番外編:アリスティアはかく語りき
「――お前との婚約は破棄させてもらう。アリスティア」
聞き慣れた言葉に、私は耳を疑った。
(何ここ……もしかして、『デスデス』の世界……⁉)
『死の運命から/貴方を守りたい』、通称『デスデス』は、ここ最近私がはまっている乙女ゲームである。
スマホアプリとは思えないグラフィックの美麗さ、洗練されたキャラデザはもちろん、あまりにも多岐にわたるメインストーリーの豊富さに、一時期は寝食を惜しんでプレイしたものだ。
一応全キャラの攻略を終えた今は、最推しのレオンを愛でるべく、時折イベントを走る(注釈:他プレーヤーとスコアを競いながらプレイすること)程度である。
昨夜もお風呂上がりのまったりとした心地の中、ベッドに寝転んでランキング一桁を目指していたはずだったのだが――気がつくと外。おまけに衆人環視の只中に放り出されていたのだ。
(もしかして夢? それにしては空気感といい匂いといい、妙にリアルなんだけど……)
少し意識すると右手が動いた。もしかこれが白昼夢というものか、と私はおそるおそる顔に手を当てる。視線を下げたそこには見慣れた制服があり、それが『デスデス』の女子制服であることが分かると私は一気に狼狽えた。
(えっコスプレ? 私変身願望あったの⁉)
だが違うのは服だけではなく、肌はすべすべ、指先は白魚のようにほっそりとしている。おまけに時折視界に入る髪は金色で、私はもしやと息を吞んだ。
(もしかして私……アリスティアになってる……?)
アリスティア(名前変換可)。
この『デスデス』の主人公であり、乙女ゲームの主人公としては珍しいほど、同性からの支持を集めるキャラクターだ。パラメーターを上げる前は、ちょっと天然でぽやっとしたただの可愛い女の子なのだが、各男性陣と恋に落ちるため能力を上げていくにつれ、男前な部分が開花し始める。
最終的には学園の地下に眠るラスボスと対峙するため、剣はおろか重火器やロケットランチャーまで構えてしまうという、近年まれに見る武闘派主人公であった。
まじか、と私はあまりに都合のいい夢に震えを走らせる。そこでようやく、先ほどかけられた声の方を振り仰いだ。
そこにはモデルのようなスタイルに違和感のない銀髪。切れ長の青い瞳を持ったイケメンが立っていた。私はしばしぽかんとした後、ええええっと心の中だけで絶叫する。
(も、もも、もしかしてあれ、ヴィルヘルムなの⁉)
元々はアリスティアの婚約者。だが他の女にうつつを抜かしたあげく、一方的な婚約破棄を叩きつけてくる悪役――ヴィルヘルム。
攻略ルートがないくせに、やたらと力の入ったキャラデザに、一時はデザイナーの贔屓を疑っていたほどだ。おまけにこの後も何かとアリスティアにちょっかいをかけてくる、実に嫌なサブキャラである。
私も御多分に漏れず、さして好きな方ではない。
ブラインドのランダム商品で、ヴィルヘルムが三つ出た時はさすがに泣いた。
(見た目はまんま立ち絵のヴィルヘルム……だけど……)
どうやらイベントの真っ最中らしく、ヴィルヘルムはその冷たい眼差しで、こちらにびしばしと睨みつけていた。だが私はその視線を受けつつ、思わず彼に見惚れしまう。
(え、なに……顔が……めちゃくちゃ良い……!)
デスデスは、優れた絵師によるキャラクターが売りのゲームである。そのため例えサブキャラであっても、顔の良さに関してはメインのキャラたちと何ら遜色なく――むしろデザイナーの贔屓を確信するほど、ヴィルヘルムの美貌は素晴らしかった。
だが私が感動と感激で言葉を失っていると、途端に胸の奥底から途方もない悲しみが湧き上がってくる。どうした⁉ と驚く暇もなく、私の瞳は勝手に艶々と水気を帯びたかと思うと、慌ただしくその場に立ち上がった。
そのまま逃げるように走っていく。私は何が何だか分からないまま、体だけが違う意思で動くという奇怪さに怯えつつも、とりあえず身を任せた。
ようやくたどり着いたのは校舎裏で、私はようやくああと合点した。婚約破棄イベントの後、このゲームの王子枠であるディートリヒとの強制イベントが発生する場所だ。
(ほ、本当にデスデスの世界だ……一体どうなってるの?)
