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第10話 継承の儀

ゼル=ヴォルグが永久の眠りにつき、二日が過ぎた。

それでも悠翔は、何ひとつ動けなかった。

朝も昼も、夜さえも、意味を失った時間の中。

彼は封印の場に座り込み、竜の亡骸の傍らから一歩も離れない。

まるで、この場所だけが世界のすべてになったかのように——。

視線は虚空に漂い、瞬きすら忘れる。

乾いた瞳に映るのは、変わらぬ巨大な輪郭。

頬を撫でる風も、遠くの湖面を打つ水音も、すべてが遠い。

ただひとつ、胸の奥で繰り返す願いだけが鮮明だった。

——もう一度、目を開いてくれ。

不思議なことに、ゼルの肉体は微塵も衰えを見せない。

腐敗も崩壊もせず、眠るような姿のままそこに在る。

その不自然さすら、悠翔には救いに見えた。

「……ゼル」

吐き出すような声は、空気にすら届かない。

ただ膝に顔を埋め、何度も、何度も、心の中で呼びかける。

時間は流れているはずなのに、感情も思考も薄れていった

——その時だった。

胸の奥で、「トクン」と音が響いた。

それは血が流れる感覚ではなく、雷鳴が密やかに打ち鳴らされたような衝撃だった。

「……っ」

顔を上げる。

再び、「トクン」。

波紋のように広がる温もりが、胸郭の内側から全身へじわりと染み渡っていく。

この感覚……知っている。

忘れるはずがない。

——あの時もそうだった。

スキルの修行が上手くいかず、心が折れかけていた日。

塞ぎ込み、暗がりに膝を抱えた自分の背を、そっと押した巨大な鼻面。

その瞬間、胸の奥に火が灯ったように力が巡った。

脳裏に、湖面を背に立つゼルの姿が浮かぶ。

黄金の瞳が、まっすぐにこちらを見つめていた。

『何をしている。自由が欲しいのだろう?——ならば進め、立ち上がれ』

声はもう現実にはないはずなのに、

その響きは、かつてよりも強く、鮮烈に、心の奥で鳴り渡っていた。

――パンッ。

乾いた音が、封印の空間に反響した。

悠翔は、自分の両頬を思い切り打っていた。

鈍い熱がじわりと広がり、耳の奥まで血が巡る。

「……このままじゃ、またゼルに小言言われるぜ……な、ゼル」

涙が視界を滲ませる。

それでも、唇の端を無理やり持ち上げ、笑みの形を作った。

痛みも、哀しみも、胸の空洞も消えはしない。

それでも——歩みを止めるわけにはいかない。

「辛くないわけねぇよ……辛ぇに決まってんだろ……」

声が震える。それでも言葉を継いだ。

「でもよ……ここで腐ってたら、自由なんか掴めねぇ」

脳裏に、あの日の声が蘇る。

『——共に飛ぼう』

ゼルがくれた約束。

それは別れの中でなお、胸に生き続ける翼だ。

「なら、果たさなきゃな……絶対に」

拳を固く握る。

涙を拭い去る。

そして、ゆっくりと天を仰いだ。

「俺ができることは——強くなることだ。

お前が見たかった未来を……この目で、一緒に見ることだ」

決意を宿した瞳は、もはや迷いを映さない。

その奥底には、確かに燃えるような光が灯っていた。

ゼル=ヴォルグが残した魂は、今も悠翔の胸奥で脈打っている。

その証として——胸郭の内側で、低く轟く雷鳴が鳴り渡った。

それは鼓動と混じり合い、悠翔の全身を巡る。

まるで、「まだここにいる」と告げるかのように。


ゼル=ヴォルグの亡骸の前、悠翔は静かに立ち尽くしていた。

その巨大な前足の下——かつて悠翔を守るように差し出された場所に、今はひとりの青年が立っている。

封印を施していた鎖は、主の死と共に役目を終え、力なく地へと横たわっていた。

手に取れば、驚くほど重い。

それでも、今の悠翔には動かすだけの力があった。

そして、その右手には——

彼自身が編み出した新たな技が宿っていた。

雷刃らいじん

雷を細く、鋭く、一本の刃へと収束させる。

刃は空気を焼き、淡い紫電をまといながら揺らめいた。

その輝きには、悠翔の意志——そして、ゼルへの最後の想いが乗っている。

これは、別れを告げるための一閃。

誰に教わったわけでもない、悠翔だけの斬撃。

「……いくぞ、ゼル」

誰に向けるでもない、ただの呟き。

