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「け、賢者さま、ですか?」
空を見上げて問う。
『その空間に接している、最も大きな木の、幹のふもとをご覧なさい』
「あっちだ」
アレスが指をさす。確かに、いちばん太い幹だ。
地面すれすれのところに、ひとが入れそうな穴が開いていた。真っ暗で奥は見えない。
「中に、続いているっていうことだよな」
わたしたちは頷き合って、そこに足を踏み入れる。布は外して、アレスが先頭、わたしが後に続く。ちょっと勿体ないけれど、しかたない、って何に対して思ったんだ?
気にしない。考えない。とにかく、アレスについていこう。
なかで立つことはできず、しゃがみながら、一歩一歩ゆっくり進む。明かりもないので、手探り状態だ。
森よりも冷たい、洞窟のような道は延々と続くかに思われた。
アレスも周りにおかしなところがないか神経を巡らせているので、声を発しようとはしない。沈黙のまま、ゆっくりと。
やがて、不思議な場所に着いた。
「書物で見たことがある。おそらくこれは鍾乳洞、っていうやつだ」
高いところから、ゆるやかな乳白色の柱が何本も降りている。その下には、逆に小さな柱ができている。まるで、柱が溶けて、下に落ちて固まっていっているみたいだ。
「これは、道、か?」
「行こう」
微妙に人間が通れるくらいの幅の、道のようなものが奥に続いている。今度は立って歩くことができるから楽だ。
鍾乳洞を抜けると、今度は様々な球体の浮かぶ空間に出た。
「わぁ……!」
色も大きさもまちまちで、手を伸ばしても届かないくらいの直径のものもあれば、掌に収まりそうなものもある。子どもの遊び場にしたら楽しそうな場所だった。
その奥の玉座のようなものに、静かに座っているひとがいた。
白い髪は緩やかに結ばれて足もとまである。瞳のある場所には白い布を巻いていて、表情はよく分からないけれど。ゆったりとした白い服を着ていて、まさにわたしの思い描く賢者のイメージそのものだった。
白い布には、金色の絵具か何かで、繊細な模様が描かれている。
――このひとが賢者さまだ。
疑いようがなかった。唾を飲み込む。アレスが、わたしの背中をぽんと軽く叩いた。顔を向けるとアレスが頷く。大丈夫、と言っているような気がした。
わたしとアレスは、賢者さまに向かって頭を下げた。
「お初にお目にかかります。アレス・グライドです」
「ア……カーシャ、です。サンクチュアリさまの命で来ました。賢者さま、ですよね? どうかわたしに智恵をお貸しください」
賢者さまはまるでわたしたちの姿が見えているようで、そっと首を横に傾けた。
「よく来ましたね、ふたりとも」
陽だまりで聴いたのと同じ声。
賢者さまが、右手を伸ばす。細くて白い指先だった。
「カーシャ。こちらへ」
「は、はい」
緊張しつつもわたしは賢者さまに歩み寄る。ふわりと、なんだか涼やかな香りがした。
「貴女に話があります。ついてきてください」
アレスが視線を投げてきた。心配しないで。しっかりと頷いてみせる。
賢者さまは立ち上がると、浮いている玉のひとつを自らに引き寄せた。わたしの背丈と同じくらいの直径で、淡い紫色をしている。
「これを覗いてごらんなさい」
言われるままに、背伸びをして覗きこむ。
覗きこんで。
「わ、わぁあっ!」
わたしは、玉のなかに強い力で引っ張りこまれた。
*
「書庫――?」
気がつくと、天空の書庫にいた。
目の前には賢者さまが立っている。一体、何が起きたというのか。
「アカシア、貴女のことを待っていましたよ」
「賢者さま。わたしの、名前」
間違えかけたけど、ぎりぎりカーシャだと名乗ったのに。
「私は、地上と天空で起きていること全てを知ることができるのです。アカシア、貴女がかつての王国の姫君であったということも。安心してください、彼には言いませんから」
びっくり、した。
びっくりしすぎて、何も言えなかった。
「そうそう、ここは貴女の記憶を空間として組み立てた場所です。ここなら安心して話すことができるでしょう?」
