第67話「侵緑の森」
第一セクション――“侵緑の森”。
無数の樹々がうねり、蔓が侵入者を絡め取る、生きた森そのものが敵となる領域。
だが、黒の部隊は即座に役割を見極め、それぞれの得意を噛み合わせて道を切り拓いていく。
一方で、他の参加者たちもまた、この森の本当の恐ろしさに直面していた。
様々な思惑が交錯する中、和泉たちはついに、実地訓練の舞台たる夢檻三道へと足を踏み入れた。
第一セクション――“侵緑の森”。
無数の樹々が鬱蒼と繁茂するその森は、もともと夜に包まれた鬼夢の中でありながら、なお一層その闇を濃くしていた。
枝葉は天を覆い、月明かりすらほとんど地表へ届かない。湿った土の匂い、草いきれ、朽ちた木の臭気。耳に届くのは、自分たちの足音と、どこからともなく響く葉擦れの音だけだった。
まるで森全体が、侵入者を呑み込むために息を潜めているようだった。
「――じゃあ、行きますか」
和泉の言葉に、全員が無言で頷く。
先頭を和泉と理恵。
その後ろに亜子、杏樹。
さらに最後尾を、指導官である大久保が追走する。
黒の部隊は隊列を崩さぬまま、森の奥へと踏み込んでいった。
『私たちも、できる限りのバックアップはするからね!』
青く光る慧珠を通して、花奈の声が響く。
『お嬢様、申し訳ございません。今回は、あまり手を出すなと旦那様より申し付かっておりますので……』
「いえ、気にすることはないわ」
理恵が前を見据えたまま、静かに応じる。
「今回は、私たち自身の力で突破しなければ意味がありませんもの」
その言葉に、和泉も小さく頷いた。
「ああ。俺たちの実力、見せてやろうじゃないか」
「……なんだか、暑っ苦しい」
和泉とは対照的に、亜子はいつも通りの抑揚のない声でぽつりと呟く。
「ほらほら、軽口叩いてる前に――」
杏樹が鋭く周囲へ目を走らせる。
「敵さんのお出ましだよ!」
次の瞬間、草陰や樹の根元からざっと無数の影が飛び出してきた。
亜羊――悪鬼の幼体。
黒く小さな躰に歪な手足。甲高い鳴き声を上げながら、一斉に黒の部隊へ襲いかかってくる。
「ここは任せて! 泡連弾!!」
杏樹のヴァジュラ《デガ喇叭》から、無数の泡弾が弾けるように放たれた。
ぱん、ぱん、ぱんっ!!
光を帯びた弾丸が亜羊たちへ次々と命中し、小鬼どもの躰を煙のように霧散させていく。
「ギィッ!?」
「ギ、ギャアッ!!」
だが、地上の群れだけではない。
『上からも来るよ!!』
花奈の警告と同時に、枝に潜んでいた亜羊たちが頭上から降り注ぐように飛びかかってきた。
その時には、すでに亜子の姿が動いていた。
地を蹴った身体が、一気に跳ね上がる。
ぶんっ――!!
