出会った姉妹
10 鏡の映しの少女
7年前、幼いココットはある日、突然外に出る事を許された。
地下の部屋から、半ば引きずり出されるように引っ張り出されたココットは、顔に布を巻きつけ、雪の中の外に出された。
何故外に出されたのか、その理由はわからないが、外に出された理由は簡単であった。
一年の大半を雪に覆われたこの教会には誰もくる人間などいないからである。
綿の入った靴を履いて、いつもの真っ白なワンピースに白い綿入りのコートを纏って、外に一人で出された。
目隠しされた状態のココットに修道女は、「そのままそこにいなさい」と言った。
だからココットはそのままじっとその場で立っていた。足が冷たさに痺れて、布靴の中に溶けた雪が染みこんで痛くすらあった。
でも座ればそれこそ何を言われて、何をされるかわからなかった。
だからココットは我慢した。 怖くて寂しくて、悲しくて、痛くても唇をかみ締めて我慢した。
普通この地方の子供達は中に綿の入った長靴を履き、綿入りの服や、セーターを幾重にも重ねて着る。
それほどこの北部の地方は寒いのに、ココットはそんな事さえ知らずに言われた通りに立っていた。
意識がぼぅっとして、どこかに行ってしまいそうな気がした。
遠のくと、もう二度と元には戻って来れないかのような錯覚すら覚える中で、ココットは凍えていた。
そしてそうなる頃に、修道女たちが地下の部屋にココットを連れ戻す。
そんな日が数日続くと、ココットは目隠しなしで外に出る事を許された。
寒い真冬の空の下、ココットはじっと、その場に揺らめく陽炎か何かのように、虚ろに、亡霊のように突っ立っていた。
ただ一人じっと、誰もいない、誰も来ない真冬の空を見上げる。
空は高く、澄んだ青空であった。白い雲が真綿のように流れていく青い空を、ココットはじっと、何時間も飽きることなく見詰めていた。
ナゼ コンナニ “外”ハ キレイ ナンダロウ?
ココットはそう思いながらそっと教会の白い壁から離れた。
サクサクサク……と冷たく、まっさらな雪を踏みしめて軽い足取りで歩く。
すると雪が僅かに積もった木の柵にぶつかった。
格子状に組まれた木の柵をどうしていいのかわからず、ココットはその場で立ち止まった。
柵の合間から見える知らない“外”に興味を抱いたが、ココットは手を伸ばす事さえできなかった。
そうやってまたじっと外を見ている。
毎日がそれの繰り返しであった。
そんな真冬の、寒さの一番厳しい晴れた日に、ココットは木の柵の向こう側、森の木々の奥に何かを見つけた気がして、じっとその一点に目を凝らした。
髪にピンクのリボンを結び、赤い生地にピンクのリボンで縁取りがされたコートを纏い。 暖かそうで、頑丈そうなブーツを履いた可愛い女の子が、木々の合間を跳ねるように走り寄ってきた。
木の柵の前で止まった少女は、ココットが何日も触れる事すらできずにいた柵に手を伸ばし、小首を傾げてこう言った。
「何しているの?」
ミルクに緑の葉を溶かしたかのような淡い緑の髪、団栗のような茶色い瞳、ココットは気づかなかったが、少女とココットは全く瓜二つの姿をしていた
好奇心に目を輝かせた少女は、ココットにはとても生き生きして見えた。
お互いに人形のような面立ちなのに、片や亡霊、片や生き生きとした花の様。
何と言っていいものかわからず、ココットが首を傾げると、女の子は更に木の柵に近寄ってきて、今度は質問を変えた。
「あなたお名前はなんていうの?」
「なまえ?なまえってナニ?」
再度首を傾げたココットを、不思議な顔で見詰める少女もどう説明して良いかわからず、途方に暮れて首を傾げた。
「なまえは、なまえよ?」
ココットは全く理解できない、少女はそんなココットを何故理解できないのかと不可解な目で見詰める。
「パパとママは?」
「パパ?ママ?」
再度首を傾げたココットに、少女は苛々したようにヒステリックに叫んだ。
「わからないのどうして」
むっとしてほっぺたを膨らませた少女に、ココットは俯いて小さく呟いた。
「ごめんなさい……、わからないの」
反省している……というか、あまりのココットの落ち込んだ悲しげな顔に、少女も言葉を詰まらせた。
「まぁいいわ。それにしてもあなたと私はそっくりだと思わない?どうしてこんなに似てるのかしら?」
少女が言った言葉の意味がわからず、ココットはまた首を傾げた。
「そう思わない?……あなた鏡見たことないの?」
「うんん、ない。 どんなものかは知ってるけど、見たことない」
ココットがそう言うと、少女は驚いた顔をして、目をぱちぱちとさせていた。
「それならここに明日持ってきてあげる!」
