お酒はいろんなものを弛めるようで…
「ただいま、結愛~。明日、お母さんとおでかけしよう」
「おかえりなさい。突然ですね。どうしたんですか?」
夕食後に、まったりリビングのソファーでテレビを見ていたら、帰ってきた母に背後から抱きつかれました。本日母はお仕事のお付き合いでお食事会だったのです。うん、お酒臭い。
「あ~、癒されるわぁ。結愛のサラサラ髪の毛~~」
って聞いてませんね、この酔っ払いめ。頭にぐりぐりされてますよ。
「もう!私お風呂入ったのに、お酒の匂いがついちゃいます~~~。やめて~~」
ちょっと前に身長は抜かしたんですけど、背後取られてるせいか逃げられません。
抗議しながらもどうにか逃げようとじたばたしてたら、あきれ顔の兄が助けてくれました。
「何してるの、母さん。うわ、お酒臭い! こんなに飲むなんて珍しいね」
やんわりと私に絡みついた母の腕を解きながら、兄も目を丸くしてます。
そうなんですよね。
母はお酒大好きでいくら飲んでも次の日には響かない強靭な肝臓の持ち主ですが、結構な絡み酒なので、外ではほとんど飲まないんです。
本当に仲の良い人との集まりではその限りではないようですが、今日はお仕事がらみだと言っていたのに。
すると、母が兄に背後から支えられながらも、ほにゃんと笑いました。
「うふふ。今日ね、帰りがけに懐かしい人に会っちゃって。ついついそこから思い出話に花が咲いてさ~~」
ご機嫌な口調に、思わず母の肩越しに兄と顔を見合わせてしまいました。
母親が「思い出」を誰かと語り合った。
しかも、一緒にお酒を飲みながら?
私と兄を放置して遊び歩いていた過去を、母は非常に悔いていて、当時の話は決して口にしません。
それと同じくらい、学生時代の話も聞いた事がありませんし、写真だって一枚も見たことがありません。
なにかあったのかな?とは思うけど、あえて聞くこともできなくて真相は謎のままです。
ちなみに私達の父親の話も、ほとんどしたことがありませんでした。
だから、私が知っている父の情報は本当に少しだけしかありません。
当時、少しだけいっしょにくらしていたという幼い兄の断片的な記憶と、私の寝顔を見つめながら母親が切ない声でつぶやく言葉だけ。
『結愛の髪も瞳もあなたそっくりね』『不器用だけど、すごく優しく笑う人だったのよ』『結愛もきっと大きくなるわね』『あら、耳のおんなじ所のほくろがあるのね。珍しい……』
私に語るように。自分の中の思い出をなぞるように。
寂しさや愛しさがごちゃ混ぜになった複雑な声音に幼い私は動くこともできず、夢現のままその声をただ聞いている事しかできませんでした。
そして、その経験は私から父の事を母に尋ねる気力を奪うには十分すぎたのです。
浮かぶ疑問は見ないふりをして、ただ目の前にある家族だけを大切にしようと決めたあの日の誓いは今も続いています。
そうしないと、今を必死に生きている母を傷つけてしまう気がして……。
恐らく、兄も同じような気持ちだったと思います。
そんな母が、……。
「思い出話ですか?」
思わずポロリと言葉がこぼれ落ちてパッと自分の口をふさいだけれど、酔っぱらいさんは気にすることなくにこにこと笑っています。
「そうそう。結愛がお腹にいる時にお世話になった人なのよ。私あの頃本当に世間知らずでさ~。見るに見かねていろいろ教えてくれたの。すごく助かっちゃった。おかげであなた達のお金もちゃんとする事ができたんだから、本当に感謝よね~~」
「お金ってあの通帳の奴?」
「そ~~~~。そ~~~れ~~~~!!財産管理する~~人とかも~~紹介してもらってさぁ~~」
私や兄が今の学校に通うか迷っている時「最終手段があるから大丈夫」と教えてもらった通帳の存在。
私と兄、そして母の名前で3通。
見せてもらった中身は思わずゼロの数を数えてしまうほどに入っていて、思わず青ざめました。
それぞれの父親から貰った養育費その他という事で、母親の通帳から毎月一定額が普段使いの通帳へと振込されている以外はまるッと手付かずでした。
「あれね~~。その人に教えてもらってから分けて~~あのかたちに~~~なってぇ~~~~~~」
驚きの情報に兄と顔を見合わせているうちに、母の言葉が間延びして途切れ途切れになってきました。
「これはもう無理だね」
「そうみたいですね」
ゆっくりと力が抜けて座り込みそうになる母の体を、抱きとめた兄がため息を一つつきます。
覗き込んだ母の瞳はしっかりと閉じられていました。
でも、なんだか幸せそうな寝顔に、思わずこっち迄笑顔になってしまいます。
「着替えさせるのでお部屋に運んでてください。ホットタオル作ってきます」
「了解。まったく、しょうがないなぁ」
危なげなく母を運んでいく兄を見送って、タオルを取るために洗面所へと向かいます。
「それにしても、母があんなにうれしそうにする昔の知り合い、ですか」
タオルを絞りながら思い出そうとしますが、心当たりはありません。
兄の驚いたような顔を見るに、きっと兄にも心当たりはないんでしょうね。
という事は、兄を留守番させて出歩いていた時代の知り合い、ですね。きっと……。
「という事は、きっと明日には何も教えてくれないでしょうね。……う~ん、気になる」
ブツブツ呟きながらもジップロックに絞ったタオルを入れて、レンジでチンすればアツアツのホットタオルの出来上がり、です。
それにしても、そろそろつついてみるべきでしょうか?でも、好奇心は猫をも殺すって言いますしねぇ。
「結愛、準備できた~?」
迷っていたら、向こうから私を呼ぶ兄の声が飛んできました。同時に、レンジがピーピーピーと電子音を響かせます。
とりあえずは、目の前の問題から解決しましょうかね。
「は~い。今行きます~」
火傷しないようにジップロックの端っこをつまんで、私は急いで母の元へと向かうのでした。
「そうか……。あの時の子供、無事に大きくなったんだねぇ」
ビルの屋上でフェンスにもたれかかりながら、長身の影がプカリと夜空に紫煙をふかした。
街の明かりで焼けた夜空には星の一つも見えないし、空気も悪い。
そんな空を、それでもどこか楽しそうに紫紺の瞳は眺めていた。




