第39話「暴れ童子」
笠井と亜子は、深海へ沈んだ町の狭い路地を駆け抜けていた。
道の両側に並ぶ家々は、水に浸かったかのように輪郭を歪ませている。
軒先からは大小の泡がぼこぼこと浮かび上がり、光のない空へ吸い込まれていった。
塩水を思わせる湿気が肌へまとわりつき、息を吸うたびに肺の奥が軋む。
目指すのは、町の最奥――。
最も濃い瘴気を吐き出す場所。
そこにこそ、この鬼夢を生み出した元凶が潜んでいる。
「……もうすぐだ。気を抜くな!」
笠井の鋭い声が、暗闇を切り裂く。
亜子は無言で頷き、その後へ続いた。
二人の足音が、水底へ沈んでいくように濁った空気へ吸い込まれていく。
やがて、狭かった視界が不意に開けた。
そこは、黒紫の瘴気が渦巻く淀みの地だった。
金属へ亀裂が走るような軋みが、四方から絶え間なく響いている。
頭上からは水滴が滴り落ち、床へ触れるたびに濁った波紋を広げていた。
重苦しい塩の匂いが鼻を刺す。
立ち込める黒紫の霧が視界を歪め、呼吸を鉛のように重くしていく。
二人の視線が、一点へ注がれた。
――昼間、花奈と亜子が目にした実験施設。
しかし、今そこに建っているのは、森の中へ取り残された崩れかけの廃墟ではない。
血と悲鳴に濡れた、あの日の姿のまま――。
泡影教の実験施設が、鬼夢の中へ蘇っていた。
『……ここは……』
観測を通して届いた花奈の声が、僅かに震える。
「随分と、趣味の悪い真似をする」
笠井が吐き捨てるように呟いた。
これは、ただ過去を再現したものではない。
亜子の傷を抉り、心を折るために作られた舞台だ。
現実側にいる花奈は、慧珠を通して亜子の様子を確かめた。
亜子は平静を装っている。
だが、握られた指先は微かに震え、澄んだオレンジ色の瞳の奥には、煮えたぎるような怒りが揺れていた。
(……亜子ちゃん……)
胸を締めつけられながらも、花奈は声を掛けずに見守った。
「行けるか?」
笠井が施設から視線を外さずに尋ねる。
亜子は一度だけ目を伏せた。
あの日の悲鳴が、耳の奥で蘇る。
それでも、逃げ出したいという衝動を振り払うように、ゆっくりと顔を上げた。
「……行く」
短い答えに迷いはなかった。
笠井は横目で亜子を見つめ、僅かに頷く。
「……そうか」
二人は視線を交わした。
『二人とも、気をつけてください』
花奈の声を受け、笠井と亜子は瘴気に覆われた施設の闇へ足を踏み入れた。
◇◇◇
「やめてぇえええ!」
廊下の奥から、別の幼い声が重なる。
「許して!」
さらに甲高い絶叫が、閉ざされた扉の向こうから響いた。
「いやぁあああッ!」
子供たちの悲鳴が、薄暗い廊下へ木霊する。
床には、小さな靴が幾つも散らばっていた。
壁には幼い掌の跡がこびりつき、何かを求めるように出口へ向かって伸びている。
鼻を突く、鉄錆にも似た血の匂い。
床には黒ずんだ粘液が点々と残され、足元へ絡みつくように蠢いていた。
通路の両側に並ぶ部屋。
その曇ったガラスの向こうには、実験台へ拘束された子供たちの姿がある。
虚ろな瞳で宙を見つめる子供。
血に染まった額を、何度も壁へ打ちつける子供。
自らの髪をむしり、皮膚ごと引き裂こうとする子供――。
悪鬼の力が、この地で行われた惨劇を精密に再現していた。
幻影だと頭では理解できる。
しかし、ここで本当に起きた出来事であるという事実を、否応なく突きつけてくる。
『……ひどい……』
花奈の悲痛な声が、二人の意識へ届く。
笠井は足を止めなかった。
背後を歩く亜子も、無表情を崩さない。
けれど、それは平静ではなかった。
耐えきれない痛みを押し殺し、自分の心を守るために被った仮面だ。
笠井自身もまた、こうした惨状には慣れているつもりだった。
それでも、風塵鴉鎚を握る手へ力が入り、掌から流れた血が黒鉄の柄を濡らしていく。
「……いい加減、糞ったれた歓迎はよしてもらおうか」
押し殺された声が、子供たちの絶叫を切り裂いた。
その直後、廊下の先で黒い影が蠢く。
黒紫の霧の中から姿を現したのは、駄菓子屋にいた老婆だった。
「よぉ来よったなぁ……」
老婆は背を丸めたまま、亜子へ濁った目を向ける。
「おぬしにとっちゃあ、懐かしかろう?」
舐め回すような視線が、亜子の身体へ絡みついた。
その瞬間――。
ガンッ!!
