浮遊霊の老人
彼らが店の中に戻ると、圧延がカウンターの中に入ってある椅子の前に紅茶を出していた。
そのかたわらで紅蜀葵が彼らを笑顔で迎え入れる。
「あらお帰りなさい。外は暑かったでしょう?」
「ただいま。たのしかった」
甘藍は微笑を浮かべて彼女に報告し、鋼征を安心させた。
「そう。よかったわね」
微笑んで猫又の少女の頭をやさしく撫でる紅蜀葵の姿は、まるで慈母のようである。
外見的には姉と妹と表現したほうが適切だったが。
「お水を入れるわね」
妖狐の美女は言うと慣れた動作でカウンターに置かれたグラスをふたつとり、大きなピッチャーに入った水を注いで甘藍と鋼征に渡してくれる。
「ありがとうございます。……ところでおじさんは何をしているのですか?」
彼は誰もいない席に話しかけているおじのことを不思議そうにたずねた。
「あら、鋼征さんには見えないの?」
ところが紅蜀葵は彼の質問に驚いて目を丸くする。
「あそこにはくんぷーがいる」
甘藍が簡潔に教えてくれた。
「くんぷーさん? 俺に見えないってことは幽霊だったりするのかな?」
鋼征が口にしたのはただのあてずっぽうである。
「ええ、浮遊霊の薫風さんよ」
紅蜀葵はそう言ってから何もない空間へ視線を移した。
もしかしたら紹介されたのかもしれないが、何しろ鋼征には何も見えない。
(妖怪たちがいる店だって理解してからじゃなかったら、たぶん信じなかったな)
と彼は思う。
紅蜀葵も甘藍もこのような手段で彼をからかうような性格ではないと、短いつきあいながら自信をもって言える。
だから彼は圧延や紅蜀葵たちが見ている空間に向かってぺこりとおじぎをした。
彼が見えなくても幽霊の薫風のほうは分かるだろうという判断である。
するとどこから男性の笑い声が聞こえ、紅茶の白いカップが置かれた席に突然 紺色の着物を着た老人の姿が出現した。
白髪にしわだらけの顔という見た目に反して声は若々しくて力がある。
「なかなか礼儀正しい子どもだ。気に入ったよ」
老人は言って紅茶を飲んでから立ち上がり、鋼征に笑いかけた。
「薫風と名乗っている平凡な年寄りだ。店長の甥の鋼征君だったな? よろしく」
「こちらこそよろしくお願いします」
鋼征がもう一度彼に頭を下げると、老人は満足そうにうなずく。
そのような幽霊を見ていた紅蜀葵が感心した声を出す。
「薫風がこんなに早く姿を見せるだなんて、鋼征さんやるじゃない」
彼女の言葉を聞いた彼は、先ほどまで薫風の姿が見えなかったのは本人の意思によるものだと理解する。
知らなかったらしい甘藍が首をかしげながら紅蜀葵にたずねた。
「もしかして薫風って人間に姿を見せないようにできる?」
「ええ。浮遊霊と言っても彼くらい格を積み上げたら、なかなかすごいのよ」
妖狐の回答は上の通りだった。
「格を積む……?」
知らない表現に鋼征が目を白黒させる。
「今説明してもいいのだけど」
紅蜀葵は少し考えてから言う。
「一気にいろんなことを覚えるのは大変だろうから、いずれにしようかしら」
「まあ幽霊が格を積む方法なんて、生きている若者に聞かせても仕方ないからな」
薫風は苦笑しながら彼女に賛成する。
「それよりもだ。鋼征君はこれからどうするつもりだい? この店で修行していくつもりなのかい?」
老人の問いかけに鋼征は首を縦に振った。
「自分の身を守るためにも、ここでお世話になったほうがいいと思っています。知らないことがいっぱいあってたいへんですが」
「そりゃそうだろう。ワシだって死んで初めてこんな世界があると知ったし、この体になってからけっこう経つのに生きていた頃の知り合いはまだ見たことがない。きっと死ぬまで気づかないどころか、死んでもこの世界とは無縁のままなのが普通の人間なのだろう」
薫風はサバサバと割り切ったように話したが、表情には一抹の寂しさがある。
(そういうものなのか。人間、死ねばかならず幽霊になるってわけでもないのだな)
鋼征にしてみればとても新鮮な情報だった。
「とにかくワシは君を歓迎しよう」
老人は気を取り直して彼にそう言う。
「ありがとうございます」
彼はまたしても頭を下げる。
それを見ていた甘藍が紅蜀葵に小声で聞く。
「ねえ、人間ってどうしてあんなにぺこぺこするの?」
「あれは仲良くしましょうって合図みたいなものなのよ。人間なりのね」
妖狐はやさしく回答する。
「ふーん、そうなんだ」
猫又の症状は納得しようだが、そのまなざしから不思議そうな色は消えていない。
紅蜀葵は赤い瞳を彼に向けて説明する。
「この子が知っている人間は圧延さんくらいしかいなかったから、とても新鮮なのよ」
「そうなのですか」
鋼征は答えながら「もしかして飼い猫じゃなかったのか」と勘ぐった。
もっとも、飼い猫だったところで「人間はなぜこのような行為をするのか?」という疑問が解消される機会があるとはかぎらないが。
「鋼征さんがこの店で働くなら、甘藍ちゃんにとっていい勉強になるかもしれないわね」
紅蜀葵がそう言うと甘藍は彼の眼を見すえながら聞いてくる。
「こうせい、これからも来てくれる?」
彼女が発した問いは何気ないもののようでいて、紅蜀葵と圧延と薫風を驚かせた。
「あ、ああ。甘藍ちゃんさえよければ、また遊ぼう」
「うん」
鋼征の言葉に少女は即答し、もう一度他の面子を絶句させる。