空中で放たれた鋭い蹴撃が、落下の途中にあった亜羊たちをまとめて薙ぎ払う。
風を裂いた一閃だけで、小鬼どもは耐えきれず、黒い破片のように砕け散った。
それとほぼ同時に、和泉と理恵もまた残った亜羊を確実に処理していた。
和泉は無駄のない踏み込みで喉元を断ち、理恵は流れるような体捌きで二体を同時に屠る。
最初の襲撃は、わずか数瞬で跡形もなく消え去っていた。
「なーんだ」
杏樹が肩をすくめる。
「試験も兼ねてるっていうから身構えてたのに、ちょっと肩透かしじゃない?」
その言葉を合図にしたかのように――
ざわ、ざわざわざわ……。
森の音が、変わった。
先ほどまで単なる風の揺らぎに過ぎなかった葉擦れが、まるで意思を持ってざわめき出したかのように広がっていく。
枝が軋み、幹が低く唸る。地面の下で、何かが蠢く気配すらあった。
和泉は目を細める。
「……どうやら、まだ本番はこれかららしいぜ」
* * *
一方その頃。
エリア一帯を見下ろせる崖上では、聖斂隊の隊員たちが各班の進行を監視していた。
「中々、皆よい動きをしていますね」
隊員の一人が感心したように声を漏らす。
「特に、あの黒の部隊とかいう連中……相当動けますよ」
その言葉を受けても、真理は表情一つ変えなかった。
冷えた紫の瞳で、ただ淡々と黒の部隊の動きを追っている。
「そうでしょうか」
返答は、驚くほど平坦だった。
「確かに、他の参加者に比べれば実戦経験の差は見えます。ですが、参加者の中にはすでに現場を踏んでいる者もいる。それに――」
「それに?」
隊員が首を傾げる。
真理は、わずかに目を細めた。
「試験は、まだ始まったばかりです」
そう言って、彼女は他の参加者たちの方へも視線を走らせる。
和泉たちと同じように、最初の亜羊を倒して先へ進もうとした班。
だが、その何組かは、すでに足を止めさせられていた。
ざわめく樹々。
軋み出す森。
侵入者を拒むようにうねり始めた枝と蔓。
最初の亜羊の群れなど、所詮は森が牙を剥く前の前触れに過ぎない。
「さて……」
真理はごく小さく呟く。
「ここからどう切り抜けるのか。見せてもらうわ」
* * *
「行きますわよ! 顕現――英傑月誅!!」
参加者の中でも先頭を駆ける東京校の一年、大明寺レイカが高らかに叫ぶ。
その手に顕現したのは、円環の刃。
チャクラムにも似た輪の外縁に、三日月状の鋭い刃を幾重にも備えた異形のヴァジュラだった。
「切り裂きなさい!!」
レイカが両手の《英傑月誅》を投擲する。
放たれた双輪は、夜の森にきらりと光の弧を描きながら疾走し、前方から群がる亜羊たちの喉首を正確無比に断ち切っていった。
「ギィッ!?」
「ギ、ギャアッ!!」
小鬼どもの首が宙を舞い、黒い躰が煙のように霧散していく。
やがて一巡して戻ってきた《英傑月誅》を、レイカは何事もなかったかのように受け止めた。
「さあ、行きますわよ! 皆様方!!」
鋭く響く号令。
その一声だけで、周囲の空気が彼女を中心に回り始める。
「よし! 俺たちも大明寺の後に続くぞ!!」
東京校三年の篠宮迅が、残る二人へ声を飛ばした。
白峰紗良と九条岳も即座に応じ、レイカの突破した道をなぞるように前へ出る。
枝陰に潜んでいた亜羊を篠宮が薙ぎ払い、白峰が死角を確認し、九条が前方の間合いを潰す。
そんな彼らの一挙手一投足を、後方から芦谷祐介が見守っていた。
(ふむ……)
芦谷は、わずかに目を細める。
(最初こそどうなることかと思ったが、あいつらなりに形にはなってるじゃないか)
本来なら、上級生である篠宮がもっと前へ出て班を引っ張るべきなのだろう。
だが実際には、篠宮を含めた残り三人は、レイカの切り開いた道にどうにか食らいついている状態だった。
(いや……むしろ、大明寺を前へ出すことで、残りの三人は取りこぼしの処理に専念できる。今の段階では、その方が正しいか)
経験を積めば、状況に応じた柔軟な判断もできるようになる。
それはどこの世界でも同じだ。