するとしゃがみ込んでいたアリスティアは、何かに気づいたように胸を押さえた。大丈夫かな、と私が首を傾げていると、心の中にもう一つの声が聞こえてくる。
『すみません……あなたは?』
(わ、わ、私は、その……)
『もしかして……神様なのですか?』
その声はゲームで聞いていたアリスティアの声そのもので、私はどう答えたものかと取り乱した。どうやら私は、彼女の心の中にだけ存在しているようだ。
(神様ってわけじゃないんだけど……いつの間にか、ここにいたっていうか……)
『そうなのですね……すみません、見苦しいところをお見せしてしまって』
(い、いやいやいや! 誰だってあんな場所で婚約破棄されたらショックだって!)
ゲームではただぽちぽちと画面をタップするだけだが、実際にあれだけの人前であんな迫力の男に言われれば、私だって泣いてしまうだろう。私のフォローにほっとしたのか、アリスティアはわずかに微笑んだ。
『神様は……お優しいのですね』
(そ、そうかなー。でもほら元気出して。もっといい男はいっぱいいるからさ!)
『いい男、ですか?』
(うんうん。例えば同級生のレオンとか――)
少しだけ元気を取り戻したアリスティアに、私はここぞとばかりに推しを推しておく。するとどこからかディートリヒが現れ、ゲームのシナリオ通りの優しいセリフを吐きながら、アリスティアに傘を差し出した。
これもまた息を吞むような美形で、私はいよいよここが『デスデス』の世界であると、疑う余地をなくしていく。
こうして私は、アリスティアにだけ聞こえる神様として、奇妙な生活を送ることとなった。
それからはまさに、夢のような学園生活だった。
顔面レベルの高すぎる同級生や先生方。おまけに最推しのレオンが隣の席で眠っており、私の心臓は常にはち切れそうな状態だった。
もちろんゲームなので能力上げをする必要はあったが、アリスティアは勉強も運動も恐ろしく呑み込みが早く、あらゆることを一つ知っては十理解する、乾燥したスポンジのような吸水力だった。これが乙女ゲームの主人公というものか。
彼女がパラメーターを上げるたび、当然様々なキャラとのイベントが発生する。ヘルムートとの図書館イベントや、ユリウスとのお化粧イベント。中には発生させるのが非常に難しいレオンの差し入れイベントまで発生し、私はそのたびに、極上の特等席からその光景を体感していたのであった。
だが嬉々として楽しむ私に対し、当のアリスティアはどこか心ここにあらず、といった感じで、誰かに恋をするでもなくただひたむきに研鑽に励んでいる。
そうして学園の舞踏会イベントが始まった時、事件は起こった。
「――おい」
「俺が誰か、分かってるのか?」
「ヴィ、ヴィルヘルム、様です……」
「そうだ。ならどうすべきか、理解しているよな?」
騒がしかったホール内が一気に静寂した。
原因は会場中央にいるヴィルヘルムだ。パーティーに参加していた女子生徒の一人が、あろうことか彼の服に、飲み物をかけてしまったのである。
当然のようにヴィルヘルムは激怒し、その女子を連れ出して会場を後にした。残された面々は「もうこの学園にはいられないだろう」とその女子に憐みを向けている。
そんな中、私は一人首を傾げていた。
(……なんか、ヴィルヘルムおかしかったような……)
そうなのである。
この舞踏会イベントでは、マルガレーテと共に嫌味を言いに来るヴィルヘルムが登場する。だが今回の舞踏会では彼は接近する素振りすら見せず、むしろディートリヒからわざわざ話しかけに言ったのだ。
それに飲み物をかけられた、というよりは――女子生徒が落としかけたグラスを、わざと自分の体で受け止めた、という感じだった。
すると突然、アリスティアが心の中だけで話しかけてくる。
『神様もそう思われますか⁉』
(うわあ! びっくりした……)
『す、すみません。でもわたしもそう思ったんです。ヴィルの様子がいつもと違うなって……』
この体になって知ったことだが、アリスティアとヴィルヘルムは元々幼馴染だったそうだ。その時からずっとアリスティアは彼のことを慕っているのだが――そこには互いの家の都合もあり、今の彼女は彼との関係性に迷いが生じているらしい。
(アリスティア……)
本当はこのままレオンエンディングを迎えてほしい。だが私はその欲望をぐっと呑み込むと、出来るだけ穏やかにアリスティアへと語りかけた。
(そう思うなら、直接聞いてみたら?)
『え、でも……』
(ちゃんと話をしてみないと分からないこともあるだろうし……勇気出して、追いかけてみたらどうかな?)
