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夢幻開現師―悪夢を断つ者―  作者: ks21
第五章:黄昏の戦姫編
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第39話「暴れ童子」

 笠井と亜子は、深海へ沈んだ町の狭い路地を駆け抜けていた。


 道の両側に並ぶ家々は、水に浸かったかのように輪郭を歪ませている。


 軒先からは大小の泡がぼこぼこと浮かび上がり、光のない空へ吸い込まれていった。


 塩水を思わせる湿気が肌へまとわりつき、息を吸うたびに肺の奥が軋む。


 目指すのは、町の最奥――。


 最も濃い瘴気を吐き出す場所。


 そこにこそ、この鬼夢《おにむ》を生み出した元凶が潜んでいる。


「……もうすぐだ。気を抜くな!」


 笠井の鋭い声が、暗闇を切り裂く。


 亜子は無言で頷き、その後へ続いた。


 二人の足音が、水底へ沈んでいくように濁った空気へ吸い込まれていく。


 やがて、狭かった視界が不意に開けた。


 そこは、黒紫の瘴気が渦巻く淀みの地だった。


 金属へ亀裂が走るような軋みが、四方から絶え間なく響いている。


 頭上からは水滴が滴り落ち、床へ触れるたびに濁った波紋を広げていた。


 重苦しい塩の匂いが鼻を刺す。


 立ち込める黒紫の霧が視界を歪め、呼吸を鉛のように重くしていく。


 二人の視線が、一点へ注がれた。


 ――昼間、花奈と亜子が目にした実験施設。


 しかし、今そこに建っているのは、森の中へ取り残された崩れかけの廃墟ではない。


 血と悲鳴に濡れた、あの日の姿のまま――。


 泡影教《ほうようきょう》の実験施設が、鬼夢の中へ蘇っていた。


『……ここは……』


 観測を通して届いた花奈の声が、僅かに震える。


「随分と、趣味の悪い真似をする」


 笠井が吐き捨てるように呟いた。


 これは、ただ過去を再現したものではない。


 亜子の傷を抉り、心を折るために作られた舞台だ。


 現実側にいる花奈は、慧珠《えじゅ》を通して亜子の様子を確かめた。


 亜子は平静を装っている。


 だが、握られた指先は微かに震え、澄んだオレンジ色の瞳の奥には、煮えたぎるような怒りが揺れていた。


(……亜子ちゃん……)


 胸を締めつけられながらも、花奈は声を掛けずに見守った。


「行けるか?」


 笠井が施設から視線を外さずに尋ねる。


 亜子は一度だけ目を伏せた。


 あの日の悲鳴が、耳の奥で蘇る。


 それでも、逃げ出したいという衝動を振り払うように、ゆっくりと顔を上げた。


「……行く」


 短い答えに迷いはなかった。


 笠井は横目で亜子を見つめ、僅かに頷く。


「……そうか」


 二人は視線を交わした。


『二人とも、気をつけてください』


 花奈の声を受け、笠井と亜子は瘴気に覆われた施設の闇へ足を踏み入れた。


◇◇◇


「やめてぇえええ!」


 廊下の奥から、別の幼い声が重なる。


「許して!」


 さらに甲高い絶叫が、閉ざされた扉の向こうから響いた。


「いやぁあああッ!」


 子供たちの悲鳴が、薄暗い廊下へ木霊する。


 床には、小さな靴が幾つも散らばっていた。


 壁には幼い掌の跡がこびりつき、何かを求めるように出口へ向かって伸びている。


 鼻を突く、鉄錆にも似た血の匂い。


 床には黒ずんだ粘液が点々と残され、足元へ絡みつくように蠢いていた。


 通路の両側に並ぶ部屋。


 その曇ったガラスの向こうには、実験台へ拘束された子供たちの姿がある。


 虚ろな瞳で宙を見つめる子供。


 血に染まった額を、何度も壁へ打ちつける子供。


 自らの髪をむしり、皮膚ごと引き裂こうとする子供――。


 悪鬼の力が、この地で行われた惨劇を精密に再現していた。


 幻影だと頭では理解できる。


 しかし、ここで本当に起きた出来事であるという事実を、否応なく突きつけてくる。


『……ひどい……』


 花奈の悲痛な声が、二人の意識へ届く。


 笠井は足を止めなかった。


 背後を歩く亜子も、無表情を崩さない。


 けれど、それは平静ではなかった。


 耐えきれない痛みを押し殺し、自分の心を守るために被った仮面だ。


 笠井自身もまた、こうした惨状には慣れているつもりだった。


 それでも、風塵鴉鎚《ふうじんがつい》を握る手へ力が入り、掌から流れた血が黒鉄の柄を濡らしていく。


「……いい加減、糞ったれた歓迎はよしてもらおうか」


 押し殺された声が、子供たちの絶叫を切り裂いた。


 その直後、廊下の先で黒い影が蠢く。


 黒紫の霧の中から姿を現したのは、駄菓子屋にいた老婆だった。


「よぉ来よったなぁ……」


 老婆は背を丸めたまま、亜子へ濁った目を向ける。


「おぬしにとっちゃあ、懐かしかろう?」


 舐め回すような視線が、亜子の身体へ絡みついた。


 その瞬間――。


 ガンッ!!


