第38話「深海に沈んだ町」
忍び寄る泡影教の魔手――。
その正体が鬼夢へと変じ、島全体を覆い始める。
迫り来る瘴気に抗い、笠井たちは意識を深淵へと沈めた。
そこに広がっていたのは、海底のように押し潰す暗黒と、息を奪う圧力。
深海に沈んだ町並みを舞台に、亜羊の群れが牙を剥く。
黒き疾風・笠井 亮の風が唸りを上げ、
悲劇を背負う少女・川合 亜子の拳が闇を裂く。
――異界の深淵に、真の戦いの幕が落ちる。
花奈と亜子を囲む泡影教の一派が、じりじりとにじり寄る。
「くっ……!」
花奈は視線を走らせた。
――隙を見て亜子だけでも逃がせないか。
だが、包囲は狭まり、それも叶わない。
(亮さん……気付いてくれてれば……!)
ポケットのスマホにちらと目を落とす。
心臓が早鐘を打つ。
「ふん、長居は無用じゃ。救援が来る前に――急げ!」
老婆のしわがれた声とともに、ローブの一団が迫る。
「亮さん――!!」
花奈の叫びと同時に。
「……おい」
低い声が背後から飛んだ。
老婆が振り向く間もなく、店先の招き猫が唸りを上げて飛来する。
「ひぃっ!?」
反射的に手を上げた老婆の動きが止まる。
その隙に、笠井が影のように駆けた。
「はああッ!」
伸ばした右手が、老婆の身体を軽々と弾き飛ばす。
ドンッ!
重い音。老婆は店頭のアイスボックスに叩きつけられた。
鉄板が歪み、氷がぱらぱらと散る。
「御婆様!!」
ローブの男たちが叫び、慌てて笠井へ視線を向ける。
だが――気付かない。背後に忍び寄る、もう一つの影に。
「がふっ!?」
呻きとともに、一人が崩れ落ちる。
「な、何だ!?」
残る二人が振り返った先、月明かりに長身の男が立っていた。
「貴様……何者だ!」
鋭い問いに、男は冷ややかに告げる。
「……我は“防人”。彼らを守護する者」
「氷川さん!?」
花奈が驚く間もなく、氷川は獣のように身を沈めて突進した。
「うおっ――!?」
男を抱え上げ、そのまま地へ叩きつける。
アスファルトが悲鳴を上げ、衝撃が夜気を震わせた。
「ひ、ひぃぃっ!!」
残った一人が恐怖に駆られ逃げ出す。
だが――
シュッ、と空を裂く音。
氷川の手から放たれたナイフが、正確に脚を貫いた。
「ぎゃああッ!!」
よろめいた瞬間、氷川は容赦なく腹部へ蹴りを叩き込む。
ぐしゃり、と風船を潰すような音。
最後の男も崩れ落ちた。
短い悲鳴と衝撃音だけが、夜の通りに残る。
「すみません、遅くなりました」
淡々と告げ、氷川は倒れたローブの男たちを手際よく拘束した。
――氷川 薫。
開現師や観測師を守護する影《防人》。その中でも随一の実力者。
「いや……俺も油断しすぎた。まだ残党がいたとはな」
笠井が老婆へ視線をやった、その瞬間――
「――全員、離れろ!!」
氷川の声が鋭く響く。
咄嗟に花奈と亜子を抱え、後方へ跳ぶ。
直後、背筋にぞわりと悪寒が走った。
「こ、これは……鬼夢……!?」
花奈が息を呑む。
倒れていたはずの老婆が、軋むように立ち上がっていた。
「ひ、ひひ……やはり、そう簡単にはいかんか」
深い皺に貼りつく、ねちゃりとした笑み。
眼窩の奥には、人外の黒い光。
「こうなれば……力ずくでやらせてもらうわい!!」
老婆の身体がぶるぶると震え、次の瞬間――地に崩れ落ちる。
氷川が踏み出しかける。
だが笠井が鋭く制した。
「入るな! ……やられた」
老婆を中心に黒紫の瘴気が滲み、地を舐めるように広がっていく。
空気が歪み、森の奥から囁き声のようなものが響いた。