そう言って少女は、名前も告げずに帰っていった。
その後姿を、ココットは木の柵にしがみついてじっと見送った。
少女と会ったことは誰にも話さなかった。
優しい修道女ですらココットには恐ろしいほど怖い時があるからだ。
ココットはあの少女から、少しだけ生きる元気をもらったような気がして、少しだけ心が温かくなった。
でもそんな喜びでさえ、顔に表せば気味が悪いと叩かれる。
だからココットはいつもの仮面を被った。貝のように口を閉ざし、顔の表情すら唇を噛み締めて押さえ込む。
静かな部屋の中で、いつもより穏やかに眠りは訪れた。
その翌日も少女はやってきた。約束通り小さい手鏡を持って走ってきた。
ココットは柵の前でぎこちなく微笑みながら、少女を待っていた。
少女は柵の合間から、手鏡を渡してニヤニヤとココットを見ていた。
「ほら、そっくりでしょう?」
そう言う少女を、手鏡を持ったココットは少女が実は、鏡に張られた硝子の向こうで動いているのではないかと何度も何度も見比べた。
ココットとそっくりな少女は、ほぼ四日ほど毎日会った。短い期間であったが、ココットにとっては生まれて始めて楽しかった瞬間と言えたであろう。
少女は少し我侭な所があるけれど、優しい少女であった。
例えば…。
「名前がないとやっぱり不便ね。 そうだ!私がつけてあげる!
んーと…ねぇ、そうだ!シャロンにしよ? 我ながらいい名前だわ!」
「シャロン…?」
僅かに顔を曇らせたココットに、少女は誇らしげに力説した。
「知らないの魔王に愛されて閉じ込められていた女の人で、三騎士の一人ティルノスに愛されてお嫁さんになった人よ!」
ココットはすまなさそうに、小さな声で「知ってる……」と言ったが、そんな事は眼中になかったらしい。
「私はシャロットよ。 よろしくね、シャロン?」
自分のネーミングセンスにうっとりしている少女シャロットは、ココットの事などおかまいなしである。
幼い頃からココットは『三騎士』の話を聞かされ、自分は生きていてはいけない魔女だと、教え込まれたココットにとっては、『三騎士』にちなんであることが何よりも嫌であった。
だがそれを言えば、シャロットを失ってしまうような気がして、ココットは何も言えなかった。 それほどココットにとって始めての友人にして、名をくれたシャロットを失いたくなかった。
その他には、シャロットがクッキーを持ってきた時である。いつものように木の柵に、パタパタとシャロットが駆け寄ってきた。
その手には小さな包みが握り締められている。
「今日はクッキーを持ってきたのよ?シャロンにも一枚あげるね?」
そう言ってシャロットは柵の越しに、五枚あるうちの一枚のクッキーを渡した。
そして自分の口には、一枚を丸ごと口の中いっぱいに頬張る。
ココットは初めて口にした、四角い形のバタークッキーが、とても甘く美味しく感じられた。
ココットが半分口にして、あまりに美味しそうな顔をしたので、シャロットは手の中に残っていた二枚のうち一枚を、シャロットに無言で差し出した。
「ありがとう、シャロット」
微笑んだココットの顔を見て、シャロットは横を向いた。
よりにもよって何故こんなに自分とそっくりな顔で、こんなに嬉しそうに笑うのか、
「こんなこと大した事ではないのに…」と、シャロットは気恥ずかしく、照れくさそうに笑った。
「シャロット…」
無意識に腕を伸ばしたココットは、自分のあげた声で現実に引き戻されていた。
暗い部屋の中、一七歳のココットは真っ暗な闇の中で、薄汚いマットレスの上で毛布に包まっている。
最初にここに連れ戻されてから、一体どれほどの時間がたったであろうか?
ココットは寒さに身を振るわせ、毛布を更に強く衰弱した体に巻きつける。
ココットはここに来るとすぐ、熱が出て、寒気のする体を必死に温めようと体を小さくし、ずきずきと鈍く痛む頭を抱えるように眠った。 熱が出始めてから、ココットはああ言った昔の夢を、まるで回想するかのように、見るようになっていた。
しかし、この地下室にいた記憶をココットはほとんど自身で封じている。
今だに自分がシャロンであったのか、シャロットであったのか、この時点のココットにはわからないでいた。
(私はココットなのに…、どちらかが私だなんて、そんなことあるわけがない。 でも……シャロンと呼ばれていた、名前がない子の記憶がどうして私にあるの? もし始めからココットだったのなら、シャロットと言う少女が私でもいいのに。でも、そうだったら私は、あんなに酷い目に会ってないだろう。私は結局どっちなの?……私はいったい誰なんだろう?)
