7.弱った悪魔
天界に行けば、おばあちゃんに会えるかもしれない。
会いたい。
でも、それは今なのか――?
「ロミさん、チャンスは今しかないんです……!」
シラキさんの、懐かしい人間の手。
力を込めた拳を解き、広い手のひらに、おそるおそる指先で触れる。
でも――。
『「愛してる」よ、ローズマリー』
悪魔の声が、頭に響いた瞬間。
差し伸べられた手から、震える指を引いていた。
「ごめんなさい。一緒には行けない」
「なんで? ロミさん言ってたじゃないっすか、『契約上仕方なく仕えてる』って!」
「それは……」
この身が燃えて灰になり、気づけばあの待合室にいた。
あそこで待っていた時は、悪魔の権能でミシェルを陥れたことへの後悔、そして裏切られたことへの憎悪を抱えたまま、冥界で悪魔に仕えていくつもりだったのだが――。
「悪魔があそこまでして、私を必要とする理由が知りたくなったんです。たとえそれが不純な動機でも」
悪魔の愛ではなく、悪魔が自分を必要とする事実。
それだけは信じることができる。
それに――。
昨晩触れられた肌が、一瞬熱くなった。
「とにかく! 私……まだアイツのそばにいます」
「そっか。その言葉が聞けて安心したよ」
耳の奥に染み付いた低音を振り返ると。
背後から腕が伸びてきて、強い力で抱きしめられた。
「離して」と契約印の焼き付いた手の甲に爪を立てれば、金銀の瞳がこちらを覗き込む。
「ロミ、やっと僕を好きになってくれたんだね! 安心して? これからも引き続き、永遠に大切にするからね」
「違う! 好きになってない! ご主人様の企みを暴くのに『そばにいてやる』って言っているだけです」
いつの間に追いついたのか。
ルキが現れてからというものの、シラキさんは瞬きすることなく凍りついている。
「も、もしや今までのくだり全部聞かれて……?」
ようやく離れたルキは、「もちろん、ねぇ?」と満面の笑みで身を翻した。その後ろから現れたのは――。
「よぉ白城。女とのドライブは楽しめたか?」
「じ、ジェ、ジェ、ジェ……」
上下に振動をはじめたシラキさんの方へ、現世に喚ばれていたはずの悪魔が近づいていく。炎を纏った髪を、宙に浮かせながら。
「テメェ、ちょいとオレが留守にしてる隙に天界だぁ? ンなとこまで追い詰めるほど、ヒデェ仕打ちをした覚えはねぇが」
本人の意思に関係なく、女性用の制服を着せているのは、「ヒデェ仕打ち」に入らないのだろうか。
「アイドル活動だって理由で、休みなく人を働かせてるくせに! これじゃ生前と変わりないっすよ」
「テメェらだって、現世では休みなくオレを働かせてたろーが!」
終わりの見えない主従の言い争いに背を向け、ルキはこっそり「今のうちに帰ろう」と囁いた。
たしかに面倒ごとは御免だ。こういうところは気が合う。
「勝手に逃げようとしたンだ、仕置きの覚悟はできてンだろうな?」
「ヒィィッ!」
激しく散る火花の音に、足を止めて振り返ると。
ジェニミアルのもつ弦楽器――先ほど得た知識によると、エレキギターというものが猛火を纏っていた。
「シラキさん、危ない!」
悪魔から人間を救う――生前当たり前のようにしていた行為を繰り返すように、反射的に足が動いた。
走り出すと同時にナイフを構え、迫り来る炎に向けて腕を構える。
ジェニミアルほどの悪魔の力を完全相殺することは不可能だが、まだ軽い火傷で済むはず――。
「あっつう!」
瞬きの間に上がった声は、自分ではなく悪魔の低音。
「ルキ……?」
火傷くらいすぐ再生すると分かってはいるが――。
何事もなかったかのように微笑むルキの、焼け焦げた腕を強引に取り、「なぜ庇ったのか」と問い詰めると。
「言ったでしょ? 大切にするって」
「はぁ……?」
わけが分からない。
悪魔が他者のために傷を負うなんて。
「ナ・ル・ホ・ド。ルキフェルト、テメェ今のを防げねぇ程度には弱ってやがるな?」