「……鬼夢が、開いた」
笠井の声は低く、迷いがない。
「仕方ない……一度撤退するぞ」
即断に従い、彼らは旧校舎へ駆け戻る。
背後で、老婆の呻きと共に異界の扉が軋んでいた。
◇ ◇ ◇
「救援要請は完了しました」
旧校舎での連絡を終えると、花奈が息を整えて問う。
「それで、この後は……?」
笠井は短く黙し、視線を巡らせた。
「現状は?」
「今のところ、島の居住区を包むように鬼夢が拡大しています。ただ、ここは私の結界で抑えられています」
笠井はうなずき、隣の少女へ目を向ける。
「……川合 亜子。行けるか?」
亜子は強い眼差しで頷いた。
「大丈夫。……やられっぱなしは、性に合わないから」
笠井はふっと笑む。
「……いいだろう。全員、準備にかかれ!」
短い号令が響き、場の空気が戦場へと変わった。
◇ ◇ ◇
笠井と亜子の意識は、深みに引き込まれていく。
冷たい海水が全身を満たすような圧迫感。
やがて――
『……接続、完了です』
花奈の声と共に、二人は目を開いた。
そこは確かに離島。
だが、空には月も星もなく、広がるのは“永遠の闇”。
重苦しい海の気配が町全体を沈め、空気すら水音のように濁っている。
(……問題はなさそうだな)
笠井は横目で亜子を確かめる。
怯えはなく、ただ緊張を飲み込んでいる。
「七瀬、結界を頼む」
『了解です!』
淡い光が二人を包み、圧迫感がすっと消えた。
「……すごい。全然、苦しくない」
亜子が目を見開く。
「これで気兼ねなく戦えるな」
笠井が前を見据える。
「……さあ。お客さんのご登場だ」
住宅街の路地から影が“ぬり”と盛り上がり、小鬼の形を取る。
無数の亜羊が牙を剥き、侵入者を取り囲んだ。
「行くぞ!」
「りょー」
二人は群れへ飛び込む。
「我が敵を討て――『風塵鴉鎚』!」
黒鉄の槌が顕現し、振り下ろされるたびに亜羊が両断される。
衝撃が走り、黒い靄が舞い上がる。
一方の亜子は――素手。
飛びかかる影の頭を膝で砕き、背後へ踵落としを叩き込む。
圧倒的な身体能力で敵を粉砕していく。
(……鋭い。だが、なぜヴァジュラを使わない……?)
笠井の胸に小さな疑念が灯る。
――その秘密こそが、川合亜子という存在の鍵。
やがて笠井の周囲を新たな群れが取り囲む。
「七瀬、川合の結界を強化しろ」
『了解!』
亜子が身をかがめるのと同時に、笠井は拳を握った。
指の隙間から風刃が噴き出す。
「――『薄刃影狼』!」
風の群れが刃と化し、亜羊を一瞬で切り裂いた。
黒靄が吹き飛び、辺りは不気味な静寂に沈む。
「……おお。先生と同じくらい強い人、初めて見た」
亜子の不器用な感嘆が、かえって真実味を帯びる。
「ふん……さあ、敵の本体へ向かうぞ」
「ん!」『はい!』
三人の声が重なった。
彼らは走り出す。
深海に沈んだ町並みを裂き、異形が巣食う闇の奥へ――。
暗黒の底で、真の戦いが待ち構えていた。
【次回予告】
深海の町に潜む亜羊を退け、進む笠井と亜子。
だが、その先に待つのは――かつて忌まわしき実験が行われた施設。
闇に再現される子供たちの悲鳴。
そして、悪鬼へ変貌した老婆の姿。
“暴れ童子”笠井亮が挑むは、かつてない強敵――機織鬼。
亜子の心に刻まれた記憶が、再び炎を呼び起こす。
次回、第39話「暴れ童子」
――過去と悪意の巣食う場所で、宿命の戦いが幕を開ける。
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