「賢者さまって、すごいんですね……」
「すごいんですよ。ふふ」
しかもちょっと可愛いです、賢者さま。
わたしの記憶をもとにつくられた、と賢者さまが言うだけあって、細かいところは忠実に、よく分からないところは靄がかかっていた。例えば歴史書の辺りはきちんと1冊1冊並んでいるのに、あまり近寄らない数学の分野は何があるかさえも判別できない。
「残念ながら、私は貴女に智恵を授けることしかできません」
「それでも、今のわたしにはその智恵が必要なんです」
「ですが私には躊躇われるのですよ、アカシア」
「……え?」
賢者さまはひと呼吸置いて、わたしに向き合った。
瞳は見えないけれど、きっと、すごく澄んでいるだろうと思えた。唾を飲み込み、賢者さまの次の言葉を待つ。
「人間は、汚いと思いますか? きれいだと思いますか?」
そしてわたしから視線を逸らし、近くの棚にあった本を1冊取り出す。ぱらぱらとめくりながら、賢者さまは問いかけを続ける。
「もし人間が汚いものであるならば、私は滅びるべきだと思っています。ですがこうして森の奥で長い年月を過ごしていても、結論は一向に出ません。だから、私は貴女に問いたいのです。有翼の女王陛下を助けるということは、すべての人間を助けるということを意味するのでしょう? だったらその価値があるかどうかを、貴女に考えてもらいたいのです」
「そ、そんな難しいこと」
「よく考えてください。結論が出たら、私を呼んでください」
くるりと賢者さまが身を翻すと、そこに姿はなかった。
わたしはひとり取り残される。
――人間は、汚いか、きれいか。
「そんな、無茶な」
溜め息が漏れる。
サンクチュアリさまを助けるということはすべての人間を助けることだと分かっていても、それを直接結びつけて訊かれるとは思いもしなかった。
だってわたしの両親は人間に殺された。謀反を企てた奴らのせいで。おまけに、奴らの頭はのうのうと政の中心にいる。だけどルナを死なせたくなかった。トモダチとつくった人形を最後まで大事にしていたルナ。
簡単に答えを出すことなんてできない問題だった。
書庫を見渡す。
古い本の匂い。地上に降りる直前まで整理をしていた。ぼろぼろになった、黄色く変色した本もある。休憩のときに読んでいた本もある。
書庫のことは、思い出せるのに。
殺されてしまった両親のことは、どんな顔だったかすら、実はあやふやだ。そんなわたしを、両親はひどい娘だと思うだろうか。
「もし、アレスだったら何て答えるかな」
あのおひとよしな、世間勉強中の彼だったなら?
「……え」
アレスの姿を思い浮かべた自分に呆然とする。
どうして。
今ここで浮かぶのが、アレスなんだ? あいつなんてぬくぬくと平和のなかで生きてきた理想主義者じゃないか。だってきっとあいつなら、即答するに決まってる。
『そんな質問に迷うことはないだろう! 人間はきれいだ。だからこそ、助けるべきなんだ』
そしてわたしはすぐそれに難癖をつけるに決まってる――そんなのただの理想論だ、もっと世間を勉強してから答えろ、とかなんとか言っちゃって。
想像すると口元に笑みが浮かんだ。
「あぁ、そういう、ことか……」
気づくと床に座り込んでいた。記憶のなかの床はひんやりとしていた。
アレスに苛々する理由。大臣の息子だから、わたしのことを覚えていなかったから、そんな単純で子どもじみたことじゃなくて。
「わたしには絶対即答できないわ」
わたしは持っていないから。
真っ直ぐに、射抜くように。紫の瞳で、物事を見る姿勢。
だから裏切られたら悲しいと思うし、頼ることが悔しいと思うんだ。対等の立場でいたいから。同じ高さで物事を捉えたいと思うから。
「馬鹿だな……」
だけど、分かった。
「賢者さま、答え、出ました」
ふわり、と。賢者さまが現れる。
「どうでしたか?」
わたしは立ち上がり、賢者さまにしっかりと向き合う。
「賢者さまが答えを出せない問題に、わたしなんかがすぐに答えられる筈もありません」
人間は汚いか、きれいか?
そんな簡単に括られるものではない。だから。