風塵鴉鎚の柄が、老婆の左腕を横から打ち据えた。
「ぐぬっ……!」
骨の軋む音とともに、老婆の身体が大きくよろめく。
「よそ見をしていいと、誰が言った?」
笠井はすでに、老婆の懐へ踏み込んでいた。
老婆は痛みに顔を歪めながらも、口元を醜く吊り上げる。
「こりゃあ弱った……まさか、“暴れ童子”が相手とはなぁ」
言葉とは裏腹に、濁った瞳の奥へ狡猾な光が宿る。
老婆はよろめいたふりをしながら、残った右手を笠井の腹部へ滑り込ませた。
伸びた爪が、はらわたを抉ろうと迫る。
だが、笠井はその芝居を見抜いていた。
ドンッ!!
「ふごッ!?」
老婆の腹部へ、笠井の膝が深々と突き刺さる。
肺の空気を全て吐き出し、老婆の身体がくの字に折れ曲がった。
「婆さんのくせに、随分と意地が悪いじゃないか」
笠井が冷ややかに見下ろす。
その口元に、挑発するような笑みが浮かんだ。
老婆の顔が、激しい怒りへ歪む。
「ぬかすなッ!」
地面へ両手を突き、老婆が絶叫した。
「無事に帰れると思うなぁッ!!」
叫びと同時に、実験室へ囚われていた子供たちの姿が溶け始める。
輪郭を失った身体が、床を這う黒い影へ変わっていった。
「ギギギギッ!!」
無数の亜羊が姿を現し、一斉に笠井へ飛びかかる。
一体、また一体とその身体へしがみつき、次々と折り重なっていく。
瞬く間に、笠井の姿は巨大な黒い球体の中へ呑み込まれた。
「ひひひ……」
老婆は床からゆっくりと立ち上がり、醜悪な笑みを浮かべた。
「これで、じっくりいたぶれるわい」
亜羊に覆われた笠井から視線を外し、老婆は亜子へ向き直る。
「さあ……わしの真の姿を見せてやろう!」
老婆の肉体が激しく痙攣した。
干からびた皮膚に亀裂が走り、その内側から赤黒い肉塊が蠢き出す。
骨の軋む音。
筋が弾ける音。
裂けた皮膚を押し広げ、異形の身体が虫の羽化を思わせる動きで這い出してくる。
全身を覆う、濡れた緑色の甲殻。
頭部に並ぶ、黄色い複眼。
異様な長さまで伸びた触角と、細く節くれ立った長脚。
背中からは半透明の翅が広がり、耳障りな音を響かせながら震えていた。
「ギッ……ギッ……!」
咽喉から漏れる声は、もはや人間のものではない。
「この機織鬼様が、相手じゃ!」
甲高い鳴き声を上げ、機織鬼が床を蹴った。
長脚を折りたたみ、その反動で亜子へ跳びかかる。
しかし――。
バアアアアンッ!!
激しい破裂音とともに、笠井を包み込んでいた亜羊の塊が内側から弾け飛んだ。
黒い靄とともに、荒れ狂う風が廊下を吹き抜ける。
機織鬼が亜子へ長脚を振り下ろした、その瞬間。
――ガキンッ!
笠井の風塵鴉鎚が、長脚の一撃を正面から受け止めた。
激しい衝撃が、機織鬼の脚から全身へ駆け抜ける。
「ギギッ!?」
機織鬼の巨体が、堪らず後方へ弾かれた。
「お前の相手は、俺だ」
風塵鴉鎚を構えた笠井が、亜子の前へ立つ。
「ギギギッ! 調子に乗るな!」
翅を激しく震わせ、機織鬼が頭上へ跳び上がった。
しかし、その背後には――すでに笠井が回り込んでいる。
「なっ――」
機織鬼が振り向くよりも早く、笠井が風塵鴉鎚を振り下ろした。
ドンッ!
