何もない白い空間
レイラがルーフェにより、昔の記憶を思い出した時、真っ先に思い描いたのは白い空間だ。
そこは何もない無の空間。年を取ることも、何かに追われることもない。
散歩をしたり、本を読んだり、好きなことをして過ごしていた。外の世界に興味が湧くが、決してその空間の外には出られない。その空間が無限に続いているのか、レイラの行動範囲以上に広い場所にいるのかは分からないままだった。だから、外に出るのを諦め、その空間に存在し続けることしかできなかった。
いつもはそこにいるのは自分一人だったが、暇を持て余すことはほとんどない。レイラ自身、一人で過ごすのは嫌いではなく、そうした自由な時間を楽しいと思っていた。
そんな自分のもとに、多くの生物が遊びに来る。その中で最も頻繁に訪ねてきたのが黒髪の男と銀の髪をした女だ。男と女という呼び方が正しいと言い難いのは、レイラ自身も察していた。彼らは人間ではなかったのだ。
彼らは彼女をレイラとは違う名前で呼んでいた。そして、いつも地上や天上での出来事を語ってくれた。そんな話を聞くのが、レイラの楽しみの一つになりつつあった頃、黒髪の男が辛辣な顔をしてレイラのもとを訪ねてきた。
「お前に殺してほしい存在がいる。お前はこれから地上に降り立ち、強い魔力を持った人間として生まれ変わるだろう。そして、彼を討ちなさい」
黒髪の男は彼女の肩に触れた。それがルーフェだったのだと今更ながらに分かる。
彼女は男の言葉に疑問を呈さずに頷く。それが自分の役割だと分かっていたのだ。逆にその役目から逃れれば、自分の存在を否定するのも同じだと本能的に分かっていたのだ。
だが、頷いた彼女に男はこう告げた。「誰」を殺すか、最終的な決断はお前が下して構わない、と。
目の前にあるのは大きな岩だ。その岩の奥にルーフェ達の住む世界に通じる扉がある。その岩は強靭で物理的な方法でも、炎や氷、雷といった攻撃魔法でも壊すことはできない。だが、特殊な魔法を使うことでこの扉を開ける事ができるし、レイラはその魔法を使うことができた。
レトネンに連れてこられたレイラは、ウルモに促され、このルーフェ達の住む天上界に通じる扉の前に連れてくるように促されたのだ。レイラは彼の要求をのみ、この場所まで導いた。
レイラはウルモを見据える。
「あなたの望みは、この扉を開け、ルーフェを殺すことなの?」
「殺すか。それもいいな。ただ、あいつの魔力を使い、したいことがある」
レイラとして生まれる前に彼から事の顛末は聞かされている。彼が罪を犯し、神としての立場も力も封印されたことを。それがどんな結果を産んだのか。神だった頃の彼に会ったこともある。その時の印象は笑顔の似合う優しい神だ。
「あなたは優しい神だった。あなたが何らかの方法でわたしを納得させられるのなら、あなたの命令を受けるわ。もともとわたしはあなた達に作られたのだから。でも、今はルーフェの考えのほうが合理的だと思うの」
「君は自分の出生を恨んだことはないのか? 神を殺すための媒体としてを生み出し、そして、地上に下ろした。君がレイラとしての生涯を終えればまた、神を殺す必要があるその日まであの白い部屋に君を閉じ込め続ける。君の神殺しの役目はその魂が朽ちるときまで延々に続く」
レイラはその時のことを思いだす。レイラとして生きてきたときに比べると、あまりに長い時間だ。ただその時間を苦痛に感じなかったのは、そう心が反応するように作られたからかもしれない。
それに状況は違っても、長い時間を過ごしてきたのは自分だけでない。神である彼らはその姿のまま長い時を過ごすし、そして人間や動植物も延々と輪廻を繰り返す。きっとどの命として生まれついても、魂が存在し続ける限り、基本は変わらないだろう。ただ、レイラには動植物を始めとし、アーバン家以外の人間として生まれる可能性は皆無に等しいだけだ。