だが、戦場に限って言えば――経験だけでは埋まらない差というものがある。
一地方の秀才と、世界の頂点を狙う天才。
両者は同じ“優秀”の枠に入っていても、そもそも立っている土台が違う。
今ここにいる篠宮たちも、決して劣っているわけではない。
近年の水準で言えば、十分すぎるほど優秀だ。
だが、今年の一年である大明寺レイカ――そして、加藤杏樹。
あの二人だけは、最初からいる場所が違いすぎる。
純粋な戦闘能力だけを見れば、もはや指導官である自分すら脅かしかねない領域に片足を突っ込んでいる。
(だがな――)
芦谷は内心で低く呟く。
(それでも実戦は、一人でどうにかなるもんじゃない)
その思考をなぞるように、異変はすでに始まっていた。
「……っ!?」
先頭を切っていたレイカの足が、不意に止まる。
「なんですの、これは!?」
次の瞬間、鬱蒼と生い茂る樹々の枝と蔓が、まるで意思を持った蛇のようにうねり、彼女たちの足首、腕、胴へ一斉に絡みついた。
「くっ!」
「な、なんだこれ……!」
篠宮たちも咄嗟に身をよじる。
だが一度絡みつかれれば、ただ引き剥がす程度では追いつかない。
ぶち、と千切る。
すると、そのすぐ横から新たな枝が伸びる。
引き剥がす。
さらにその上から、今度はより強い力で締め上げてくる。
まるで森そのものが、侵入者を“捕える”ことに意志を向けているかのようだった。
「この……っ!!」
レイカが無理やり枝を断ち切る。
だが切られた先から、ぬるりと新しい芽が生え、先ほど以上の速度で再び巻きついてくる。
その光景は、東京校の班だけではなかった。
他の進路を進んでいた参加者たちもまた、同じように樹々に絡め取られ、足を止めさせられていた。
そして――。
そんな“動けなくなった獲物”を待っていたかのように、草陰や樹上から小さな影が躍り出る。
「ギギギギギッ!!」
亜羊。
先ほどまでのように前面から襲うのではない。
今度は、囚われて逃げられなくなった参加者へ狙いを定め、嘲るような鳴き声とともに飛びかかってくる。
「きゃああああっ!!」
「くそ、離れろ!!」
悲鳴と怒号が、夜の森に一斉に弾けた。
試験は、ここからだった。
* * *
時を同じくして、和泉たちもまた“侵緑の森”の洗礼を真正面から受けていた。
「なんなの、これ!?」
杏樹の両腕に、無数の蔓が蛇のように絡みついている。
「むむむっ!!」
ぶちり、と力任せに引きちぎる。
だが次の瞬間には、千切れた先から新たな蔓が芽吹き、待ち構えていたかのように再び彼女の身体へ巻きついてきた。
「これ、切ってもすぐ生えてくるし! しかも、さっきより締めつけが強くなってるんだけど!」
一方の和泉もまた、自身へ絡みつく枝々を炎で焼き払っていた。
だが、炙っても炙っても、その再生速度は火を生み出す僅か先を行く。
「こいつは……ジリ貧だな」
落ち着いた口調で告げる和泉へ、杏樹が半ば叫ぶように返す。
「とっきーの火で、この辺まとめて燃やせないの!?」
「そんなことしたら、他の参加者まで巻き込むだろ」
和泉は迫り来る枝をいなしながら答える。
「それに、ここはまだ第一セクションだ。こんなところで無駄に消耗するのは得策じゃない」
「ぐぬぬ……っ」
杏樹も、その理屈自体は分かるのだろう。悔しげに唇を噛みながら押し黙る。
「でも、動けないと話にならない……!」
襲い来る亜羊を蹴散らしていた亜子もまた、いつの間にか足元から伸びた蔓に脚を絡め取られていた。
「來瀬川さん」
亜子が、ただ一人比較的落ち着いた様子で周囲を見ていた理恵へ声を飛ばす。
「これ、あなたの方で操れないの?」
そっと目を閉じていた理恵が、静かに瞼を開く。
「残念ながら……この森そのものに、かなり強い意志があります」
理恵の声は冷静だった。
「操れないわけではありません。ですが、こちらが干渉するより先に、森の側が反応してくる。正面から奪い合っていては、少々時間がかかりますね」
理恵の身体へ巻きついていた蔓が、一瞬だけ緩む。
