
「チッ‼ 退けよっ‼」
(と……凱央っ⁉ 尚道くんっ⁉)
春香はスゥ〜っと深く息を吸い込んだ。男を見据える目に浮かぶのは怒り。
足を肩幅に開いて、腰を少し落とした。
「うちの……」
「邪魔だっ‼ どけっ‼ アマッ‼」
「うちの大事な子達にっ‼」
春香を突き飛ばそうとした男の右手を躱しながら、春香は拳を男の鳩尾に突き出した。
「ゴホゥッ‼」
声にならない声が男の口から漏れた。
間髪入れず、春香は突き飛ばそうと突き出した男の右腕に手をかける。
「何をしたぁ〜っ‼」
男の走ってきた勢いを利用して、そのまま投げ飛ばし地面に叩きつけた。
べシャン‼
何かが潰れたような音を立てて、男はアスファルトに転がった。
驚いたのは追いかけてきた人々と交番から駆けつけた警察官だ。
小さな女性が大きな中年男の腹に正拳突きを喰らわせた後、一本背負いを喰らわせたのだから。
春香は立ち尽くす人々をその場に残し走り出していた。春香の姿を見て声を上げたのは、やはり凱央と尚道だった。
「マ……ママァ……」
「トキくんママァ……」
膝を擦りむき血を流しながら、涙を溢れさせていた二人を春香は抱き締めた。
「凱央……、尚道くん……。怖かったね。もう大丈夫だからね」
「うん……。ママ……」
「うん……」
遠くから救急車と複数のパトカーのサイレンが聞こえてきた時、警察官の一人が近寄ってきた。
「救急車のほうに。えっと……お母さんですよね? 同乗してください」
「あ、はい」
春香は凱央を抱き上げ、警察官が尚道を抱き上げ、救急車のほうに歩いていく。
春香は投げ飛ばした男の横を通り過ぎる時、立ち止まり睨みつけた。
「ヒィ……」
男の顔に浮かんでいるのは恐怖だ。警察官に支えられた体はガクガクと小刻みに震えている。
「あなたがどういう人か知らないけど、これだけは覚えておいて。今度、この辺で見かけたら一生後悔させてあげるから……」
男はコクコクと頷き、春香から目を逸らした。
今の時点では、この男がどういった罪に問われるかまでは分からない。
だが怯えた男は二度と表れないだろうと、周りにいた皆が思っていた。