黒鉄の槌頭が胸部を打ち据え、緑色の甲殻へ大きな亀裂を走らせる。
体勢を崩した機織鬼の顎へ、続けざまに笠井の膝が突き刺さった。
「ギッ――!?」
跳ね上がった顔面を、さらに拳が撃ち抜く。
機織鬼の身体が床へ叩きつけられ、亀裂とともに瓦礫が舞い上がった。
だが、笠井の猛攻は止まらない。
風塵鴉鎚による一撃。
膝。
拳。
蹴り。
一瞬たりとも反撃を許さず、機織鬼の全身を苛烈な連撃で打ち砕いていく。
荒れ狂う鉄槌。
それはまさに、“暴れ童子”の異名にふさわしい暴威だった。
「……すごい」
亜子が思わず息を呑む。
かつて、小沢良子から告げられた言葉が脳裏に蘇った。
――あなたは、私だけを尺度にしてはいけない。
亜子にとって、強さの基準は常に小沢だった。
だが、今目の前にいる笠井亮は、自分の知らなかった圧倒的な力を振るっている。
小沢の言葉の意味を、亜子は初めて実感していた。
その僅かな意識の揺れを、機織鬼は見逃さなかった。
「ギギギ……!」
地面へ倒れたまま長脚を大きく折り曲げ、一気に伸ばす。
笠井の横をすり抜け、機織鬼の身体が亜子へ迫った。
「さあ……攻撃できるか!」
緑色の長脚が、亜子の小さな身体へ絡みつく。
「くっ……!」
両腕ごと締め上げられ、亜子の足が床から浮いた。
機織鬼は黄色い複眼を細め、ざらついた舌で亜子の頬を舐める。
冷たい粘液が、白い肌を伝った。
「……離れろ、ゲスが」
笠井の声音から、先ほどまでの余裕が消える。
一歩を踏み出した直後、機織鬼の翅が激しく震え始めた。
「《切桐舞舞》!」
ギーチョッ!
ギーチョッ!
耳障りな鳴き声とともに、空気そのものが鋭く裂ける。
不可視の斬撃が笠井の全身へ襲いかかり、衣服と皮膚を次々と切り刻んでいった。
赤い血飛沫が、暗い廊下へ弧を描く。
それでも、笠井の足は止まらない。
『わたしのことも、忘れないでよね!』
花奈の声が響く。
亜子の傍らへ投射されていた慧珠が、眩い閃光を放った。
「ギャアッ!?」
複眼を焼かれ、機織鬼が苦痛に身体を仰け反らせる。
拘束していた長脚が緩み、亜子の身体が解き放たれた。
亜子は空中で身体を捻り、床へ着地する。
『亮さん! 今です!』
花奈の声を受け、笠井が風塵鴉鎚を握り締めた。
その背後に、三つの瞳を持つ巨大な鴉の影が浮かび上がる。
悪鬼――風鴉。
風塵鴉鎚の表面へ、無数の亀裂が走った。
黒鉄の槌が細かな破片へと崩れ、荒れ狂う漆黒の風に呑み込まれていく。
「悪鬼招来――」
黒い烈風が笠井の腕へまとわりつき、幾つもの鋭い爪を形作った。
「《黒錆鉄爪》!」
機織鬼の複眼に、初めて明確な恐怖が浮かんだ。
「ひ、ひいいいッ!?」
逃れようと翅を広げる。
だが、その動きを上回る速さで、黒き風の爪が四方から機織鬼へ食らいついた。
「――啄め!」
笠井の号令とともに、漆黒の烈風が一斉に収束する。
黒鉄の破片を纏った風が、機織鬼の甲殻を穿ち、肉を抉り、巨体を内側から削り崩していく。
「ギャアアアアアッ!!」
機織鬼の断末魔が、施設全体を激しく震わせた。
緑色の甲殻も、異形の肉体も、荒れ狂う黒い風によって細かな塵へ削り散らされていく。
やがて烈風が収まり、廊下へ静寂が戻った。
床に残されていたのは、《黒錆鉄爪》に削られて黒く変色した甲殻の破片と、僅かに漂う黒紫の靄だけだった。
『やった……!』
花奈の安堵した声が届く。
隣に立つ亜子も、素直な驚きを口にした。
「……すごい」
笠井は答えなかった。
《黒錆鉄爪》を纏っていた右腕が、僅かに痙攣している。
それでも、その鋭い眼差しは床へ残された黒い殻から逸らされていなかった。
「……油断するな」
低い声に、亜子の表情が引き締まる。
「まだ、終わっていない」
次の瞬間――。
ピシッ。
床へ落ちていた黒い殻に、細い亀裂が走った。
ピシッ、ピシッ、と乾いた音が続く。
砕けた殻の隙間から、漆黒の影が地を這うように溢れ出した。
闇の奥で、何かがガチガチと歯を鳴らしている。
やがて、黒い影の中に幾つもの複眼が開いた。
怒りに爛々と燃える光が、笠井と亜子を睨みつける。
悪鬼の執念は、まだ潰えていなかった――。
【次回予告】
深海へ沈んだ実験施設――。
笠井の黒き嵐によって削り尽くされたはずの悪鬼は、なおも漆黒の殻を破り、異形の姿となって蠢き出す。
かつての惨劇を糧に、幾重もの怨念をまとった魔蟲が、少女たちへ牙を剥く。
守られるだけでは、終われない。
託された想いを胸に、川合亜子が己の意志で一歩を踏み出す。
過去に別れを告げるため――その拳を、悪夢へ叩き込む。
次回、第40話「黄昏の戦姫」