ジェニミアルは揺らぐ炎を弱め、「脅かして悪かったな」と怯えるシラキさんの背をさすった。
どうやら本当に、ただの脅しだったようだ。
「もー! マジで燃やされるかと思いましたよっ」
「配下の連中はともかく、奴隷に手ぇあげるわきゃねぇだろ。ンでネコ野郎、どーなンだ?」
ルキが弱っている。
ジェニミアルはそう言いったが、金銀の瞳は揺らぐことなく赤黒い炎を見据えている。
「サラマンダーのヤツ、ただ投げ飛ばされただけだって聞いたぜ。いつものテメェなら、即逆さ吊りでバキバキ八つ折りだろ?」
そういえば待合室で、八つ折りがどうとか口にしていたような。
「今のもオレが攻撃する前に逆さ吊りにできたろ。メイドのジャブすら避けらンねぇとこを見る限り、権能を制限されてンな?」
「制限って……そうなのルキ? いつから?」
当の本人はこちらに笑いかけるだけで、口を開こうとしない。
「『永久休職』っつーのも、元に戻るのがいつか分かンねぇからだ」
「あれ……? そもそもご主人様って、恋愛専門権能では」
逆さ吊りでバキバキ八つ折り――ジェニミアルの口ぶりだと、いかにも戦闘向けの権能だ。
「現世でのコイツはな。ルキフェルト本来の権能は『反転』だ。物だろうが事象だろうが、何でもあべこべにしちまう」
すると「愛を結んだり解いたりする権能」というのは、「嫌いを好き」に、「好きを嫌い」に反転させているだけだというのか。
本人に問いかけても、相変わらずにっこり微笑むだけだ。
「テメェ、今の状態がイケスカねぇ連中にバレたら終わりだな。ここぞとばかりに襲ってくるに違ぇねぇし。ンでそのメイドっつーわけか」
「えっ。私を護衛にしようと思った、てこと?」
この悪魔が自分を必要とした理由――それはこの血。
たしかに「死してなお血の力が使えるのか」、などと言っていたのは記憶にある。
ルキはほんの一瞬真顔になっただけで、やはり何も言おうとしない。
「ンじゃ、コイツが休職しやがった理由も分かったことだし帰るか。行くぞ白城! 今回の件は不問にしてやンよ」
「は、はい、ジェニちゃん様。すみませんお騒がせして……では失礼しますっ」
ジェニミアルの吐き出した炎の中に現れたのは、大人の背丈ほどもある鏡。
シラキさんの後にジェニミアルも続くかと思いきや。「おい」、と私のスカートの裾を引いてきた。
「この状況、テメェにとっちゃまたとない機会だぜ。アイツが消滅すりゃ契約関係解消、自由の身になるっつーことだ」
この幼女悪魔、どちらの味方なのか。
いや。序列の近い悪魔に、敵味方の概念は存在しないのだったか。
「ま、せーぜー考えろ」
それだけ言い残すと、ジェニミアルは鏡ごと消えていった。
「帰ろうか、ロミ」
久しぶりに声を発したルキの表情は、やはりいつもと変わらない笑顔。
業火の悪魔の言うとおり、ルキが本来の力を失っていることを他所の悪魔に流せば、この契約は終了するかもしれない。
でも――本当にそれで、良いのだろうか。
「それで。使用人勝負に勝ったご褒美は何が欲しい?」
お屋敷に帰って早々、この悪魔は何を言い出すのか。
「待って。アンタが権能を制限されてるっていうのは本当?」
「それは本当。でもさっき君が言った、『護衛だから君を必要とした』っていうのは違うよ」
では、どういうことなのか――。
「愛する人を守るのは当然だろう?」
愛はともかく。
たしかに護衛として使うつもりなら、自分をジェニミアルの攻撃から庇ったのはおかしな話だ。
「全然納得できないけど……次。アンタが私の願いを叶えようとすることと、アンタが力を制限されてることって、何か関係あるの?」
「正直に答えないと滅す」、とナイフを構えたところ。
ルキはネコ被りの笑顔を捨て、テーブルに足を組んで腰掛けた。
『愛ゆえに……と言えど納得しないんだろう、貴様は』
そんなの当然だ。
青紫の唇をじっと観察するうちに、細く長いため息が吐き出された。
悪魔の重い口が、ついに開く――。