だがその刹那、雷刃を包む紫電が、微かに応えるような低い音を立てた。

震える右手で、悠翔は竜の胸部——心臓の位置へと刃を向ける。

ゆっくりと、しかし確実に。

鱗を裂く感触が掌に重く伝わり、硬い甲殻の下から温もりを帯びた肉の抵抗が続く。

金属が軋むような鈍音のあと、刃は音もなく奥へと沈んでいった。

鼻を突く血と雷の匂い。

胸の奥から込み上げる吐き気を、奥歯を噛み締めて押し殺す。

目を逸らせば、もう二度と向き合えない気がして——悠翔は、真正面からその巨体を見据えた。

竜眼を発動する。

視界の奥で魔力の流れが淡く輝き、絡み合いながら一筋の道を形づくる。

その先に——あった。

——ドラゴンハート。

想像よりも、あまりに小さい。

片手にすっぽり収まるほどの大きさ。

しかし、その内部に渦巻く魔素の密度は、常軌を逸していた。

まるで小さな世界そのものが、そこに封じ込められているかのように。

「……これを、食べるのか……」

悠翔は手のひらに載せたそれを、何度も見つめた。

口に運ぼうとしては止め、指先で撫で、また躊躇う。

水で洗い流しても、生温かい脈動は消えない。

気休めのようにリステアの実をひとつ齧り、甘みで舌を誤魔化す。

そして、深く息を吸い込んだ。

「ゼル……見ててくれよ」

その一言と共に、口を開いた。

——生きている。

噛んだ瞬間、そう確信させられる弾力が顎を跳ね返す。

鉄錆のような味と、舌を刺す雷の微かな痺れが口内を満たす。

喉が拒み、胃が反発する。

「……っ、ぐ……」

涙が視界を滲ませる。

それでも噛む。

吐き気が込み上げるたび、リステアの実を噛み砕き、強引に飲み下す。

何度も、何度も、その繰り返し。

頬を伝う汗と涙の境界はとうに曖昧になっていた。

——そして、最後のひとかけを喉に押し込み、悠翔はゆっくりと息を吐いた。

ようやく……ようやく、食べ終えた。

「あー……やっと、終わった……」

吐息混じりの声が、静寂に溶ける。

全身から力が抜け、膝が落ちそうになる。

——だが、それは終わりではなく、始まりだった。

胸の奥底から、いや骨の髄まで——

竜王の意志が、雷鳴の爆ぜるような衝撃と共に解き放たれた。

「……っ、が……ッ!」

頭蓋の内側を雷光が駆け抜け、脳を焼く。

背骨が一本ずつ粉砕され、再構築されるかのような轟音が意識を揺らす。

関節という関節が逆方向へ引き裂かれ、筋肉が内側から爆ぜる。

皮膚の下を這う紫電が、焼ける匂いと共に肉を暴れ回る。

「があああああああああッ!!!!」

悠翔は、咆哮した。

それは苦痛の叫びであり——竜王の魂と、自らの魂が一つに溶け合う産声でもあった

竜気が制御を失い、全身から暴発する。

皮膚のあちこちが裂け、熱い血が弾け飛ぶ。

リステアの実を口に押し込んでも、その痛みと損傷を止めるにはあまりに無力だった。

骨が粉砕される音が、自分の内側から響く。

筋肉が引き裂け、内臓が掴まれて捻じられる。

神経が軋み、視界が何度も真紅に塗りつぶされる。

——それでも、意識は手放さない。

ゼルが残してくれた意志を……ここで絶やすわけにはいかない。

「ゼ……ル……!!」

声というより、魂の悲鳴だった。

喉を焼く血を吐きながら、悠翔は地を這う。

拳を握り、地面を叩きつけ、血の混じった唾を吐き出しながら——

それでも、その場から一歩も退かず、意志を繋ぎ止め続けた。

そして——

二時間にも及ぶ地獄のような苦痛の末。

ようやく、その痛みが……ほんのわずかに引いた。

「……っ、……は……あ……」

呼吸は途切れ途切れで、肺に入る空気すら重い。

思考は朦朧とし、身体もまったく動かない。

それでも——意識だけは確かに現実を捉えていた。

地に伏せたまま、震える唇がわずかに持ち上がる。

「……ゼル……ちゃんと、食ったぞ……」

掠れた声が空間に溶ける。

その瞬間、胸の奥で微かな雷鳴が一度だけ鳴り、静かに消えた。

視界が、ゆっくりと黒に染まっていく。

全身が温もりに包まれる感覚の中で——

悠翔は静かに、意識を手放した。

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