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 所詮人は他人を求めた所で、己の孤独を埋められる事など出来はしない。

 現に、今まで彼が関わり求めて来た女の誰一人としてそうはしてくれなかった。一時的に欲望が満たされるだけだ。

 ましてや、と楠王は思う。

 この女は──この女だけは無理だと、もう四年も前に結論が出ているのに。

 なのに何故、あるはずのない温もりを探してこの手は動くのか。


「……私に何を飲ませた」


 繰り返し重ねた唇を離して、囁く声が擦れた。


「媚薬の様な……ものです」


「──そうか」


 それだけで彼は納得した。ならば答える玲彰の声が心なしかいつもより優しく聞こえるのもきっと気のせいなのだろう。

 勝手な事をされた怒りよりも、媚薬を使ってまで妻が自分を求めたという事実に驚くばかりだった。


──色仕掛けで承認を取ろうというのか。


 如何にも目的の為に手段を選ばない彼女らしい。そうして自分はまた、古傷を抉られるのだろう。

 妻の両腕が己の背中に回された時、楠王はあれこれ考えるのを止めた。そんな事は後で考えればいい。もし何であれば色仕掛けに乗って承認してやってもいい、とすら思いながら。


※※※※


「……其方は本当に勝手な女だ」


 言葉と裏腹に、楠王の声音には諦めの響きがあった。熱を解き放った名残で、意識は心地良い疲労の海に溶けていく。胸に抱いた妻の耳に囁いた。


「こう言うのも何だが……其方にしては思い切った事をしたものだ」


 玲彰はそれには答えなかった。


「露台で堀を眺めている時──賭けをしました。もし今夜貴男が見つからなければ……選択は間違っていたのだと」


「ああ、あの時か。確かに考え込んでいた様に見えたな──」


 楠王は微笑った。だが覗き込んだ妻の顔は殊の外真剣である。


「ここは霧があまりに濃くて、飲み込まれそうでした。進むべき事なのか……それとも戻るべきなのか」


 茫洋とした眼差し。以前西宮にいた頃と何一つ変わっていない。だが、彼女がこんな風に話をする事はなかった。


「ああ、霧か。しかし、あんなものここでは珍しくもなかろう。何故今頃」


「……こんな夜更けに外廊に入る事は初めてです。まるで──私から──の様で」


「粛瑛?」


 昔の様に妻の名を呼ぶと、彼女は何故か怯えた様に目を見開いた。焦点を結ばなかった両眼が、一瞬だけではあったが、間違いなく正面から夫を捉えた。

 楠王は自分の目を疑った。


──何だ、今のは?


「……何でもありません」


 そう言いながらも、夫の胸にしがみついて来る。かつてない仕草に楠王の身体に再び火が灯った。全ての疑問を脇に追いやって、彼は己を揺り動かす衝動に従った。


※※※※


 見渡す限りの、白く朧ろげで不確かな世界。

 彼女が物心ついた時から、全ては霧に閉ざされた様に曖昧だった。

 家族も屋敷の使用人達も、ただ彼女の周りにうっすらと存在している。言葉は聞こえるもののひどく遠い。何を言っているかは理解出来るが、意志の疎通は難しかった。それが当たり前なのだろうと彼女が納得するに至った頃には、周囲との壁は決定的なものとなっていた。

 粛瑛お嬢様は変り者だ──使用人が陰口を叩いているのを彼女は聞いた事がある。無礼なと怒る以前に、そうか、変わっているのかと逆に納得した。それが悪い事かどうかも、十五の年に母親が病で亡くなるまで彼女には判別がつかなかったので。


──粛瑛お嬢様は血も涙もない。あの様にご自身を気に掛けて下さったお母上様がお亡くなりになったと言うのに、泣きもしなければ平然としていらっしゃる。


 冷たくなった母の傍らで泣き崩れる妹を横目に眺めながら、彼女はぼんやりと考えた。

 何故妹の様になれないのだろう。母は優しく時に厳しい、悪くない親だったと思う。もっと悲しんでいいはずなのに。


──そもそも『悲しい』とはどんな状態なのか。


 いくら考えてもわからない。霧は年々濃くなっていく。このままではいずれ飲み込まれてしまうだろう、それだけはわかった。

 娘の行く末を懸念した父親が、彼女を研医殿に入寮させたのは二十歳の頃だった。元より勉学に才を発揮したのもあったが、茫とした世界にも原因と結果が明確な研究というものははっきりと存在した。姿を見る事はなかったものの、以来彼女は昼夜問わず研究に没頭した。


──お嬢様。まさかお断りになったと言うのですか?


 家族の姿もよく見えない自分が、他人の家族になるなど考えられなかった。例えそれが父がこうべを垂れる相手だとしても。

 なので断った。侍女の荷葉は乳姉妹のせいか彼女の性質を一番気に留めない。それでも流石に驚きを隠せないらしかった。


──でもまあ、正しい選択なのかもしれませんね。こう申しては何ですが、陛下は女遊びの激しい御方と伺っております。並み入る側妾のかたがたの中に入って、ご苦労されるのも如何いかがかと。


 女遊びというのはどういうものなのだろう。彼女は侍女にそう尋ねた。自分に見えないもの──人を使って「遊ぶ」なんて、と。恐らく常人とは違った意味で理解の域を超えていた。

 荷葉は渋い顔で答えた。


──手当たり次第に女の方に手をお付けになるとの話ですよ。思うのですが、誰でも良いというのは、結局誰の事もお好きではないという事なんじゃないでしょうか? どちらにせよ、わたしにはわかりかねますが。


 他人事なのに荷葉は怒り心頭だった。

 不思議だ、と彼女は逆に興味を持った。自分が家族を愛せないのは「見えない」からだと思っていた。それなのに、国王は見えるにも関わらず「誰の事も好きではない」というのだろうか。

 ずっと考えていた。もしこの白い世界に「誰か」がはっきりと存在したならば、自分はその人を疎むだろうか。歓迎するだろうか。

 他人に興味を持つ事など皆無に等しかった粛瑛の世界にこの時、最初に楠王は輪郭を得た。


 その人にはどんな世界が見えているのだろう、と。





       ―了―


ここまでお読み頂きありがとうございました。


この番外編には続編「弐」があります。


少し大人的展開が進んだ弐の方も、宜しければご覧下さいませ。

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