イツキ 七夕
七夕の物語は、子供の頃に誰もが一度は聞くと思う。
高校生にもなると、そんな物語は口にしなくなるし、笹に願いを吊るす事もなくなる。
商店街に彩られた笹が飾られるのを、俺は冷めた目で見て通り過ぎた。
一年に一度でも、確実に会えるならいいじゃないか。
最愛の彼女、雫が姿を消してから、一年と半分。
去年の七夕で馬鹿らしいと思いながら、笹に彼女の無事と帰還を願った。
初詣も同じ願いだった。
今までろくに頼る事のなかった神頼みにすがってみたところで、結果は同じ。
未だ雫は戻らない。
俺の隣は空いたまま。
二人でいたなら、街を飾るどんな季節の事柄も楽しく過ごせていたはずだと考えて、溜息を一つ。
未だに俺は彼女の事が忘れられないまま、ただ毎日を生きている。
「な、イツキはこの後どうする?」
斜め前を歩いていた友人が振り返り、声をかけてきたのに続いて、その隣を歩く三人の女の子達も振り返った。
同じバイト先の女の子達を紹介して欲しいという友人の頼みを断りきれず、グループで街をぶらぶらしている最中だったりする。
黒髪の雫と違って、少し明るく色を抜いている子が、にっこり笑って俺の前に来た。
バイト先で、いつも話しかけてくるその子の目が訴えている事に、俺はとっくに気付いているけれど、気付かない振りをしていた。
「あっねえ、あそこのデパート。笹に短冊吊るすサービスやってる」
「女ってそういうの好きだよな、本当」
「そんなの関係ないよ。折角だし、何か書こうよ。あ、あんたは頭がもっとよくなりますように、ね」
「ふざけろ。それならお前はもっと胸が大きくなりますように、だろ?」
「ひどいっセクハラ!」
いつの間にか、今日初めて顔あわせたばかりとは思えないスピードで、皆の距離が近くなったのを感じながら、俺もその場に合わせて笑顔を作り上げる。
騒ぎながら笹へと向かう集団の後に続くと、先程の茶髪の彼女が隣に並んだ。
何気なく顔を向けると、少しだけ照れたように笑って、口を開く。
「芹沢君はお願いごと、何にする?」
「別に、俺はいいや」
「えー、遊びだもん。何でもいいから、何か書いちゃおうよ」
「あーじゃあ、お金が欲しいとか」
適当に返事を返す俺に、彼女は不満そうに頬を膨らませた。
少しだけ雑踏に視線をさ迷わせた後、彼女は決意を含んだ瞳を揺らして顔を上げた。
「あたしは、芹沢君ともっと仲良くなれますようにって書いちゃおうかな」
ストレートに来たな。
いつか来るかと思っていたその言葉に、俺は苦笑を返した。
「そういう対象に見るだけ無駄だよ」
ストレートにはストレートに返す。
期待させるような事はしたくない。
彼女の眉間に皺が寄り、非難めいた目が向けられる。
「結構、勇気出して云ったんだけど?」
「そ? でも本当の事だし、俺そういうの今は考えたくない」
「考えられるまで待つっていうのは?」
彼女の返事に、俺は解り易く溜息を吐いた。
「待って欲しくないから、やめてくれる?」
今まで他人に見せた事のない冷たい視線を、今自分が彼女に向けたのを自覚してから、俺は前を行く友人に声をかけた。
「悪い、俺用事思い出したから帰るね」
「えっマジかよ」
「俺の分も楽しんできてよ。ごめん」
友人の周りにいる女の子二人にも、首をかしげ軽く謝罪の手を上げた。
隣に立ち、まだ俺を見上げる彼女には、もう顔を向ける事もなく俺は踵を返して駅へと歩く。
俺はまだ雫の事が忘れられないんじゃない。
忘れたくないんだ。
俺たちの間に、まだ誰も入ってきて欲しくなかった。
電車に揺られ、程無くして辿り着いた家に入り、そのまま夏の暑さと胸の苛立ちを消すためにシャワーを浴びる。
身体を打つシャワーの音は、何処かあの日の雨に似ている。
雫を失くした日に降りしきっていた雨に。
ザーッと流れ続けるシャワーを頭から浴びて、俺は目を閉じた。
目を閉じると、未だ鮮明に雫の姿が脳裏に浮かぶ。
・・・いっちゃん・・・
高くて甘い雫の声。
何度も頭の中に蘇る、彼女だけに許した俺の呼び方。
女ってちゃん付け好きだよねって一括りにした言い方をしたら、特別って意味だからいいのと怒ってたっけ。
『・・・いっちゃん?』
シャワーの音に紛れて、本当に雫の声が聞こえた気がして、俺は目を閉じたまま口元に自嘲的な笑みを浮かべた。
その直後。
『・・・いっちゃ、は、裸・・・!』
脳裏に浮かぶ雫の顔が、その幻聴につられて焦り恥らったように、頬を染めた。
いや、ちょっと待て。
俺、今そんな事考えてたっけ?
