第1話 魔王、相打ちの果てに六畳一間へ
(……ここは、どこだ)
目を開けると、空が細長かった。灰色の塔と塔に挟まれて、ただの一筋の帯になっている。余は路地の奥に倒れていた。石畳……いや、これは石ですらないな。継ぎ目のない黒い岩を敷き詰めたような道である。誰がこんな贅沢な普請をしたのだ。どこの城塞都市だ、ここは。
覚えているのは剣だ。あの小娘の剣と余の魔力が真っ向からぶつかり、世界が布のように裂けて、その裂け目に呑まれた。そこまでは覚えている。その次がこの路地だ。話の繋がりが雑にも程があるが、本人の記憶がそうなのだから仕方あるまい。
体を起こしてみる。痛みはないし、四肢も欠けておらぬ。まあ、上々だ。
では魔力はどうか。腹の底の泉へ手を伸ばした。……出ぬ。汲めども汲めども、掌に返るのは滴ばかりである。大海だったものが、いつの間にか水たまりに成り果てていた。胸元を見れば見慣れぬ印がひとつ焼き付いている。あの小娘が最後に刻んでいったものだ。
(小娘の方は、どうなった)
……考えたところで答えは出ぬ。出ぬものを抱えてうずくまるのは性に合わぬ。ひとまず後回しである。
路地の外を誰かが通り、話し声が聞こえた。今日も暑いね、と言っている。分かる。言葉が分かるぞ。遠征に備えて自分にかけておいた翻訳の呪いがまだ生きているらしい。下級の呪いは元より大した力を食わぬから、残り滓でも回るのだ。地味な術ほど土壇場で効くと余は昔から言ってきたのに、幹部どもは誰も聞かなかった。
ついでに角と瞳の紅を幻術で覆う。これも下級で足りた。よし。
さて、どうするか。力ずくで奪うという手が頭をよぎり、すぐに捨てた。土地勘のない敵地で略奪から始めた軍は必ず滅ぶ。数百年戦ってきて、それだけは骨身に沁みている。まずは兵站だな。水と食い物、それに寝床。話はそれからだ。
路地を出て、余は足を止めた。
誰も帯剣しておらぬ。老いも若きも丸腰で、供も連れずに歩いている。城壁の内側でもここまで無防備な民を余は見たことがない。どれほどの治安を……いや、それより道だ。道に糞が落ちていない。馬糞も泥もなく、磨いた大広間のように乾いている。誰が掃いているのだ。人足を何千人雇えばこうなるのだ。
店先には果実が山と積まれ、誰も見張っていなかった。籠ごと抱えて走れば奪えように、誰もやらぬ。
(豊かだな……)
余の領地の民に見せてやりたい。いや、見せたら暴動が起きるか。
感心している場合ではなかった。余はこの世界の銭を一枚も持っていない。ただ、身には戦装束の飾りがある。金の鎖と留め具の宝石。実用の品ではないから手放しても戦力は落ちぬ。歩き回るうち「買取」と掲げた古い店を見つけた。読める。呪いは文字にも効くらしい。便利なものだ。
店の奥の白髪の男の前に、余は鎖と宝石を並べた。
「これを銭に換えたい」
男は片目に小さな硝子を嵌め、長いこと黙って品を眺めた。それから余の顔を見た。
「……身分証は」
「持たぬ」
「ふむ」
男の眉間に皺が寄った。もう一度品を検め、余の身なりをちらと確かめ、店の奥へ目をやってから、息をひとつ吐いた。
「石は本物だね。ただ、見ない細工だ。どこの品だい」
「余の故郷のものだ。かの地では戴冠の儀に……いや、良い。古い品だ」
「……そうかい」
男は宝石をひとつ摘まみ、窓の明かりにかざして、独り言のように呟いた。
「見ない細工はねえ、売り先を選ぶんだよ。うちは昔ながらのやり方でね。こういう品は、こういう値になる」
男が紙に書いて寄越した数字は「35万円」。
円というのがこの国の銭か。で、35万とはどれほどの……いや待て、万だぞ。万。金貨一枚あれば兵ひとりが十日食う。それが、万。
「良かろう。それで頼む」
即答した余に男は一瞬だけ妙な顔をして、それから札を数え始めた。やけに手早かった。客の気が変わらぬうちに、という手の早さに見えなくもなかったが、まあ良い。相場を知らぬ自覚は余にもある。駆け引きに三日かけるより今日の寝床が先だ。時を銭で買ったと思えば安いものである。
紙の束というのは思ったより軽い。
懐に35万を収めて歩いていると、貼り紙を見つけた。「入居者募集。保証人不要」。家を貸すという話らしい。保証人不要——身元を問わぬ、と読める。ほう。この地にもそういう流儀があるのか。
書かれた場所を訪ねると、古い木造の建物の前で小さな老婆が箒を使っていた。
「貼り紙を見た。部屋を借りたい」
老婆は箒の手を止め、余を上から下まで眺めた。
「あんた、荷物は」
「ない」
「保証人は」
「おらぬ」
「……ふうん」
老婆は箒を壁に立てかけ、もう一度だけ余の顔を見た。
「前払いできるかい。家賃三万の、ふた月分で六万」
「払おう」
それで終いだった。名を問われてヴァルとだけ名乗り、老婆はトキと名乗った。それ以上は何も訊かれなかった。訳を訊かれたときの誤魔化しを道すがら十通りも練ってきたのに、ひとつも使わずに終わった。肩透かしにも程がある。
通されたのは二階の角部屋である。草を編んだ床が六枚、押し入れがひとつ、窓がひとつ。以上。
「六畳一間、風呂はないよ。湯は通りの先の銭湯だね」
(……良いではないか)
いや本気で良いのだ。玉座の間は無駄に広かった。端の柱まで声が届かず、間に伝令を立たせていたほどだ。この部屋なら寝転んだまま隅々まで掌握できる。守る財産のない城は落とされる心配もない。ここを橋頭堡とする。終の住処ではないぞ。あくまで橋頭堡である。……誰に言い訳をしているのだ、余は。
夜になった。
家具のない部屋の真ん中に座して、余は本日の戦果を検分する。入りが35万、出が6万。残りおよそ29万。銭というものは、座しているだけで減っていくものらしい。今日ほどそれを思い知った日はない。兵糧と同じだ。食えば尽きる。ならば財源が要る。残り滓の魔力しか出ぬこの体で、いったい何をして銭を得るか——。
戸が叩かれた。トキ殿である。布団と鍋と包みをいくつも抱えていた。
「余り物だよ。それと、これ」
最後に置かれたのは黒い平たい箱だった。二枚貝のように、ぱかりと開く。
「孫が置いてったパソコンだよ。良かったら使うかい。あの子は動画で稼ぐんだと言って、新しいのを買って出てったよ」
「……動画で、稼ぐ?」
「あたしゃ知らないよ。なんか喋って映して、それが銭になるんだとさ」
トキ殿は言うだけ言って戻っていった。
余は黒い箱としばし睨み合った。ぱそこん。どうがで、かせぐ。喋って映すと銭になる。意味はひとつも分からぬ。分からぬが、王として聞き捨てならぬ言葉がふたつあった。「稼ぐ」と「銭になる」である。
余は箱を引き寄せた。
——動画とやらで、稼げるものなのか。
まあ、他に軍資金の当てもないのだがな。




