6.ドライバーズ・ハイ
「最後は御者スキルで勝負しろ!」
無茶を通そうとする【業火の悪魔】ジェニミアルに対し、ルキは軽やかに微笑んだ。
私が負けたら「シラキさんと私を交換」、などという人権を無視した約束をしておいて、焦りがまったく見られない。
私が絶対に負けないと思っているのだろうか――。
「御者はメイドの業務外じゃないかい?」
「オレは使用人勝負っつったンだぜ?」
馬なら一応乗れるが、本職の人ほど上手く馬車を操る自信はない。シラキさんより体力があることはすでに証明されているが。
「そンじゃ、オレの愛車でタイム競うか」
ジェニミアルが弦楽器を掻き鳴らすと、庭先に現れたのは最新の馬車――いや、四角い鉄の箱。
「ロミ、これは自動車だよ。18世紀ごろに君の祖国の人間が原型を発明したんだけど」
「いちいち説明すンのも面倒だろ。オレが直接入れてやるよ」
黒い炎を纏った手が、額に伸びる。そして触れた瞬間。
見覚えのないモノ、聞き覚えのないオトが、頭の中に流れ込んできた。
風変わりな都市、乗り物、衣服。その中で姿形の変わらない人間。これは自分が生きた時代より、ずっと未来の光景だろうか。
胸躍る景色を眺めるうちに、何やら温かいものが唇に流れて――。
「うわっ、ロミさん鼻血が!」
「え……?」
ふと我に帰り、唇を拭うと。手のひらが真っ赤に濡れていた。
でもいつの間にか流血していたことより、あの車――自動車について理解したことに、驚かざるを得ない。
「やっぱオレの権能、直出力はキチィか」
あの様子から察するに、ジェニミアルが「何か」をしたことによって、未来の知識を与えられたのだろう。
「早く魔役所行って『記憶同期』してやれよ。コイツ15世紀で時止まってンぞ」
「浦島太郎状態っすね」
魔役所――悪魔たちが、地獄を管理するために働く場所。
人を置いてきぼりにして、何やら話が進む中。黒布を手にした主人の悪魔に腕を引かれた。
「ひとつずつ教えていくのが楽しくてね。でも確かにこれじゃ支障が出るかぁ」
「ちょっと、大丈夫ですから」
幼女悪魔とシラキさんに妙な誤解をされてはいけない。腰に回った手を振り払おうと、ルキの方に身体を向けると。
「うん、キレイになった」
顔の血を布で拭かれた直後、冷たい温度が鼻先に触れた。
「は…………」
息遣いを感じるほどの距離で、もはや当たり前のように行われた接触――口付け。
しかも人前で。
「あっれー、照れてる? 昨夜はもっとすごい事したのにグァっ!」
つい血のついた布を顔面に押し付けてしまったが、今回も謝る気はない。
何より他人の前で、「昨夜のこと」を匂わせていることに腹が立つ。
それに――。
思い出してしまった。悪魔が深いところまで触れる、あの感触を。
「そんな照れなくていいのに〜」
黒煙の立ち昇る顔を手で覆いながら、ルキは無事な方の銀の瞳をこちらに向けた。
やはりこの悪魔、怒るどころか笑っている。
「テメェホントにあのルキフェルトか? 人間にやられて黙ってるなンざ、よっぽどソイツに……」
ジェニミアルが、怪訝な顔でルキを見上げていると。
『来いジェニミアル!』
次から次へと、今度は何だというのか――。
突然天から声が響いたかと思えば、幼女悪魔の足元に、赤黒い炎の陣が現れた。
「これは召喚陣……?」
「クソッ! タイミング悪ぃなアイツ! 地獄に来やがったら魂擦り切れるまでこき使って――」
言い切らないうちに、小さな悪魔は召喚陣の中に吸い込まれていった。
どうやら現世から喚び出しがあると、地獄にいる悪魔は強制的にあちらへ転送されるようだ。
「言い出しっぺが喚ばれて行っちゃったねぇ。どうする? せっかくだから乗ってみる?」
「ご主人様は乗らないんですか?」