レイラは人の気配を山の入口に感じ、思わず右手を見やった。
「こんなところまで彼を連れてきて。困ったお姫様だね」
ウルモはそう苦々しい表情を浮かべる。
その言葉のとおり、シルヴィア、レナルト、そしてユーリーの気配を感じ取る。彼らを案ずる心が楽になる反面、この場所に来たことに対する戸惑いも少なからずある。
「わたしはもう少しだけ可能なら、レイラとして生きたい。ルーフェを恨むのはその後でも遅くないでしょう。だって、わたしの魂は永久に近い時間を生き続けることを約束されているのだから。それはどんなに足掻いても変わらない」
その言葉にウルモは目を見張る。彼は目を細めた。
「君は最初から最期までずっとレナルト=デヒーオの事ばかりだね。もっとも、それは彼にも言えることだけど。結局、彼が障害になるとは皮肉なものだよ。交渉決裂か。なら力づくで行かせてもらう」
「一つだけ聞かせて。あなたはルーフェを殺し、神に戻りたいの?」
彼はレイラを躊躇いを含んだ目でレイラを見据える。
彼が優しい神だとレイラが行った言葉を否定する者はいないだろう。だが、彼の本当の目的がレイラにははっきり見えなかった。自身の欲求だけを満たすためにこうした行動を起こしていると確信を持って言えるタイプではなかったのだ。
「そんなことは考えていなかったよ。ただ、このままだとこの世界は朽ちていくだけにしか思えない」
彼は呪文の詠唱を始める。その空間を覆い尽くさんとする巨大な炎がウルモの手を拠点として現れた。
その彼の強大な魔力を感じ、体に鳥肌が立つ。レイラには魔力を取り戻して気付いたことがある。ウルモの魔力を過小評価しすぎていたことだ。レイラがヴァルクスにいた時の数十倍以上の強力な魔力を持っていたのだ。
その火が巨大な嘴を持つ、一つの生命体を形成する。レイラは結界を張ろうとするが、一足早くウルモの炎がレイラの髪に触れる。生臭い匂いとともに、レイラの髪が茶色へと変色する。それが今度はレイラの体目がけて飛びかかってこようとする。レイラは結界を張り、ウルモを見据えた。
その炎の動きが宙で止まる。
「僕を殺す気でやらないと、君は勝てないよ。そもそもそのつもりだったんだろう?」
それは彼の虚栄ではない。彼は神だった頃、ルーフェに匹敵する魔力の持ち主だった。常に冷静で感情に流されないルーフェとは異なり、彼はあまりに優しすぎた。だからこそ、彼は人にならざるおえなかったのだろう。その彼がレイラに全力で向かってきている。そうさせるのは死なないと言う安心感からか、他に何か意図があるのかは分からない。
彼が呪文を詠唱する。宙に炎を残したまま、巨大な氷がレイラの結界を取り囲む。そして、レイラの張った結界が防げる以上のダメージを受け、音を立てて崩れ落ちる。宙に浮いたままの炎がレイラの体を包み込もうとした瞬間、レイラは氷を出現させた。炎と氷が衝突し、水蒸気を残し、双方の魔法が消失する。
魔法は基本的に一度に一つしか使えない。人である彼が二つの魔法を同時に操れるのは、それだけ彼の能力が桁違いだからだ。天才と謳われたマティアスでも、使える魔法は一つだった。
「君はその程度で僕の魔法を交わせるとでも?」
レイラの身体に痛みが走る。腕を割き、内臓をえぐり出し、火あぶりにされているような言いようのない痛みだ。だが、実際に彼女の体がそうした目に遭っているだけではない。彼は魔法でレイラにそう錯覚させているのだ。魔法を使おうにも意識がそがれ、呪文の詠唱もできない。腕を引き裂くような痛みがレイラの顔を歪ませた。




