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2-1


 紫色の瞳の下が青黒い。ほら、やっぱり寝てない。


「カーシャ、瞳の下が青黒いよ。さては寝られなかったな?」

「それはあんたでしょうがっ」


 思わずツッコミを入れてしまった。


「いやぁ、実にいい朝だ。顔を洗ってこよう」

「反論できないじゃん」

「せっかく話を逸らそうとしたのに、食い下がってくるとはなかなかだな」

「はいはい」


 昨日の意気消沈した様子は窺えない。少し安心した。

 前向きじゃないアレスは、なんだか調子が狂うから。


「適当にあしらわれるのも寂しいよな」

「じゃあどうしろと」


 アレスが欠伸を噛み殺しながら遠くを見遣る。その先には時計樹がある。


「いや、別に何でもいいよ。それよりも思い出してたんだ」


 何を、と尋ねる前に、遠くを見て、何かに想いを馳せるしぐさを見せながらアレスは続けた。


「俺には何と婚約者がいるんだ」


 話の飛躍についていけない。

 というか、え、……婚約者?!


「えーっ!」

「おかしくはないだろう。一国の元首の息子だから」


 いやいや、そんな、当然といった表情で見られても。思わず声が裏返る。


「せ、政略結婚?」

「平たく言うとそうだな。で、昨日、結婚してくれって言われて思い出したんだ」


 誰からかは言わなかった。

 言えなかった、というのが正しいかもしれないけれど。


「俺、初恋の相手にフラれてからは、きちんと恋愛してないんだよな。なのに首都に戻れば自動的にハイ、結婚って。残念だよなと思ったのだった」

「思ったのだった、って……」


 胃の辺りがぐるぐるする。

 婚約者? 初恋の相手?

 首都に戻れば、結婚?


「カーシャはさ、好きな奴、いるのか? 有翼人と無翼人の恋愛っていうのもいい響きだよな」


 婚約者? 初恋の相手? 首都に戻れば結婚、って同じことを二度も考えてしまっていた。なんでこんなに動揺しなきゃいけないんだ。落ち着け。落ち着くんだわたし。


「カーシャ?」

「あ、ごめん、別のこと考えてた。あ、顔洗ってこよーっと」

「あのさ」

「な、なに」

「右手と右足が一緒に出てる」

「気のせい、でしょっ」


 ざばざばざば。水を顔にぶつける。

 ぷるぷる。目を瞑りながら顔を左右に振っておしまい。アレスが後ろから声をかけてくる。


「有翼人ってかっこいい奴が多そうだよな」

「……男のひととはあんまり接点がなかったから。わたしはサンクチュアリさまの侍女だったし、基本的にはサンクチュアリさま中心で何でもやってたから」

「お。今度は名前、ちゃんと聞きとれたぞ。神はサンクチュアリさまっていうのか」

「うん、まぁ、そうだけど」


 アレスの座っているところまで戻ると、木の実が足もとに転がっていた。


「朝ご飯。何なら、魚もいるか?」

「よっぽど釣りたいのは分かったけど、結構です」


 丁重に断ってみる。


「う。それは残念だ」


 天空には魚はなかったから、食べたいという気持ちはあるけれど。なんだかお腹がいっぱいで、そんなにたくさん食べられそうになかった。


「見ての通り、目の前が、賢者が住むと言われている森だよ」


 緑というよりは色が濃く、黒に近い色をしていた。陽のない、閉ざされた空間。


「詳細な地図はどこにも存在しないんだ。磁場が狂っているのか、戻ってこない人間もたくさんいる。かなり危険な森だ」

「どうしてそんなとこに賢者さまがいるの」

「人間嫌い、だったりしてな」

「あながち外れてなさそうなところが怖いわ」

「とにかく。賢者に会う為に必要なのは、真実の心だと言われている」

「……胡散臭い」

「率直な意見をありがとう。ともかく、どうやったら会えるかは、賢者次第だということじゃないだろうか」

「なるほど」


 それでも、会えないと困るのだけど。

 時計樹を見つめる。

 サンクチュアリさまの容体はどうなっているだろうか。他の有翼人たちは。医師長さまたちは。きっと、認めたくないけれど、天空も地上も残された時間は少ない。

 真実の心。わたしにとってはサンクチュアリさまを助けたいという意志に違いない。もしそれを捧げてサンクチュアリさまのご病気を治せるというのなら、わたしは喜んで差し出そう。