「たまには人間同士で楽しんできなよ」
そういえば、祖母から聞いたことがある。
古い悪魔は、乗り物の類があまり得意ではないのだと。
「じ、じゃあロミさん、ひとっ走りしてみます?」
「……では、よろしくお願いいたします」
とりあえず、運転経験があるというシラキさんの横に乗せてもらったのだが――。
「シラキさん速度出しすぎでは!? あとこれ敷地から出て行ってるような」
「大丈夫っすから、掴まってて!」
なるほど。
ジェニミアルが御者勝負を提案したのは、シラキさんの得意分野だったからに違いない。
「生前は御者だったんですか?」
「いや、これは度重なる外回りのおかげで鍛えられて。自分、生前はただの営業マンっすよ」
悪魔の前とは違い、シラキさんの笑顔が柔らかくなった気がする。
「ところで。あんな超絶イケメンの顔容赦なく焼くとか、ロミさん実は悪魔っすか?」
イケメン――文脈から察するに、「端正」とか、そういった意味だろう。
「……別に顔が良かろうと悪魔は悪魔ですから」
「ハハハ、うそうそ。退魔師の家系だって聞きました。昔は3次元で存在したんすねぇ……あっ、昔って失礼か」
「いえ別に。シラキさんから見たら、本当に昔の人らしいんで、私」
シラキさんは1995年生まれと言っていた。すると私の生まれた時代から、500年以上後の人間ということか――。
でも、そんなことを感じないほどに、彼と言葉を交わすのは楽しい。
そのまま悪魔の愚痴を言い合ううちに、車は紫の海が見える海岸線へ突入した。
いったいどれほどお屋敷から離れたのか。
「それでジェニの権能使って、パワモラハラ課長に毎夜悪夢見せてやったんです。ついに退職まで追い込めたーっ! て思ったら、今度はオレが過労死しちゃって」
「シラキさん……あなたも大変だったんですね」
「本懐は遂げましたけど、今やこうしてヤツの奴隷っすからね」
生前悪魔の力を利用したものは、死後悪魔の奴隷となる。
想像とは違ったが、この魂はもう悪魔のもの。いつ食べられようが、本来文句は言えない立場のはずだ。
「ロミさんはあの悪魔にメチャ好かれてますけど、何かあるんです? 仲良くやってくコツ」
「別に好かれては……アレは何か企んでるだけです。契約上仕方なく仕えているだけで、仲良くするつもりもありませんし」
「……そうなんだ」
早口過ぎて引かれたのだろうか。シラキさんは急に落ち着いた態度で、前を見据えた。
やがて車が止まり、降りたところは『魔素海岸』と看板が立つ崖っぷち。
切り立つ岩の下には、赤黒い波がぶつかり轟音を上げている。
「地獄にも海があるんですね、シラキさ……シラキさん?」
真剣な瞳がこちらを振り返ったかと思うと。
迷いのない手が、真っ直ぐ胸の前に差し出された。
いったいどうしたのか――訊ねる前に、シラキさんは震える唇を開く。
「ロミさん、このまま2人で天界へ逃げませんか?」
「え……?」
天界。
地獄へ落ちたものが夢見る天上――悪魔と契約した魂は昇ることの叶わない楽園だ。
「悪魔の支配から逃げ出すチャンスは今しかないんです!」
ジェニミアルが現世に喚ばれて不在だなんて、屋敷の外では滅多にない――そう熱弁しつつ、シラキさんは「南」と書かれた半透明の札を取り出した。
「魔役所公認、天界への『通行カード』っす。いつか機会がないかと思って、ジェニからこっそり拝借してました」
天界に行けば、祖母に会えるかもしれない。
最後に顔を合わせたのは檻の外と内――しかも言いつけに背いて悪魔と契約したことを、まだ許してもらっていない。
「おばあちゃん……」
「天界で再会したい人だっているでしょ? だったら」
シラキさんの、人間の手が、目の前に差し出されている。
私はこの手に縋っても、良いのだろうか――。