 風塵鴉鎚の柄が、老婆の左腕を横から打ち据えた。


「ぐぬっ……!」


 骨の軋む音とともに、老婆の身体が大きくよろめく。


「よそ見をしていいと、誰が言った?」


 笠井はすでに、老婆の懐へ踏み込んでいた。


 老婆は痛みに顔を歪めながらも、口元を醜く吊り上げる。


「こりゃあ弱った……まさか、“暴れ童子”が相手とはなぁ」


 言葉とは裏腹に、濁った瞳の奥へ狡猾な光が宿る。


 老婆はよろめいたふりをしながら、残った右手を笠井の腹部へ滑り込ませた。


 伸びた爪が、はらわたを抉ろうと迫る。


 だが、笠井はその芝居を見抜いていた。


 ドンッ!!


「ふごッ!?」


 老婆の腹部へ、笠井の膝が深々と突き刺さる。


 肺の空気を全て吐き出し、老婆の身体がくの字に折れ曲がった。


「婆さんのくせに、随分と意地が悪いじゃないか」


 笠井が冷ややかに見下ろす。


 その口元に、挑発するような笑みが浮かんだ。


 老婆の顔が、激しい怒りへ歪む。


「ぬかすなッ!」


 地面へ両手を突き、老婆が絶叫した。


「無事に帰れると思うなぁッ!!」


 叫びと同時に、実験室へ囚われていた子供たちの姿が溶け始める。


 輪郭を失った身体が、床を這う黒い影へ変わっていった。


「ギギギギッ!!」


 無数の亜羊《あよう》が姿を現し、一斉に笠井へ飛びかかる。


 一体、また一体とその身体へしがみつき、次々と折り重なっていく。


 瞬く間に、笠井の姿は巨大な黒い球体の中へ呑み込まれた。


「ひひひ……」


 老婆は床からゆっくりと立ち上がり、醜悪な笑みを浮かべた。


「これで、じっくりいたぶれるわい」


 亜羊に覆われた笠井から視線を外し、老婆は亜子へ向き直る。


「さあ……わしの真の姿を見せてやろう!」


 老婆の肉体が激しく痙攣した。


 干からびた皮膚に亀裂が走り、その内側から赤黒い肉塊が蠢き出す。


 骨の軋む音。


 筋が弾ける音。


 裂けた皮膚を押し広げ、異形の身体が虫の羽化を思わせる動きで這い出してくる。


 全身を覆う、濡れた緑色の甲殻。


 頭部に並ぶ、黄色い複眼。


 異様な長さまで伸びた触角と、細く節くれ立った長脚。


 背中からは半透明の翅が広がり、耳障りな音を響かせながら震えていた。


「ギッ……ギッ……!」


 咽喉から漏れる声は、もはや人間のものではない。


「この機織鬼《はたおりき》様が、相手じゃ!」


 甲高い鳴き声を上げ、機織鬼が床を蹴った。


 長脚を折りたたみ、その反動で亜子へ跳びかかる。


 しかし――。


 バアアアアンッ!!


 激しい破裂音とともに、笠井を包み込んでいた亜羊の塊が内側から弾け飛んだ。


 黒い靄とともに、荒れ狂う風が廊下を吹き抜ける。


 機織鬼が亜子へ長脚を振り下ろした、その瞬間。


 ――ガキンッ!


 笠井の風塵鴉鎚が、長脚の一撃を正面から受け止めた。


 激しい衝撃が、機織鬼の脚から全身へ駆け抜ける。


「ギギッ!?」


 機織鬼の巨体が、堪らず後方へ弾かれた。


「お前の相手は、俺だ」


 風塵鴉鎚を構えた笠井が、亜子の前へ立つ。


「ギギギッ! 調子に乗るな!」


 翅を激しく震わせ、機織鬼が頭上へ跳び上がった。


 しかし、その背後には――すでに笠井が回り込んでいる。


「なっ――」


 機織鬼が振り向くよりも早く、笠井が風塵鴉鎚を振り下ろした。


 ドンッ!


