4.ふたつ目の契約
乱れたままになっていた、無駄に広いベッドへ倒れ込むと。真っ暗な視界に、涙を流す青い瞳が浮かんだ。
『もう許されるはずないと分かっていますが、どうしてもロミに会って話がしたくて』
悪魔と契約したのは、彼女の目を覚まさせるため。
明るく朗らか、清廉な花のように可憐――自分とは正反対の、ミシェルの目を。
「ロミ、入っても良いかい?」
ドアを介さず入ってくる悪魔が、今更なぜ許可など取るのか。
そのまま無視を決め込んでいると。
「君が最期に言ったこと、覚えてる?」
真っ暗な部屋へ音もなく入ってきた悪魔は、人の身体を勝手に膝へ乗せた。もはや抵抗する気力もない。
「『私は本物の魔女になった』――処刑前のあの言葉から察するに。僕の権能で自分を救わなかったのは、ミシェルの幸福を奪ったことへの償いかな?」
悪魔のくせに、人の心を正確に読むなんて――。
悔しくて、あえて返事はしなかった。
「……何のためにあんなもの見せたんだ」
そもそも。
この悪魔が妙な態度をとる理由を種明かしするために、面白くもない人生劇場を見せられたはず。
暗闇の中の悪魔を睨みつけていると。文机のランプが灯り、宙に浮いた手帳が顔の横へとやって来た。
「ほら、これをご覧」
最後のページ――『真っ当な恋をしてみたかった』。
これは、ミシェルに惚れた自分を悔いて書いたもの。
あの不衛生な檻の中で、私が最後に残した痕跡。
『友に裏切られ、特筆すべき点もない生涯を終えた憐れな貴様の願いを、せめて死後であっても叶えてやろうと思ったまでだ』
ネコを脱いだ悪魔は、羽ペンで「恋」の下に2本目の線を引いた。
「この強調線はアンタが……って、そういえば最初から線が引いてあったけど」
『屋敷に入るものはすべて検閲している。だがそのおかげで、貴様の最後の願いを知ることができた』
悪魔が親切心で行動するはずがない。
ましてや、真っ当に人間を愛そうだなんて。
「信じない。私はアンタたち悪魔のことを、何ひとつ」
オレンジ色の柔らかい光が、悪魔の硬く冷たい頬を照らしている。
一瞬真顔になった悪魔は、すぐに紫色の口角を持ち上げた。
『そうか、俺が悪魔だから信じないと。だが妙だなローズマリーよ。貴様は牢獄まで弁解に来たあの女に、同じ言葉を向けたのだが。記憶にあるか?』
『アンタの言うことなんて信じない』――。
「あれは……」
悪魔は「まぁいいよ」、とネコをかぶり直して微笑んだ。
「ロミ、僕は何の悪魔だったかな?」
「……愛欲の悪魔?」
「その通り! 君をベタ惚れさせるなんて簡単なんだよ。でもそうしないのは、少なからず君を尊重しているからなんだけど」
心からの言葉かは疑わしいが、確かにその通り。この悪魔は恋心をでっち上げることができるはずなのに、それをやっていない。
「尊重とか、自分勝手なアンタたちとは程遠い言葉でしょ」
「なら暇潰しとでも思えば? 悪魔は年中娯楽に飢えているからね」
暇というのは本当なのだろう。
あんなに高度な技術の、映画とやらを作るほどには。
「そういえば、今までのアレと恋に何の関係があったの?」
この部屋といい食事といい、王室ファミリー並の待遇は何だったのか――。
そう問いかけると、背後から笑い声が降ってきた。
「人間は欲求を満たしてくれる相手に好意を抱くらしいじゃないか」
「それは……っわ!」
完全に油断していた。
ガーターベルトに隠していたナイフを奪われ、ベッドに転がされる。
起きあがろうとすると、悪魔の魅惑的な表情が鼻先に迫った。
『快適な寝室、豪勢な食事、そして快楽! 人間を堕とすには効果抜群だろう?』
「私が望んでるのはそういうのじゃないし……」
やっぱり悪魔となんか――。
そう言いかけたところで、悪魔は『待て』と声を強めた。
『ならば教えを乞おう。貴様の言う人間の「真っ当な恋」とは何か』
このネコ頭、本当に暇潰しのつもりなのか。