思わず目を開けると、すぐ横に人の気配がして、心底びびった。
いや本気で。
シャワー中ほど、人が無防備な時はないと思う。
寝てる時は、意識がないのだから、それは常用外だ。
それ程に驚いて、俺は目を見開いた。
ありえない。
願って願って、それでも叶わなくて。
何度も彼女のいない現実を思い知らされた俺の前に、雫が、いた。
記憶より伸びた髪と、でも未だ幼さを残す頬を、真っ赤に染めて。
「しず、く・・・?」
『うん、あの、その』
触れたら消えるんじゃないかとか、幻でもいいとか。
そんな事を思うより、咄嗟に手が動いていた。
真っ白な頭で伸ばした手は確かに彼女の腕を捕らえ、引き寄せたら簡単に俺の腕の中に転がり込んできた。懐かしいその温もり。
しずく、だ・・・
しずく、しずくしずく、雫ッ!
彼女の背中に回した腕に、ぎゅっと力を込めて、その存在を確かめた。
途端に、耳に響く彼女の悲鳴。
『いっちゃん、だからっ裸っ!! 変態っへんたい~~っ!』
・・・いろんな意味で、本当に雫の存在を実感した。
久々に会えたのに、あまりにも変わらない彼女の反応。
彼女が消えていたこの一年半の方が、嘘だったんじゃないかと思えてしまうくらい。
じわりと目の奥が熱く感じて不覚にも涙が一滴こぼれたけれど、シャワーのせいにして雫の顔を覗きこむ。
ついさっきの自分の記憶の中と同じ、真っ赤に焦った雫と目を合わせると、彼女は更に戸惑い、これでもかと顔を赤くして目を伏せた。
その姿に、久々に自分の中の悪戯心が刺激される。
「・・・俺のシャワー中に入ってきたのは、雫の方だよね?」
『・・・! だっ、だってそれはその』
「雫が裸の俺を襲いに来たんだよね?」
『ちっ違うよ!』
「まあ、俺は確かにいつでも雫に見られて困らないからいいけどね。ほら、雫の好きなとこ何処でも触っていいよ」
『~~っいっちゃんてば、相変わらず・・・んぅ!』
雫の口が、何度も聞いたあの言葉を紡ぎかけた時。
俺のほうが結局我慢出来なくなってしまって。
薄く開いた彼女の唇を塞いだ。
目の前に確かにいるのに。
確かに腕の中にいる雫の声が、少しだけ何処か違う場所から響くような感じがしてる事とか。
今まで何処にいたのとか。
このまま、ここにいられるのとか。
そんな事、今は考えたくなくて。
何度も角度を変えて、今、感じられる雫の全てを感じたくて。
雫の温もりを、縋る思いで何度も確かめた。