10年の回想
9 生まれてからの十年間~回想~
かつてのココットはこの部屋にいた。
その頃は当然ココットという名前ではなかった。
いやココットは名前すらつけられず『アレ』、『ソレ』、『コレ』などと呼ばれていた。
その記憶すら自分で消してしまっていたが、ココットはここで生まれてから十年間生きていたのだ。
食事や入浴といった最低限の時でしか、修道女たちはこの地下室に降りてはこなかった。
まあいろいろと他の目的で来ていた者もいたが…。
ココットとは王妃に賜った名前である、それまで十年間自分のことすらわからぬ、少女はそれでも必死に生きていた。
限られた空間の中で、修道女達が言う恐ろしい言葉を毎日繰り返し聞きかされて、他に聞くことと言えば『三騎士』の伝説しかなかった。 室内に眩しい光と、蝋燭が一本降りてくるその時が食事か入浴の時であった。
一本が一時間持つか、持たないかの頼りない明かりを大事に抱えてココットは暖を取っていた。
ずっと孤独で、温もりを知らなかったココットにとって、この蝋燭の明かりは唯一の暖かさであったといっても過言ではない。
一日僅か四本だけ与えられる一時間ほどの明かりを、ココットは心の拠り所としていた。
『ほら、ご飯だよ』
いつもそう言ってココットは、上からロープで下ろされてくるバスケットに入った食事を受け取っていた。
食事でも同じ部屋に入りたくないというものは、こうしている。
そして最後に鈎針の先につけられた蝋燭の入ったランプを受け取る。 修道女が地下室の入り口を閉めた、蝋燭一本の明かりの中での静かな食事がココットの日常であった。
僅かなパンとスープ、そして野菜。ごく稀に肉が食べられた程度の、育ち盛りであったココットにしてはあまりに少ない食事であった。
当然足りないのでココットが『もっとほしい』と懇願すると、『贅沢言うんじゃない! 食べられるだけでもありがたく思いな』と冷たく突き放された。
ココットの日常は常に冷たい言葉と、心無い言葉で一日が始まりそして終わった。
例えば…
『お前はここにずっといるんだ。 ずっとずっとここにいて私達と一緒に死ぬんだ。 そうこんなに皺しわだらけになってぼろぼろになるまでね』
『生かされているだけでも、ありがたいと思いな。 北領の領主が何故あんただけ処刑しないのか、全く不思議なほどだよ』
『お前はこの世に生きていてはいけないんだ。 だから私達以外の誰にも見つからないように、ここでずっと生きていくんだよ? お前は誰にも知られずに、隠れてなけりゃいけない。 この真っ暗な中にずーっと、ずっといるんだよ』
『お前みたいなのが生きていられるのは、私達のお陰なんだ。 こうして生かされることを感謝しなさい』
『とてもとても真っ暗なのよ? この世は真っ暗でお前はこの真っ暗な中でしか生きられないの』
『みんながお前を憎んでいる。 悲しくて辛くて泣いて…そしてそれはお前のせいだと、みんながお前に対して怒っている。 お前は邪魔なのよ』
などなど…大勢の修道女達が交代に、順々にそう幼い頃のココットに刷り込んだ。
泣いても笑っても殴られ続ける毎日にココットは、次第に心もぼろぼろになっていく。
感情を表に出すまいと下唇をかみ締め、心に何も響かないように自分の心を空っぽにし、自分の殻で必死に自分を守っていた。
(生きるって何…? 死ぬって何…? 今の私と何が違うんだろう…?)
虚ろなココットは虚ろなまま、大して言葉も覚えぬまま、その言葉の意味すら理解できずにココットはずっと心を閉ざしていた。
それがだいたい生まれてから九歳頃までの事だ。
そしてさらに付け加えるなら、ココットが最初覚えた言葉は『イタイ』・『イヤダ』・『ごめんなさい』であった。
しかし当時のココットは優しいと思っていた人もいた。
その優しい修道女は、ココットにいろいろな言葉の意味を与えた。
真っ暗な部屋で蝋燭の灯っている間だけ側にいて、ココットを抱きしめたり、頭を撫でたりした。
その当時は優しい人だと信じていた。 側にいると暖かく、抱きしめられるとふわふわとした気持ちになる。
ココットはこの人なら大丈夫と、昔はそう信じていた。
『ごはんよ、おいで』
優しく手を差し伸べるような声と大好きな蝋燭の明かり、そして優しい修道女が側にいる時間が好きだった。
ココットは目が蝋燭の明かりに慣れるまで待って、そろりそろぉりと床を這い出して行く。
両手で食べ物を掴んで、もぐもぐと口を動かした。
『どうしたの? 今日はあまりしゃべらないのね? 何かあったの?』
口を動かしていたココットは、ふと動きを止めてじっと優しい修道女を見た。
『今日、また、言われた…。 「死ぬ」ってナニ?』
蝋燭の明かりの中、小首を傾げるココットに、優しい修道女は言った。
『死ぬ…死ぬって言うのはね、遠い所に行ってしまうこと。 死んでしまったらね、もう二度と戻って来られないの。 体が冷たくなって、もう動けなくなって、心も死んでしまうこと。 そうなったらね、もう誰にも助けられないの。 どんなに祈っても、誰が願っても、決して助からないのよ』
優しい修道女の言葉に、まだ良くわからないとでも言いたげにココットは眉根を寄せた。
『ソレハ、寒くて動けなくなるのと、オナジ?』
ココットは長い間あまり誰ともしゃべることがなく、片言でそう言った。
自分自身の言葉の発音が、滑稽なのは承知していたので、ココットはそれが少しだけ恥ずかしかった。
悲しげに首を振った修道女は、曖昧な笑みを浮かべて『それは違うわ』と言って、後はうやむやにした。
『上、行きたい…。 ここ、イヤ…寒くて、つらくて…悲しいから、上に連れていって? お願い、上のマブシイ所に行きたい!』
優しい修道女が地下室から出るとき、ココットはその衣服の裾に取り付いて懇願する。
そしていつも優しい修道女はこう言った、『そのうちね』と。
明るい地上に通じる扉はいつも閉ざされて、ココットはいつもその真っ暗な部屋に一人ぼっちであった。
真っ暗な闇が恐ろしかったココットは、どうしても逃げ出したかった。
蝋燭の火はずぐに溶けてしまうか、すぐに消えてしまうのが落ちだ。 服や布を燃やそうとした、いつも巻きつけている毛布を燃やそうとした。
それが修道女達に見つかってひどく叩かれた。
でもココットは火事なんて言葉を知らないココットは仕方なかった。 だから修道女達は、火に炙った鉄の棒をココットの腕に押し当てた。 一七歳となったココットの腕にも、うっすらとその火傷の跡は残っている。
それでもココットはここから逃げたかった。
『ここから逃げたい』そう言ったことは何度もある、だがその度に修道女達からは『ここからは逃げられない』と言った。
生まれてから過去十年間のココットの少女時代は、まさに暗闇の時代と言えた。