第1話 モテる悩み
冬野陽向。それが俺の名前だ。もっとも、俺自身よりも先に、いつも「顔」の方が覚えられてしまうのだけれど。
物心ついたときから、俺の周りにはいつも「可愛い」という言葉が転がっていた。
近所のおばさんも、幼稚園の先生も、親戚のおばあちゃんも、俺の顔を見るたびに目を細めて、判で押したように同じ台詞を口にした。可愛い可愛い、将来が楽しみね。その言葉を向けられるたび、俺の中で小さな違和感が積もっていったことに、大人たちの誰ひとり気づいていなかったと思う。
*
自分の顔が「良いもの」らしいと、はっきり自覚したのは小学四年生の秋だった。
体育の授業で50メートル走をやったときのことは、今でもよく覚えている。号砲が鳴って、俺は無我夢中で走った。結果はクラスで二番。一番でも三番でもなく、二番だ。それなのに、ゴールした瞬間、女子たちの間から「陽向くーん、はやーい!」という黄色い声が上がった。一番でゴールした関口という足の速い男子には、誰も歓声を送っていなかった。関口は俺の隣で、複雑そうな顔をして立っていた。
「なんで俺じゃなくて陽向なんだよ」
誰にともなく呟いた関口の声を、俺は聞かなかったふりをした。
委員会を決める日も同じだった。図書委員のペアを希望する女子が、なぜか俺のところにだけ集中して、担任の先生が困ったように笑いながらくじ引きを提案した。「みんな陽向くんと組みたいのは分かるけど、順番にね」――先生の何気ないその一言に、教室がどっと沸いた。俺だけが愛想笑いを浮かべながら、内心では冷めた気持ちでその光景を眺めていた。
俺は別に何もしていない。速く走ったわけでも、誰かに優しくしたわけでもない。ただそこにいるだけで、何かの得点をもらっているような気持ち悪さがあった。男子からは「陽向はいいよな、モテて」と、からかい半分、妬み半分の言葉を投げつけられる。誰かに相談しても、きっと同じ反応が返ってくるだけだ。だから俺は、その違和感を誰にも言わないまま、自分の中だけに沈めておくことにした。
そのころ夢中になっていたゲームがきっかけで、俺は三国志や日本の戦国時代を知った。関羽の長い髭、伊達政宗の眼帯、武田信玄の兜――そこにいる男たちは、みんな傷や皺や、厳めしさそのものを誇りにしていた。可愛いなんて言葉とは無縁の、骨太で、男臭くて、それでいて誰もが憧れずにいられない強さを持っていた。
俺も、こんな顔に生まれたかった。
そう思うようになったのは、たぶんこの頃からだ。自分の顔が「武器」だなんて、周りは軽々しく言う。でも俺にとってそれは、自分の意思とは無関係に貼られたレッテルでしかなかった。選んだ覚えのない称号を、勝手に押しつけられているような感覚だった。
*
中学に上がると、その悩みは加速度的に重くなった。
朝、下駄箱を開けると封筒が入っている日が増えた。名前も知らない女子からの手紙。廊下ですれ違いざまに告白されたことも、一度や二度ではない。中学二年になる頃には、陰で「陽向くんファンクラブ」なるものが存在しているらしい、という噂まで耳にした。
同じクラスの数少ない男友達に、酒の席ならぬジュースの席で愚痴をこぼしたこともある。「モテて何が悪いんだよ、贅沢言うな」――返ってきたのはその一言だった。それ以来、俺はこの手の話を誰にもしなくなった。顔のことで悩んでいると口にした瞬間、自分がひどく傲慢な人間に見られてしまう。それが分かっていたから、俺は誰にも打ち明けられないまま、ただ淡々と日々をやり過ごしていた。
そんな中学三年生のとき、俺は同じクラスのある女子に、密かに心を惹かれていた。
小野早苗。
三つ編みに黒縁の眼鏡、地味な印象の女子だった。クラスの一部からは「芋くさい」と陰口を叩かれ、その垢抜けない雰囲気と苗字をかけて「小野妹子」というあだ名をつけられていた――昔の教科書に出てくる、遣隋使のあの人物の名前だ。本人が気にしている様子はなかったが、明らかにからかい混じりのあだ名だった。
早苗は、休み時間もいつも一人で本を読んでいた。ある日、彼女の机の上に置かれた文庫本の背表紙が目に入った。戦国時代を舞台にした歴史小説だった。俺が好きでよく読んでいるシリーズと同じ作者のものだ。
それだけのことが、俺にはひどく嬉しかった。
誰も彼も、俺の顔ばかりを見て何かを言ってくる中で、早苗だけは違う世界を見ているような気がした。物静かで、誰かにこびることもなく、ただ自分の好きなものを静かに愛している。彼女になら、顔じゃない部分の自分を見てもらえるかもしれない。そんな根拠のない期待が、いつの間にか胸の中で膨らんでいた。
同じクラスには、麗奈という女子もいた。派手で、いつもクラスの中心にいるタイプの女子だ。廊下でふざけて俺の腕に絡んできたり、休み時間に机までやってきて話しかけてきたりする彼女を、俺は内心うんざりしながら適当にあしらっていた。麗奈が俺に好意を持っているらしいことは、周りの空気でなんとなく察していた。
そして、そういう麗奈の存在が、早苗のような子から見れば、俺という人間をますます「遠い世界の住人」に見せてしまうのだろう、ということにも、俺は薄々気づいていた。
*
それでも、ある日の放課後、俺は思い切って早苗に声をかけた。
「その本、面白い?」
図書室の隅で本を読んでいた早苗に、俺はできるだけ自然な調子でそう尋ねた。彼女は顔を上げ、俺を見た瞬間、驚いたように目を見開いた。
「……え、っと」
彼女の視線が泳いだ。まるで、話しかけられること自体を想定していなかったかのように。
「その作者、俺も好きで。前巻から読んでて」
なんとか言葉を継ぐと、早苗は少し戸惑いながらも、ぽつりぽつりと感想を話してくれた。あの合戦の場面が好きだ、あの武将の最期が切ない――たどたどしくはあったけれど、そこには確かに、彼女自身の言葉があった。俺はそれが嬉しくて、しばらくの間、時間を忘れて話し込んだ。
その日を境に、俺は折を見て早苗に話しかけるようになった。共通の本の話、授業の話、なんでもよかった。最初のうちは、彼女も短いながら言葉を返してくれた。「今度出る新刊、読む?」「……たぶん」。「あの武将、実際はどんな人だったんだろうな」「わ、私も気になってた」。ぎこちないなりに、確かに芽生えかけていた何かがあったはずだった。
けれど、それは長くは続かなかった。
ある日の昼休み、廊下で早苗に声をかけようとしたとき、後ろから麗奈が「陽向くーん」と甲高い声で駆け寄ってきた。麗奈は俺の腕にするりと自分の腕を絡ませ、聞こえよがしに「お昼、一緒に食べようよ」と言った。
視界の端で、早苗が足を止めるのが見えた。彼女は俺と麗奈を一瞬だけ見て、それから何も言わずに、そのまま廊下の向こうへ歩き去っていった。
その背中に、俺はもう声をかけることができなかった。
翌日から、早苗の態度は目に見えてよそよそしくなった。話しかけても、以前のようなたどたどしいなりの言葉は返ってこない。曖昧な相槌と、逃げるような視線だけが残った。
クラスの中で俺と早苗の距離だけが、なぜかいつまでも縮まらなかった。
その理由に、俺はまだはっきりとは気づいていなかった。