ココットは熱に浮かされて、自分が何を考えているのか、何でこんなところにいるのか、まったくわからないほど思考力が低下していた。
そんなココットはまた夢の中に落ちていく。 まるで昔忘れた記憶を取り戻そうとするかのように静かに深く。
シャロットと会えるココットは、幸せのうちに日々を過ごしていった。
しかし平和な日々は、そう長くも続かなかった。
シャロットは教会に4日ほど来なくなかった。でもココットは白い雪と、青い空をじっと見ながら待った。
最初シャロットがここに来た時のように……。
それからさらに数日、ずっとココットはシャロットを待ち続けたが、結局いくら待ってもシャロットは来ない。
その日も地下の部屋に戻された後であった。
部屋の真上で、優しい修道女と、他の修道女が話しているようである。
「アレは最近、やたらと自分の母親と父親の事を聞きたがるんだけど、誰かと話して、どうやらいらぬ知恵をつけているみたいよ?」
優しい修道女の声がしてそう他の修道女に問い掛けている。
ココットは毛布に包まり、優しい修道女が何を話すのか息を殺して耳をすませた。
「あんたまさか、言ったんじゃないでしょうね?」
じろりと蛇が蛙を睨むような、ぎくりとするような声に思わずココットは身震いした。
この声は、ココットが一番嫌いなヒドイ修道女の声であったからである。
「当たり前でしょう言うわけないじゃない。
私はそんな事言ったりしないわよ、それなら誰かが教えてるんでしょう?
誰よ、私以外に話をしている物好きの偽善者は?」
口汚く、吐き捨てるように言った優しい修道女の言葉は、ココットの心に刃を突きたてるようにぐさりときた。
「そのことなら分かっているわ、あの役に立たないご領主様から注意がきたもの。 どうやらあそこのお嬢様が遊びにきているらしいわ」
ココットにとっては、その他大勢というグループに含まれる修道女がそう言った。 その言葉に、ココットはシャロットの事を言っているのだと理解した。
「あぁ、それで…。 まったく親子揃って、どうしようもないというか……。 そっか、あのお嬢様は知らないのか、自分の姉が魔女で、ここに閉じ込められているって事に。 可哀想にねぇ」
優しい修道女が言った言葉に、ココットは一瞬呼吸すらする事を忘れた。
(私とシャロットが……?)
驚愕の事実であったが、それなら良く似ている事、いや、似すぎていることの説明がつく。
「ねぇ、そう言えば何故領主達は、あの子を殺さないのかしら?」
人目に触れるのが困る子供なら、消してしまえばいい。という一番年若い修道女の意見に、先輩格の修道女達は説明した。
「あそこの一族呪われてるのよ。 先先代の領主の前からそうだったらしんだけどね? 二十歳から四十の年が来る前に、だいたいの人間が発狂してしまうのよ。 一時は一族同士の殺し合いもあって、滅びかけたって噂まであるわけ。 それで、あの家では、妾腹の子供の、だいたいの位置まで把握しておくの。そしていざと言う時には、その子供を領主に立てて、家名の存続をはかろうってわけ。
だからアレにもそういう人生が、巡り巡れば、やってくるかもしれないって事なのよ。 まぁ今だにこんな事やってるしねー。 バレるわけにはいかないのよ」
ココットは、シャロットと自分の関係を考えるのに必死で、そんな言葉は耳を通り過ぎていった。
「このなかではあんたが一番冷酷よね、アレには味方の振りして優しくして、私達の前では蔑んでは笑っているんだから」
「仕方ないでしょ? あの馬鹿を相手にしていると、頭がおかしくなりそうになるんだもの。 馬鹿は馬鹿らしく何も知らないまま、怯えてれば可愛げがあるのにさっ」
優しい修道女に向けられて言葉を、下でココットが聞いているとも知らずに優しい修道女はそう言った。
「まぁ、取敢えずその事はそうそうに片がつくわね。 あの子はもう二度と……」
他の修道女が思い出したように付け足した。
「そうね、もう二度とあの子は、分から外に出る事を望まない」
そしてその修道女の言葉を、ココットが一番嫌いな修道女が引き取った。
ココットはもう何も聞こえず、聞こえても信じなかった。
なぜなら耳を塞ぎ、静かに涙を流し、嗚咽は唇を噛み締めて我慢していたからである。
信じていた人の言葉に、ココットの心は激しくずたずたになった。
空っぽの心に逆戻りしたココットは、ずっと待ち続けた日やっとシャロットが来た。
「ごめんね、シャロン。ずっと来れなくて……私、お父様にもう二度と会っちゃ駄目って言われたの」
シャロットは柵越しに、しゅんとしていた。
それが何か悲しくて、ココットも悲しげな顔をした。
「うんん、いいの。あなたは私にいろいろ教えてくれたから、それだけでいいの」
ココットは、いろんな事を教えてくれたシャロットにお礼が言いたくて、そしてまたシャロットの笑った顔が見たくて「ありがとう」と言った。
するとシャロットは泣きそうな顔になって、柵にしがみついて、押し殺した声で叫ぶように懸命に言った。
「そんなの誰でも知っているわ!どうしてこんな所にいるのこんな所にいるなんて間違ってるわ!