なぜか必死な金銀の目には、やはり企みしか感じられない。
『どうしたロミ? 貴様がどのような言動を好み惹かれるのか、逐一教えろと言っているのだ』
「それは命令ですか? ご主人様」
あくまでも契約上の関係、ということを強調したが。
『言ったろうに。貴様の意思を尊重すると。命令した方がやりやすいというならば、それで構わないが』
「どうせもう死んでるんだし、私は幸せになるつもりなんて……」
探るような金銀の瞳から視線を逸らした瞬間。
「ミシェルに未練があるんだね」
ネコを脱いだり被ったりと忙しい悪魔の口から出た、彼女の名――それが耳に入った途端、緩みかけていた意識が引き締まった。
「どうして謝罪に来てくれたのかも聞かないまま、君は彼女を追い返した。彼女を許さなかった自分を、君は許せていないんだ」
本当に、この悪魔は――。
コイツの言葉ひとつひとつが、棘になって胸に突き刺さる。
顔を背けたまま、「違う」と呟くと。「違わないよね?」、と髪を撫でられた。
長い指が、すっかり色の抜けた髪を滑っていく――仕草ひとつが、いちいち色香を帯びていて居心地が悪い。
「仕事柄、地獄で1番多くの魂に触れる僕なら……ミシェルを探せるかもしれないよ?」
「え……?」
彼女と地獄で再会するなんてことが、できるのだろうか。
会いたい。
会いたくない。
でも――やっぱり会いたい。
ミシェルがあの時、どうして私を裏切ったのか、直接尋ねたい。そして謝罪に来てくれた彼女を追い返したことを謝り、赦しあえたら――私はきっと、もう消えてもいいと思うに違いない。
「ただし。今は、現世での契約とは条件が違うって、分かるよね?」
今の主人はルキで、私は仕える身。現世と主従が逆転している。
「……何が望み?」
私の魂を手に入れて、これ以上何を望むのか――顔の輪郭をなぞる指先を捕まえ、力を込めると。
悪魔は妙に何かを期待した笑顔で、「ふたつ目の契約」の話をはじめた。
「僕がミシェルを探す手伝いをする代わりに、君が差し出すのは……」
身体。
悪魔は何の躊躇いもなく、笑顔で言い放った。
「……は?」
「あははっ、本当に君は揺らがないね!」
先ほどは退魔の血を使って難を逃れたが、「契約」となると話は別だ。契約を結べば、その行為を要求されたら逃れられない――。
「私がイヤっていう以前に、アンタにメリットは?」
「言っただろう? 君の純潔を穢せるだけで、僕は大満足さ」
「……悪趣味」
「悪魔だからね!」
ミシェルとの再会と、すでに死んでいる自分の身体を天秤にかけるまでもない。
ただ――。
魂の影を映しただけでしかないこの身体でも、感覚はある。温度も感じる。
この男――悪魔に触れられて、自分は無反応を貫けるのだろうか。
「……私なんかじゃ、【愛欲の悪魔】は満足できないでしょ」
コイツは何人、何百、いや何千人と身体の関係を持ってきたはず。魂を手に入れる手段として――そう指摘した途端。
吐息が感じられる距離まで、悪魔の顔が近づいてきた。
「そう、魂を手に入れるために抱くのとは違うんだ……この意味、分かるかな?」
金銀の瞳には、私の姿がはっきりと捉えられている。でも――。
「分からない。だってアンタは……」
悪魔は人間を愛せない。
私を求める理由なんて、分からない。
「大丈夫だよ。初めては特に、人間が望む優しさで、甘く溶かすからね」
だから、契約書にサインを――。
悪魔のペンが、勝手に手の中へ滑り込む。
ミシェルに会いたい気持ち、そしてもうひとつ――この悪魔が私に執着するわけが知りたくて、手を動かした。
ローズマリー・セージ。
二度目の契約書は、禍々しい光を携えたまま霧散した。
これでもう、後戻りはできない。
求められても、悪魔の顔を焼いて拒否することはできないのだ。
「あぁ、ローズマリー……『愛してる』よ。だからぜんぶ、僕にちょうだい?」