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2.1 隠した夢

沈黙が落ちた。


 それは、ただ言葉が途切れただけの沈黙ではなかった。部屋の隅に積もった埃も、窓の外で揺れる薄い光も、すべてが息を潜めたように静まり返っていた。


 主人公は、もう一人の主人公の背中を見つめていた。


 細い背中だった。

 けれど、弱い背中ではなかった。


 何度も折れかけ、それでも折れきれなかった者の背中だった。夢を捨てたのではなく、夢を守るために自分を小さく偽ってきた者の背中だった。


「……ただの学者、か」


 主人公が低く呟く。


 もう一人の主人公は振り返らなかった。


「そうだよ」


 その声は、ひどく静かだった。


「ただの学者なら、誰も僕を恐れない。ただの学者なら、誰も僕から奪おうとしない。ただの学者なら、世界の裏側に手を伸ばしているなんて、誰にも気づかれない」


「世界の裏側……」


 主人公の胸の奥で、その言葉が重く響いた。


 ジアナザーワールド。


 この世界の影。

 誰もが見ないふりをしている、もう一枚の現実。

 紙の裏に染み出したインクのように、表の世界からは読めない場所。


 もう一人の主人公は、ゆっくりと拳を握った。


「僕は見たんだ」


 その声が、わずかに震えた。


「この世界が一枚じゃないことを。僕たちが立っている地面の下に、もうひとつの層があることを。そこには、捨てられた願いが沈んでいる。届かなかった言葉も、殺された夢も、誰にも選ばれなかった未来も、全部そこに流れ着いている」


 主人公は息を呑んだ。


 もう一人の主人公の言葉は、ただの比喩ではなかった。

 彼は本当に、それを見ている。


 裏世界を。

 この世界が隠してきた、もう一つの真実を。


「だから隠したのか」


 主人公は言った。


「夢を?」


「違う」


 もう一人の主人公は、ようやく振り返った。


 その瞳には、卑屈さが残っていた。だが、それだけではなかった。暗い底の奥に、まだ消えていない火があった。


「夢じゃない。入口を隠したんだ」


「入口……?」


「僕の夢は、僕だけのものじゃない。もしそれが開けば、世界の裏側に沈んだものたちが戻ってくる。忘れられた者たちが、もう一度、名前を取り戻す」


 彼は苦しそうに笑った。


「でも、あんたたちはそれを危険だと言うだろう。秩序が壊れると言うだろう。だから僕を止める。僕の研究を封じる。僕の夢を、世界のためという言葉で殺す」


 主人公はすぐには返せなかった。


 否定したかった。

 自分はそんなことをしないと、言いたかった。


 けれど、言葉が喉で止まった。


 なぜなら彼自身もまた、恐れていたからだ。

 裏世界の扉が開くことを。

 そこから流れ込むものが、救いなのか災厄なのか、まだ分からなかったからだ。


「僕は……」


 主人公は言いかけて、唇を噛んだ。


 大丈夫だ。落ち着け。

 今ここで全部を決めなくていい。

 少しずつでいい。


 そう心の中で繰り返しても、胸の奥の震えは消えなかった。


 もう一人の主人公は、その迷いを見抜いたように目を細めた。


「ほらね」


 小さく、彼は言った。


「あんたも同じだ。真実を知りたい顔をしているのに、真実が世界を壊すかもしれないと思った瞬間、足が止まる」


「それは……慎重なだけだ」


「違うよ」


 彼は一歩、主人公へ近づいた。


「それは、優しさのふりをした恐怖だ」


 その言葉は鋭かった。


 刃物のように主人公の胸へ入ってきた。だが、不思議と憎しみは湧かなかった。痛いほど、そこに真実が混じっていたからだ。


 もう一人の主人公は、懐から一枚の古びた紙片を取り出した。


 黄ばんだ紙。

 だが、その表面には文字ではなく、薄く揺れる黒い線が浮かんでいた。まるで紙そのものが、どこか別の空間へ続く影を宿しているようだった。


「これは?」


「裏世界の地図だ」


 主人公は目を見開いた。


「地図……? そんなものが存在するのか」


「存在するんじゃない。滲み出るんだ。表の世界が嘘をついた場所に、裏世界は紙片として現れる」


 もう一人の主人公は、その紙片を机の上に置いた。


 瞬間、部屋の空気が変わった。


 壁の影が伸びた。

 床の木目が波のように歪んだ。

 窓の外にあったはずの夕景が、どこか知らない灰色の平原へと変わっていく。


 主人公は思わず後ずさった。


「何をした」


「開いただけだよ」


 もう一人の主人公は囁いた。


「僕がずっと隠してきたものを」


 紙片の上で、黒い線が円を描き始めた。


 それは地図ではなかった。

 入口だった。


 円の内側から、かすかな声が聞こえてきた。


 誰かが泣いている。

 誰かが祈っている。

 誰かが、自分の名前を忘れないでくれと叫んでいる。


 主人公の心臓が大きく鳴った。


 もう一人の主人公は、震える指でその円を指した。


「ここにある」


「何が」


「僕たちが失くした最初の世界だ」


 主人公は、紙片を見つめた。


 その奥に、影があった。

 ただの闇ではない。

 何かが生まれる前の、深すぎる暗がり。


 そしてその暗がりの中心で、誰かがこちらを見ていた。


 主人公は本能的に悟った。


 これは夢ではない。

 研究でもない。

 そして、ただの裏世界でもない。


 これは、世界がまだ自分の名前を持たなかった頃の傷跡だ。


 もう一人の主人公が、静かに言った。


「僕は、あそこへ行く」


「正気か」


「正気じゃなきゃ、夢なんて守れないよ」


 彼は笑った。


 今度の笑みには、卑屈さがなかった。


 ただ、覚悟だけがあった。


「来るのか、来ないのか」


 主人公は答えられなかった。


 しかし、その沈黙を破るように、紙片の奥からひとつの声が響いた。


 それは、少女の声だった。


「――遅かったね」


 二人は同時に息を止めた。


 灰色の平原の向こうで、誰かが立っていた。


 白い髪。

 黒い外套。

 そして、世界の始まりを知っているような、あまりにも静かな瞳。


 もう一人の主人公が、掠れた声で呟いた。


「……フィリス」


 その名を聞いた瞬間、紙片の円が大きく開いた。


 部屋の床が消える。


 重力が反転する。


 表世界のすべてが、裏側へめくれ上がっていく。


 主人公は咄嗟に手を伸ばした。もう一人の主人公もまた、同じように手を伸ばした。


 二人の指が触れた瞬間、フィリスの声が世界の裏から響いた。


「ようこそ。ここが、君たちの夢が殺される前に逃げ込んだ場所だよ」


 次の瞬間、二人は紙片の中へ落ちた。

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