一緒に私の『お家』に行きましょそこならきっとこんなに怖い思いはしなくていいのよ」
ココットは、こんなにも必死になってくれるシャロットが羨ましく、同時にもしココットにとっての『お家』がこの教会なら、シャロットの『お家』と言うのもこんなところだろうか?と思った。
(だとしたら、なんでこんなところにシャロットは帰りたがるのだろう?)
一般家庭を知らないココットにとって、それは純粋な疑問である。
一瞬尋ねてみようかとも思ったが、ココットがそんな事を言えば、シャロットはまた怒りだしかねない。
だからココットはこう言った。
「ごめんね、とってもウレシイけど……私はココから出られないの」
ココットにとってこの場所、あの地下の真っ暗な部屋こそが全てであった。
それは始めから終わりまで、あの部屋でずっと、一生暮らしていくということを理解し、またそれから自分は『逃れる術を持たない』いうことを、感として感じた上での言葉である。
「そうですよ、シャロットお嬢様。 この子はココでしか生きていけないんですから」
そう言ったのは教会の修道女であった。
何処からともなく現れて、ココットの真横に立った。
ココットは怖かったが、表情だけはいつもの無表情に戻し、がたがたと震えていた。
「どうしてシャロンをこんな所に閉じ込めるの? なんでシャロンは何も知らないの」
シャロットは、修道女を「この悪魔!」といかにも罵りそうな所で踏みとどまった。
それはお嬢様として、そんな言葉だけは言えないと止まったのか。「神に仕える修道女に、そんな暴言は言えない」と、踏みとどまったのかわからない。
しかしそんなシャロットを、修道女は一瞥して、ため息と共にこう言った。
「お嬢様、勝手にお屋敷を抜け出されては困ります。 お父様がカンカンにお怒りですよ? それにこの子が何を言ったかは存じませんが、嘘を間に受けられても困りますわ。
この子は体も、頭も弱くてこの敷地の外に出られないだけで、閉じ込めているつもりもありませんわ」
ココットを見下ろしながら、修道女は「この子しゃべり方も変でしょう?」と言った。
それは満足に人と会話を交わしたことがないせいで、言葉の発音や文法がうまく形成できないせいであった。
しかしココットは自分からは悲しくても何も言えない、そしてそんな理由さえわからない。
ただ虚ろな目でシャロットを見詰めている。
シャロットは納得するところが多くあったので、反論の言葉が見つからない。
「さぁ、お嬢様。 お父様が心配していらっしゃいますよ?館にお帰りなさい」
修道女がそう言うと、シャロットは何か言いたそうに口を開きかけたが、何も言わずに木々の影に隠れてしまった。
「来なさい」
修道女の静かな命令に従って、ココットは教会に戻った。
修道女お顔は蝋燭の蝋のように真っ白で、冷たく怒りに満ちた瞳でココットを見下ろしていた。
パシッと乾いた音がしてココットの頬が叩かれ、ココットは勢い余って床に倒れこんだ。
「お前の罪を言いなさい。 シャロットお嬢様と何を話し、何をしたの?」
ココットは怯えて震えるだけで、何も応えられなかった。
「何も言えないの? それほど大事?」
(違う…、ただ口が動かないだけ……)
胸倉を掴まれたココットは、虚ろな目で修道女を見つめる。
「そんなに言いたくないの?」
(チガウ……、声ガ出セナイダケ……)
ココットは舌の根がひりひりとするほど、喉がカラカラに乾いている気がした。 そしていつまでも癒える事のない渇きが、今全身を支配しているような。
しばらく修道女に殴られるまま、されるがままになっていたココットはしばらくして口を開いた。
「名前をもらいました…」
「そう、シャロンという名前ね? お前には過ぎた名前です。 自分でも必要がないと、その名を戴くことができないというのが分かりますね?」
「…はい」
修道女が望むがまま、そう返事を返すと、修道女は満足そうに笑った。
「その名前を忘れなさい、それはお前のものではありません」
「はい……」
そう答えた瞬間、ココットの中で何かが壊れていくような気がした。
ココットは涙すら流せない乾いた瞳で、虚空を見ながら一つの事を思っていた。
(ごめんね、シャロット…。 ゴメンネ……)
ココットは地下に放りこまれ、暗闇の中、誰もいなくなってから密やかに泣いた。




