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魯坊丸日記 ~魯坊人外伝 第三章「魯坊丸の日記は母上の楽しみ」~  作者: 牛一・冬星明


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74.凧上げの前の話(お市の恥じらい)

天文二十二年一月七日

 昨日から上洛に向けて体力作りがはじまっている。

 俺は年相応の体力があるが、八歳(6歳6ヵ月)並みである。

 京から甲賀まで獣道を走って逃げられない。


「若様、足の歩みが遅くなっております」


 もう無茶を言うな。

 準備運動と軽いジョギングが終わると、中庭を何周も走る全力疾走が続いている。

 もう十八周目、心臓が破裂しそうだ。


「楓、若様が開始線を通過するまでにさくらに追い付け。でないと腕立て百回追加だ」

「無理、無理です」

「敵を排除する者が若様と併走してどうする」

「間合いを見ていただけじゃないですか」

「まだ手始めだ。楽なことを考えるな」


 楓が再び俺に追い付いてきたところで速度を緩めた。

その瞬間に千代女の雷が落ちたのだ。

俺が中庭を一周している間に、護衛侍女らは『鬼ごっこ』ならぬ『鬼たっち』で遊んでいる。

敵味方に関係なく、“たっち”された方が負けだ。

 まず、俺を守る六人を紅葉が率いる。敵を排除する六人はさくらと楓だ。最後に何見(かみ)姉さん、あるいは乙子(おとこ)姉さんが率いた六人が敵方になる。

 敵方のみ逆走し、互いに“たっち”を敢行するが、小刀で攻撃してくるので命賭けだ。

 俺が“たっち”されると、一周が追加される。

 俺の進路を守るのが、十二人の役目だ。

 昨日は十周、今日は二十周と言われた。

 敵方のみ反時計回りに疾走し、交差する瞬間だけ戦闘が発生する。

攻撃してくる武器を弾いて、相手にタッチした時点で死亡判定となる。

敵方が俺に触れると、周回失敗で一周が追加される。

命賭けでゲームのようなことをしている。

 一周して追い付いた楓は敵方の六人を突破するため、紅葉の六人と歩調を合わせようと考えた。

 だが、まだ飛び道具など使用せず、敵方の人数を抑えている。

 楽をしようとした楓に雷が落ちた。

 そんな楓を見て、さくらが嬉しそうに言った。


「ふふふ、楓に追い付かれるようなヘマはしません」

「さくら、どっちの味方だ」

「私は若様の味方です」


 仕方ないと諦め、楓が一気に速度を上げて俺を抜き去ってゆく。

 三度目だ。

 俺の足が鉛のように重く、もうジョギングのような速度に落ちていた。

 中庭の反対側でさくら達と乙子姉さんが高速で交差し、攻撃を繰り出していた。

だが、さくら達の奮戦は無意味だ。

双方、開始線を越えた瞬間に死亡判定が白紙になる。

 つまり、敵を何人撃墜しても六人に戻る。

 楓が四角を曲がった。

開始線を越えた乙子姉さんが楓にターゲットを絞り込む。

 サイドステップで先頭の二人を躱し、楓が乙子姉さんに攻撃を加え……と思った瞬間に回避した。

 振り返しざま、小刀と小刀がカキンと澄んだ音を立てる。

 乙子姉さんのタッチを躱し、再加速と思ったところに、乙子姉さんの影にいた二人が楓に攻撃を加えた。


「ほい、ほい、っね」


 高速回避、すれ違いにタッチした。

 二人を戦線離脱に追い込めば、最低限の仕事をしたことになる。

 凄い。