だが次の瞬間には、別の枝が背後から伸び、空いた隙を埋めるように再び彼女を拘束しようとした。
「――ただ」
そこで、理恵の瞳にすっと光が宿る。
「この亜羊たちには、森が牙を剥いていないようです」
彼女が指さした先では、亜羊たちが木陰からこちらを窺っていた。
理恵の言う通りだった。
侵入者には執拗に絡みつく枝葉も、亜羊たちが走る進路だけは不自然なほど開かれている。
「なるほど」
和泉の目が細まる。
「“獣道”があるってわけか」
理恵が、小さく頷く。
「少しだけ、お時間をいただけますか?」
その一言に、誰一人として迷わなかった。
「よし、来た!」
和泉が先に動く。
「俺が時間を稼ぐ! 杏樹と亜子は亜羊を!」
「オッケー!!」
蔓を断ち切り、三人が一斉に散開する。
和泉は前へ踏み出し、なおも生え増す枝と蔓の群れへ向き直った。
「飛火剣!」
突き出した右腕から、火のクナイが放たれる。
だが、無数に伸び出る枝葉の量はそれを遥かに上回っていた。
「だったら――爛刃!!」
一振りだったはずの炎の刃が、空中で無数に分裂する。
散った火刃が蔓や枝へ次々と突き刺さり、そのたびに火柱を上げて爆ぜた。
進路を塞ぐ緑が、一瞬だけ赤に染まる。
「じゃあ、わたしたちも行くよ!!」
杏樹と亜子もすぐさま動いた。
近距離は亜子。
遠距離は杏樹。
言葉にしなくとも、二人は瞬時に互いの得意距離へ散り、役割を噛み合わせる。
亜子が接近してくる亜羊の頭を蹴り砕き、杏樹の泡連弾がその死角を正確に潰す。
前衛と後衛の切り替えはあまりにも滑らかで、まるで最初からそう組まれていたかのようだった。
その間に、理恵は静かに意識を沈めていた。
地に根を張る森の流れ。
幹を巡る脈動。
地脈のうねり。
理恵の意識は、森そのものへ触れるように広がっていく。
そして見えた。
森全体が侵入者を拒むように蠢いている中で――ただ一点、亜羊たちだけが何の妨げもなく通過していく細い道筋がある。
それは獣道と呼ぶにはあまりに巧妙で、だが確かに存在していた。
その頃には、和泉たちの連携に押された亜羊たちも異変を察し始めていた。
最初の一体が後退る。
その動きが二体、三体と伝播し、やがて堰を切ったように、群れは森の奥へ逃げ始める。
だがその逃走は無秩序ではなかった。
彼らは決まった筋をなぞるように、一定の道筋を通って森の先へ向かっていく。
「見えました!」
理恵が鋭く声を上げた。
「私について来てください!!」
次の瞬間、理恵が駆ける。
和泉たちは一斉にその後を追った。
樹々はなおも唸り、枝と蔓を伸ばして彼らを絡め取ろうとする。
だが亜羊たちが通るその道筋に限っては、森の勢いが目に見えて鈍る。
伸びる。
だが、追いつかない。
うねる。
だが、四人の加速の方が速い。
その一連の動きを見守っていた大久保は、内心で舌を巻いていた。
(……どの子も、自分の役割を瞬時に理解している)
彼の口元に、自然と笑みが浮かぶ。
(それだけじゃない。切り替えも、見切りも、判断も速い)
理恵は森の構造を見抜き、和泉は即座に時間稼ぎへ回り、杏樹と亜子は一瞬で最適なフォーメーションを組んだ。
誰か一人が突出しているのではない。
四人が四人とも、自分の役割を迷いなく果たしている。
(笠井さん、何が“若輩な連中”だ……!)
大久保の瞳が、駆け抜けていく四人を追う。
(彼らは、本当に――スペシャルじゃないか!!)
前方、鬱蒼とした闇の向こうに、一筋の光が見えた。
「もうすぐ、森を抜けます!」
理恵の声が響く。
四人はその光へ向かって、さらに速度を上げた。
樹々の唸りを背に受けながら、黒の部隊は“侵緑の森”を切り裂くように駆け抜けていくのだった。
次回予告
“侵緑の森”を突破した先で、黒の部隊を待ち受けていた第二セクション。
その名も、“渡らずの川”。
霧に閉ざされた不可解な水域。
骸骨の船頭。
そして、水底に潜む新たな脅威。
束の間の安堵は、すぐさま次なる試練に塗り潰される。
次回、第68話「渡らずの川」。