 黒鉄の槌頭が胸部を打ち据え、緑色の甲殻へ大きな亀裂を走らせる。


 体勢を崩した機織鬼の顎へ、続けざまに笠井の膝が突き刺さった。


「ギッ――!?」


 跳ね上がった顔面を、さらに拳が撃ち抜く。


 機織鬼の身体が床へ叩きつけられ、亀裂とともに瓦礫が舞い上がった。


 だが、笠井の猛攻は止まらない。


 風塵鴉鎚による一撃。


 膝。


 拳。


 蹴り。


 一瞬たりとも反撃を許さず、機織鬼の全身を苛烈な連撃で打ち砕いていく。


 荒れ狂う鉄槌。


 それはまさに、“暴れ童子”の異名にふさわしい暴威だった。


「……すごい」


 亜子が思わず息を呑む。


 かつて、小沢良子《おざわりょうこ》から告げられた言葉が脳裏に蘇った。


 ――あなたは、私だけを尺度にしてはいけない。


 亜子にとって、強さの基準は常に小沢だった。


 だが、今目の前にいる笠井亮は、自分の知らなかった圧倒的な力を振るっている。


 小沢の言葉の意味を、亜子は初めて実感していた。


 その僅かな意識の揺れを、機織鬼は見逃さなかった。


「ギギギ……!」


 地面へ倒れたまま長脚を大きく折り曲げ、一気に伸ばす。


 笠井の横をすり抜け、機織鬼の身体が亜子へ迫った。


「さあ……攻撃できるか!」


 緑色の長脚が、亜子の小さな身体へ絡みつく。


「くっ……!」


 両腕ごと締め上げられ、亜子の足が床から浮いた。


 機織鬼は黄色い複眼を細め、ざらついた舌で亜子の頬を舐める。


 冷たい粘液が、白い肌を伝った。


「……離れろ、ゲスが」


 笠井の声音から、先ほどまでの余裕が消える。


 一歩を踏み出した直後、機織鬼の翅が激しく震え始めた。


「《切桐舞舞《キリギリマイマイ》》!」


 ギーチョッ!


 ギーチョッ!


 耳障りな鳴き声とともに、空気そのものが鋭く裂ける。


 不可視の斬撃が笠井の全身へ襲いかかり、衣服と皮膚を次々と切り刻んでいった。


 赤い血飛沫が、暗い廊下へ弧を描く。


 それでも、笠井の足は止まらない。


『わたしのことも、忘れないでよね!』


 花奈の声が響く。


 亜子の傍らへ投射されていた慧珠が、眩い閃光を放った。


「ギャアッ!?」


 複眼を焼かれ、機織鬼が苦痛に身体を仰け反らせる。


 拘束していた長脚が緩み、亜子の身体が解き放たれた。


 亜子は空中で身体を捻り、床へ着地する。


『亮さん! 今です!』


 花奈の声を受け、笠井が風塵鴉鎚を握り締めた。


 その背後に、三つの瞳を持つ巨大な鴉の影が浮かび上がる。


 悪鬼――風鴉《ふうが》。


 風塵鴉鎚の表面へ、無数の亀裂が走った。


 黒鉄の槌が細かな破片へと崩れ、荒れ狂う漆黒の風に呑み込まれていく。


「悪鬼招来――」


 黒い烈風が笠井の腕へまとわりつき、幾つもの鋭い爪を形作った。


「《黒錆鉄爪《こくじょうてっそう》》!」


 機織鬼の複眼に、初めて明確な恐怖が浮かんだ。


「ひ、ひいいいッ!?」


 逃れようと翅を広げる。


 だが、その動きを上回る速さで、黒き風の爪が四方から機織鬼へ食らいついた。


「――啄《ついば》め!」


 笠井の号令とともに、漆黒の烈風が一斉に収束する。


 黒鉄の破片を纏った風が、機織鬼の甲殻を穿ち、肉を抉り、巨体を内側から削り崩していく。


「ギャアアアアアッ!!」


 機織鬼の断末魔が、施設全体を激しく震わせた。


 緑色の甲殻も、異形の肉体も、荒れ狂う黒い風によって細かな塵へ削り散らされていく。


 やがて烈風が収まり、廊下へ静寂が戻った。


 床に残されていたのは、《黒錆鉄爪》に削られて黒く変色した甲殻の破片と、僅かに漂う黒紫の靄だけだった。


『やった……!』


 花奈の安堵した声が届く。


 隣に立つ亜子も、素直な驚きを口にした。


「……すごい」


 笠井は答えなかった。


 《黒錆鉄爪》を纏っていた右腕が、僅かに痙攣している。


 それでも、その鋭い眼差しは床へ残された黒い殻から逸らされていなかった。


「……油断するな」


 低い声に、亜子の表情が引き締まる。


「まだ、終わっていない」


 次の瞬間――。


 ピシッ。


 床へ落ちていた黒い殻に、細い亀裂が走った。


 ピシッ、ピシッ、と乾いた音が続く。


 砕けた殻の隙間から、漆黒の影が地を這うように溢れ出した。


 闇の奥で、何かがガチガチと歯を鳴らしている。


 やがて、黒い影の中に幾つもの複眼が開いた。


 怒りに爛々と燃える光が、笠井と亜子を睨みつける。


 悪鬼の執念は、まだ潰えていなかった――。

【次回予告】


 深海へ沈んだ実験施設――。


 笠井の黒き嵐によって削り尽くされたはずの悪鬼は、なおも漆黒の殻を破り、異形の姿となって蠢き出す。


 かつての惨劇を糧に、幾重もの怨念をまとった魔蟲が、少女たちへ牙を剥く。


 守られるだけでは、終われない。


 託された想いを胸に、川合亜子が己の意志で一歩を踏み出す。


 過去に別れを告げるため――その拳を、悪夢へ叩き込む。


 次回、第40話「黄昏の戦姫」

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