「楓ちゃんの回避力は凄いですね」


 紅葉の意見に同意する。

だが、息を荒げている俺は返事をする余裕もない。

 俺も四角を曲がった。

 敵と交差した後のさくら達も最高速で、俺を追い掛けているが間に合いそうもない。

否、楓に追い付かれまいと頑張っているのかもしれない。

乙子姉さんら四人が俺に近づいてきた。

紅葉の指示で四人が壁になり、進路を確保する。


「甘い、何度も同じ手が通用するか」


乙子姉さんの叱咤が飛び、二人がタッチ撃沈された……と思うと、紅葉が影からタックルを浴びせて、ダブルノックアウトを勝ち取った。

 残りの三人は攻防の末にノータッチで通り過ぎた。

紅葉は俺を守り切った。 

 あとは俺がゴールするだけ……手が、足が重い。

中庭の奥で楓がさくら達に追い付いていた。


「ちゅおぉぉぉぉ、私は負けません」

「素直に譲れ」

「嫌です」


 さくらが食い下がり、楓が追う。

俺がゴールラインを越えた瞬間、千代女が叫んだ。


「楓、追加で腕立て百回」

「さくらに追い付きました」

「若様の方が早かった。次から楓はさくらに一周以上の差を付けろ。できなければ、腕立て追加だ」

「そんな⁉」

「ふふふ、これで私と同じ腕立て伏せが三百回になりましたね。次も抜かせません」

「私はヘマをした訳じゃない。一緒にするな」


罰の数で楓が並んだとさくらが喜ぶ。

だが、さくらは読み違えで三度も死亡判定されており、練習後に腕立て伏せ三百回の追加シゴキが待っている。

 楓は楽をしようとして叱られており、中身が違うと言いたいのだろう。


「紅葉、指揮官が死んでどうする」

「申し訳ございません」

「罰として百回追加、味方が二人脱落したので、二十回追加だ」

「はい」


 紅葉も腕立て伏せ二百回を越えた。

はっ、はっ、はっ……座り込んだ俺は呼吸を整えようとするが、すぐには整わない。


「若様、お見事です」


 …………息が苦しくて答えられない。


「二十周目まで、あと二周です」


 まだ二周も残っているのか。

 俺は水を飲み、深呼吸を繰り返す。

 メンバーが交替した。

新しいメンバーに紅葉が配置と作戦を伝えている。

 俺が一周する間に、二回から三回の遭遇戦をどう処理するかを考え、指揮するのが紅葉の仕事だ。


「若様、一ヵ月後を目途に中根から八事の山道を走りきる訓練をしたいと思っています」

「わかった」

「お辛いと思いますが、山中で足を止めるのは死を意味します」

「そうだな」

「幸い、東山の山地を抜ければ甲賀へ逃げ込めます」


 甲賀は千代女の故郷であり、望月家は同盟者だ。

 京に近い安全地帯だ。

 だが、追われながら山を越えるのは簡単でない。

 恐らく、小者の武蔵が俺を抱き抱えての山越えになると思う。

 だが、武蔵が負傷することもある。

 俺が走れるのが最善なのだ。

 理屈ではわかっても体が追い付かない。

 ・

 ・

 ・

 二十周目、精根尽き果て、生きる屍と化した。


 食事が終わった頃、やっと落ち着いてきた。

 中庭では、腕立て伏せを終えた護衛侍女らが乙女の恥じらいも忘れて、地面に寝転がっていた。

 千代女の雷が落ちる。


「若様は食事を終えられた。いつまで寝転がっているつもりだ。真夜中もしごかれたいのか」


 皆が慌てて寮館へ向かって走っていった。

 千代女は俺が寝てから、非番の甲賀衆と訓練を重ねている。

 いつ寝ているのだろう?

