五月廿日 その4
沈んでいた意識が、だんだんと覚醒していく。
何かに包まれている。白くて、ふかふかしたもの。溶けたバター? いや違う、そんな巨大なバターがあるわけがない。これは……ふとんだ。
次第に視界が開ける。白い蛍光灯。白い天井。俺を見下ろす一人の少女。かわいい。じっとりとした目……ではなく、ほんの少しだけ心配そうな目でこちらを見ているのは……天之川、彩乃。彩乃だ。彩乃。かわいい。指の間から零れた砂を何度も掬い上げるように、浮かんだ言葉を何度も反芻する。彩乃、かわいい。
「おはようございます、会長」
聴覚もはっきりとしてくる。何も聞こえなかったのは、ただこの部屋が静かすぎるだけだ。彩乃が何かを話している。その言葉の宛先は、俺だ。
「……おは、よう」
言葉が上手く発音できないことに気がつく。ずっと引きこもっていた人間が久しぶりに外にでると、言葉が上手く喋れないことがあるらしい。それはつまり、こういうことだろうか。
「ここは……」
「卯美々ちゃんの家の、客間です」
「卯美々……」
だんだん思い出してきた。俺は、卯美々……漆巴守に連れられて彩乃の家に行き、パンケーキを食べた。そこで急に意識が……
「なあ、今日、何日だ、?」
「えっと……ちょっと待って下さい」
彩乃はポケットからスマホを取り出し、何度か指でタップして操作する。
「……五月、二十日ですね」
「二十……」
「はい。会長は一週間くらい眠っていたことになります」
普段俺に対して敵意を持って強く当たる彩乃だが、今日はそんな様子は感じられない。自分が作ったものを食べた後に俺がこうなったのだから、引け目を感じているのだろうか。別に俺はほとんどこうなることを承知の上で食べたのだから、そういう風に思う必要はないんだけどな。なんなら、どうして止めたのに食べたんだ、と罵ってくれても構わない。しかし、
「どうしてそうまでして私のパンケーキを食べようと思ったんですか?」
おそるおそる、といった様子で彩乃は俺に話しかける。もしかして、俺が怒るとでも思ったのだろうか。だとするとそれはとんでもない見当違いだ。
「もうすぐ漆巴守さんも来ると思います。もう少しだけ待っていて下さい」
部屋の空気に耐えられなくなったのだろうか、そう言って彩乃は俺が寝ているベッドの横に置かれた椅子から立ち上がり、そそくさと立ち去ろうとする。が、
「まっ、て」
俺はベッドの上で姿勢を起こし、出せる限りの大きな声を出して引き止める。
「……なんですか」
「お姫様のキス」
「……は?」
彩乃が怪訝そうな顔をする。構わず俺は続ける。
「お姫様の、キスが、あれば、すぐにでも、よくなるかもしれない」
「……普通、王子様がお姫様にするものですよ」
「そんなことは、どうでもいい」
本当に、どうでもよかった。彩乃は前に俺にしたみたいに、シャツの胸元を掴んで、
ドライバーを突きつけて、じっとりした目で……
見るのだと思った。しかし、
「……今回だけですからね」
小声でそう呟いたかと思うと、彩乃は強引に俺を引き寄せ、
一瞬、瞬きすれば終わってしまいそうなほんの一瞬だが、
俺の頬に彩乃の唇が触れた。
呆気にとられて反応が遅れる。そうしている間に、彩乃はこちらから顔が見えないようにそっぽを向いてしまう。
「起きれるようになったらさっさと登校して下さい。会長がこんなだと、私が悪いみたいじゃないですか」
「……あ、ああ、すまない」
それはお伽話に出てくるような魔法のキスでも何でもない。彩乃からすれば、ただ引け目や同情、迷惑料程度に思って俺の戯言に付き合ってくれただけなのかもしれない。だが、俺の意識を完全に覚醒させるには十分だった。
「彩乃ちゃん~! 会長さんは~……ああ、もう起きてても大丈夫なんですね~……よかった~……」
その時、漆巴守が部屋のドアを勢い良く開けて飛び込んでくる。後ろには運転手の尾道が漆巴守の鞄を持って控えているのが見えた。学校から車に乗って急いで帰ってきたのだろう。
漆巴守は安心したように大きく息をつく。それから俺に背を向けている彩乃を一瞥し、不思議そうな表情で言う。
「彩乃ちゃん、なんだか少し顔が赤いみたいですけど、どうかしましたか~?」
それはきっと、漆巴守の気のせいに違いない。