まるで妹の恋愛相談に乗る姉のような気持ちで、私はそっとアリスティアの背を押した。アリスティアもまたしばし悩んでいたが、すぐに走り出す。その行動力に『誰も知らないゲームの続き』を予感した私は、期待に少しだけ胸を高鳴らせた。
そして運命の日は訪れた。
本来であれば三年のクリスマス。アリスティアは本命キャラクターからプレゼントをもらい、卒業式の後礼拝堂で素敵なエンディングを迎える――という流れなのだが、それが何故か一年生のクリスマスで早々と発生した。
礼拝堂の奥底に眠るラスボスとの戦い――通称『誰ともエンディングを迎えない』ノーマルルートである。
(どうして⁉ こんな時期に起きるイベントじゃないよねえ⁉)
おかしいと言えば、礼拝堂にヴィルヘルムが現れたのもびっくりした。おまけにゲームでは見たこともないプレゼントを渡され、私はいよいよバグを疑い始めたものだ。
だがその直後、こうして地下に落とされ――浮足立つアリスティアを宥めつつ、私は恐る恐るヴィルヘルムと道を急いだ。特に罠回避に関する彼の指示は実に的確で、私はこっそり心の中だけで称賛を送る。
その後ようやくたどり着いたラスボス戦でも、ヴィルヘルムは恐ろしいほどの戦いぶりを見せた。おまけに何故かディートリヒまで参戦してきて、訳が分からないうちにヴィルヘルムはラスボスを倒していた。
助かったという喜びに私が感激していると、さらにヴィルヘルムがぽつりぽつりと自らの心の内を明かし始める。
「――ずっとお前に、謝らなければいけないことがあった」
「わたしに、ですか?」
「婚約破棄を……お前が一番傷つく形でしてしまったことだ……」
そうして語られた二人の過去に、私は年甲斐もなく号泣した。アリスティアもまた心から喜んでいるらしく、やがて二人は互いに手を取り微笑み合う。
初めて見るヴィルヘルムの照れ顔差分は、それはそれは素晴らしく――設定資料集に絶対収録してほしい、となかば祈りのような気持ちを抱えながら、私はいつの間にかゲームの世界から現実へと戻っていたのであった。
週明けの月曜日。
私はひしめく通勤電車の中で、ぼうっと意識を飛ばしていた。
(夢……だったんだよね……)
なんだかんだで一年近い時間を過ごしていたはずだが、戻ってみれば土日の二日間しか経っていなかった。私はここが現実であるとようやく理解すると、慌ただしく化粧をして家を飛び出す。
だがその前に、鞄につけていたアクキーを付け替えるのを忘れなかった。
駅を通るごとに増えていく乗客に、私はいつものようにじっと身を縮こませる。デスデスの世界には満員電車なんてなかったもんなあ、と懐かしんでいると、妙な感触が鞄を伝った。
(ど、どうしよう……なにか、絡まって……)
どうやらキーホルダーがひっかかってしまったらしい。次の駅で降りないといけないのに、と私は必死になってそれを手繰り寄せた。
すると頭上からひしひしとした視線を感じ、私は慌てて謝罪する。
「あ、ご、ごめんなさい。……すみません、引っかかってしまったみたいで」
「ああ、大丈夫ですよ」
そう言って微笑んだのは、私とあまり年の変わらないサラリーマンだった。短い黒髪に人の良さそうな顔つきをしており、私は初めて会ったというのに、何故か見覚えがあるようにすら感じてしまう。
(ど、どうして?)
早まりつつある心臓の鼓動に動揺していると、彼はさらに私のアクキーを見て目を見開いた。
「これ、デスデスの……」
「え、ご存じなんですか⁉」
「ヴィルヘルムですよね」
「えーっすごい、サブキャラだからあんまり好きな人が居なくて……」
「分かります。好きなんですか?」
そこでふと言葉に詰まった。最推しは、と聞かれたら相変わらずレオンだ。だがアリスティアと共にいて、あの二人には幸せになってもらいたいと思ったのも本心である。
「ええと、私も前はそこまでだったんですけど、……最近色々あって、その、急に好きになったというか」
すると青年は、途端にぱあっと顔をほころばせた。どこか大人びた雰囲気が一気に幼くなり、私は再び不自然な動悸に襲われる。
「分かります。俺も――こいつが一番好きです」
そう言うと彼は、ヴィルヘルムのアクキーを眺めて、とても幸せそうに微笑んだ。それを見た私は『良かったらもう二つあるので、一ついりますか?』と言うべきか否か、次の駅に到着するまで真剣に悩み続けるのであった。
(了)




