第23話 魔王、臣に辻を許す
朝の道は、勤めに出る民でいっぱいであった。皆おなじ方角へ流れていく中を、余とガルドバーンだけが逆へ歩く。大男に合う服はまだ少なく、ひよりの見立てた灰色の上下である。得物ひとつ帯びておらぬというのに、すれ違う民は大男を二度見ていく。そのたび本人は会釈などしておる。返す民もおる。平和なものである。
目指す先は、昨日この男が匂いをたどった方角である。家並みの切れ目に、細長い緑地があった。植え込みと、古びた滑り台がひとつ。人の気配は薄い。
「ここか」
「はっ。昨日より匂いは薄うございますが、間違いありませぬ。この奥にございます」
「そこまで分かるのか。便利な鼻だ」
植え込みの裏へ回ると、あった。空気の一箇所が、小さくほつれておる。橋の下で見たものと同じ類だが、あれよりずっと小さい。指の二、三本も入らぬほどの綻びだ。塞がらぬのは分かっておる。ならば試さぬ。無駄に力を使うて覆いまで傷めては元も子もない。
周りの土を検めた。獣の湧いた痕は薄い。だが、ある。放っておけば、いずれ何かが出る口だ。
「ガルドバーン。役目を与える」
「はっ」
「この口と裏山、朝夕に見回れ。獣が湧けば、民の目に触れる前に討て。跡も残すな」
「承りました」
大きな背が、さらに伸びた。声も低く弾んでおる。居候の身でようやく軍務を得たのが、よほど嬉しいらしい。
「申し上げます。見回りの道順、すでに三通り考えてございます」
「早いな。歩きながら聞こう」
三通りとも聞き終えるころには、家の屋根が見えてきた。相変わらず長い。ただ、この男が得意げに献策するのを聞くのは、嫌いではなかった。
昼を回って、辻を開けた。近ごろ立て込んでおったゆえ、久方ぶりの、何も起こらぬはずの辻である。
「よくぞ参った、諸君。本日は目安箱だ。溜まった訴えに、順に沙汰を下す」
《待ってた》
《通常回きた》
《先週の公園の見ました》
早いな。まだ何も始めておらぬ。
一つ目の訴えは、朝どうしても起きられぬという学徒のものだ。夜更かしをやめよ、と沙汰を下した。
《正論すぎる》
《魔王様が言う? 深夜配信の男が》
「余は朝から起きておる。現に今朝も出歩いた。何も問題あるまい」
《そういう話じゃない》
《それより大男さんは?》
む。
二つ目は、勤め先の上役が理不尽だという訴えである。先に手柄を立てよ、さすれば理不尽は黙る、と下した。
《解決が武力寄りなんよ》
《大男さんならどうする?》
《大男待ち》
《公園の人、次いつ出ます?》
……訴えを読んでおるのは余であるのだが。
「目安箱は以上である。次へ移る」
《流した》
《今流したぞ》
《大男さん出して》
《中の人まだですか》
また大男か。次へ移ろうにも、余が何を話しても、欄の下は大男で埋まっていく。これは誰の辻であったか。
ちなみに当の大男は、いま映らぬ壁際に膝を揃えて座り、余の肩越しに流れる欄を、身じろぎもせず見ておる。名が呼ばれるたび、畳がかすかに軋んだ。
「その儀は」余は咳払いをした。「沙汰を待て。本日はここまでとする」
《おおー?》
《待てってことは、有るってこと?》
《匂わせだ匂わせ》
これ以上続けても大男に戻されるだけである。沸いた欄を置いて、余は本日の辻を畳んだ。
板を伏せて振り向くと、壁際の男が、畳に両の拳をついた。
「陛下。願いの儀がございます」
「申せ」
「某も、陛下の辻に立ちとうございます」
来たか。
「民が某を呼んでおります。呼ばれて出ぬは武人の名折れ。それに、陛下が毎夜あの板の前で——」
「毎夜ではない」
「……辻を開かれるたび、某は壁の向こうで聞くばかりでした。米の恩も、まだ返せておりませぬ」
ひよりに言われて以来、余はずっと引っかかっておったのだ。臣を見世物の台に上げるのか、と。
だが、本人が出ると言うておる。主が命じて晒すのではない。しかも己の食い扶持を稼ぐためだ。ならば、止める方がおかしいのではないか。御前試合で武名を上げて禄を得るのと……おそらく、そう遠くはあるまい。
「面を上げよ、ガルドバーン。その願い、聞き届けた」
「はっ……!」
「ただし辻では、客は欄の向こうだ。あれらを飽きさせた者から先に討ち死にする。心せよ」
「御意!」
余はその場で、ひよりへつなぎの声を送った。三度も鳴らぬうちに出た。
「もしもし——え、本人が? 自分から言ったんですか? ……よし。よしよしよし、絶対いけます、それ。前に言った大食いの企画でいきましょう。機材はあるし、告知は今夜出して……明日! 明日の夜やりましょう。鉄は熱いうちです」
「明日か。急だな」
「早いのがいいんです。ね、ガルドバーンさんもそれでいいですか」
板から漏れる声へ、大男は畳に手をついて「異存ござらん」と低頭した。板に礼をするな。声しか届いておらぬ。
「では明日の夜、と決まったぞ」
「はっ。……陛下。初の陣にて、某は何を仕度いたせば」
「何も要らぬ。強いて言えば、腹を空けておけ」
「腹を」
「そなたの初めての戦は、食い比べである」
男はしばし黙り、それから真顔で「今宵より断食いたす」と言うた。せんでよい。倒れる。
夜、段取りの相談は板越しに続いた。知らせに何を書くかだの、飯をどう並べるだの、ひよりの口はよく回る。その口が、ふと調子を変えた。
「あ、そうだ。例の質問リスト、一個だけいいですか」
「うむ」
「向こうで、なんて呼ばれてたんですか。その……王様としての、正式なやつ」
隠す理由を探したが、見つからなんだ。問われた分だけ答える。あの夜からの決めである。
「魔王、である」
「……」
「魔の王と書く。国の名まで添えると長いゆえ、縮めればそうなる」
「…………あの」ひよりの声が、笑いを噛み殺す形に歪んだ。「視聴者、最初っから魔王様って呼んでますよ」
「…………」
「切り抜きのタイトルも、界隈の呼び方も、最初っから『魔王様』ですからね。正解、ずーっと画面に出てたんですよ」
つまり余は、初日から正しい名で呼ばれておったのだ。素性を隠したつもりで、呼び名だけは最初から割れておった。……何をしておったのだ、余は。
「隠れておらなんだな、余は。最初から」
「隠せてなかったんです。あはは、だめだ、おかしい。全員正解なのに誰ひとり信じてないの、ずるくないですか」
ひよりがいつまでも笑うので、余もつられて笑うた。腹立たしいが、これは笑うほかない。
「次の質問はまた今度にしまーす。あ、告知上げましたよ。それじゃ——明日、よろしくお願いします!」
「うむ。頼む」
声の切れた六畳の隅では、ガルドバーンが空の茶碗と箸を前に据え、目を閉じて座っておる。断食はやめさせたはずだが、あれは何の構えだ。何にせよ、明日の夜に倒れられては困る。もう一膳食わせてから寝かせよう。