 川辺とは違って、森は陽が届かない分、肌寒い。

 人間が通れるやっとの隙間があるだけで、木々は無秩序に屹立している。時計樹には遠く及ばないけれどどっしりとした幹に、無数の葉。

 入ったことはないけれど、時計樹の葉の生い茂っている部分ってこんな感じじゃないだろうか。自然は人間の営みとは全く関係ないところで存在している。そのなかに身を委ねるのは、不安でもあるし心地いいことでもあるのだろう。

 葉っぱの濃い緑色が影をつくる。それに見惚れていると、アレスが右手を差し出してきた。少しごつごつした、男のひとの大きな掌。どきん、と心臓が驚いた。


「絶対にはぐれちゃ駄目だぞ」

「い、いや。どうしろと」

「手を繋いでおけば確実だろう?」

「……丁重にお断りさせていただきます」


 しかたないなぁ、とぶつぶつ呟きながら、アレスは持っていた布の一部を引き裂いた。それを腕輪のようにしてはめて、促してくる。


「是非ともこれで譲歩していただきたいのですが」

「ま、まぁ、それくらいなら」


 布の端に手を入れる。まるでふたりを繋ぐ手枷。


「賢者殿ー! いらっしゃったら、返事してくださーい!」


 さーい、さーい、さーい……。


 阿呆みたいなアレスの呼びかけが無駄にこだまとなって返ってくる。


「そう簡単にいく訳ないか」


 アレスが空いている左手でぽりぽりと頭をかいた。

 どうしてだろう。この状況、なんだか緊張する。アレスは隣でぶつぶつと独り言をつぶやいていた。賢者に会う方法を考えているようだ。

 ふと、できる限り相手を見ないようにして問いかけた。


「あのさ、どうしてよき為政者になろうと思って、旅をしてるの?」

「うーん、そうだな」


 ざくざくと、地面に落ちた葉を踏む音が響く。

 周りを見ても同じような木があるだけで、気を抜くと迷子になってしまいそうだった。森に入るときアレスに頼まれたので、右手は木に目印をつけ続けてはいるけれど。通り過ぎた順番に、数字をつける。1、2、3、……。


「裏切らないものって、何だと思う?」


 不意にアレスが質問を返してきた。


「えっ」


「俺にはそんなものがあるとは思わないんだ。永遠だって、実際のところいつまで続くか分からないだろう? だから、自分を裏切らないものってないと思うんだ。自分以外は。だけど自分に妥協してたら、いつか自分にも裏切られると思って。そうならないように、各地を見て回りたかったんだよな」


 わたしに語るというより、自分自身に言い聞かせているようだった。


「さっきも言っただろう? 初恋の女の子がいたんだけど。もう、その子には逢えないんだ。悔しくってさ。彼女に見合う男になってやるって思ったのが最初だった」


 へぇ、と。

 言いたかったのにできなかった。

 それはどんな子なの? とも聞きたかったけど、言葉が喉から出てこない。胃の辺りがぐるぐるしてきて、アレスを見ることができない。

 わたしの沈黙を意に介さない様子で、アレスが立ち止まった。


「こんなところに空洞があるなんて」


 言葉通り、木のまったく生えていない、何もない空間があった。


「いかにも怪しいよな」


 布で繋がれているので、アレスにつづいてわたしもそこへ足を踏み入れた。

 木々がないことで大きな陽だまりができていて、まるで明るさの池みたいだ。ぽっかりと、陽の光を集める為だけに存在する空間。急な温度差に手足の指先まで温まる。


「賢者殿に会う為のきっかけが、何かあるかもしれない」


 空気の暖かさを感じながら、辺りを見渡す。だけど何もない。


「カーシャ、紹介状みたいなものがあったりしないのか?」

「そんなのがあれば苦労しないって。サンクチュアリさまからは、賢者に会いに行きなさいとしか言われていないもの」

「だよな」


 そもそも外見的特徴すら聞いていないのだ。万が一、偽者が現れたとしても見分けがつかないかもしれない。しかたなくアレスの真似をして呼びかけてみた。


「賢者さま、サンクチュアリさまの使いで参りました!」


 すると。


『よく、来ましたね……』


 頭上で声が反響した。静かな声だった。

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