無理をし過ぎて、体を壊さないか心配だ。

 汗を拭き、着替え直してきたさくら達が戻ってきた。


「若様、書類は昨日で終わりました。今日は楓、さくら、紅葉から報告させます」

「わかった。まず、熱田と東尾張の楓からだな」

「はいはい。では、鹿、熊、綾から報告させます」


 楓は三人に押し付けた。

 コホン、鹿が咳を一つしてから、熱田を中心に愛知郡を、熊が春日井郡と丹羽郡を、綾が知多郡と三河の情勢を報告した。


「三河の動きはございません。しかし、上洛が決まって、何の動きもないのが不気味です」

「だよな」

「公家様方が帝の御意向を伝え、公方様が戦闘の中止を強く訴えております」

「こちらも公方様に従って何も仕掛けていないけど……」

「今川方が大人しく従う理由にはなりません」

 暗殺を警戒して、平手政秀に慶次郎と滝川資清を警護に付けた。

 これは応急処置だ。

 次に那古野に行ったときに、信長兄ぃと相談する。

 手紙で帰蝶義姉上に相談しておくか。


次にさくらだ。

津島を中心に海東郡、海西郡、中島郡、葉栗郡と美濃の報告だ。

 松・竹・梅の三人が補佐に入っており、一生懸命にさくらをフォローしていた。


斎藤(さいとう)利政(としまさ)様が若様に会いたいと申しているそうです」

「平手殿は」

「前向きに検討しておりますが、上洛を優先したいと申しております」

「京から戻ってきたら、美濃に行くことになりそうだな」


最後に紅葉だ。

畿内だけでも調べることが多いが、中国、四国、九州、関東まで網羅する。

 人手を増やし、鶴、亀、茜、朝顔、福、百合、薫、菖蒲、木通、栗で分担していた。

各担当の報告に紅葉がフォローを入れた。

特に畿内、互いの血筋の関係とか、全然頭に入ってこない。


「要約しますと、畿内の領主は細川(ほそかわ)晴元(はるもと)殿を支持する方が多く、三好(みよし)長慶(ながよし)殿も油断すれば、寝首をかかれかねないという状況です」

「長慶の影響力も大したことはないのか」

「いいえ、長慶殿の影響力は大きいと思われます。しかし、長慶派に付いた者を快く思っていない者が多いのです」


 あぁ、そういうことか。

 一枚岩の家など珍しい。

対立する派閥が長慶派になれば、逆派閥は晴元派となる。

 小狡い晴元にとって、そんな武将らを唆すのは容易い。

 すべての家の状況を把握できれば解決も可能だ……が、畿内の関係は摩訶不思議。

魑魅魍魎(ちみもうりょう)が徘徊しており、まさに伏魔殿(ふくまでん)のようで、把握などできない。

やっぱり、行きたくないな。


「若様、宜しいでしょうか」

「鹿か、何だ」

「大した問題ではありませんが、津々木(つづき)蔵人(くらんど)が忍びを五人ほど雇いました。末森の伊賀者が那古野や熱田と連んでいると疑っております」

「連む? 彼らの家は熱田領の御器所(ごきしょ)にあるのは秘密にしていないぞ」

「そうなのですが、伊賀者の忠誠心を疑っております。信勝様は末森の伊賀者を信用しておりますが、蔵人は怪しんでおり、伊賀者を護衛から外し、雇った者を信勝様の護衛に付けております」

「そうか」

「先日、その内の一人が何か指示を受けました。お気を付けて下さいとのことです」


 気を付けるも何もな~。

 正月参賀で信勝兄上が恥じをかかされたことを恨んだのか。

 勉強していない方が悪くないか。


「凄腕なのか」

「いいえ、達人ならば、元締めの下で若様の家来として留め置かれております。一流半から二流の者しか雇えません。他国の間者が混じっているのはいつものことです」

「そうか、千代と加藤に任せる」


 鹿が頷いた。

 廊下に取次の侍女がやってきた。


「若様、お市様とお栄様がお越しになりました。部屋に通して宜しいかと聞いておられます」

「お市らを閉ざす扉などないと申しておけ」

「畏まりました」


 俺は首を捻りながら、そう答えた。

 いつも許可など求めずに押し掛けてくるお市が、今日は許可を求めているとか、意味がわからん。

 嫌がるお市を、お栄と里が引き摺ってやってきた。


「お市姉上、行きましょう」

「嫌なのじゃ」

「お市ちゃん、兄上は怒っていません。呆れていません」

「嘘じゃ」


 お市は俺と会いたくなかったらしい。

 しかし、お栄に説得され、中根南城にやってきた。

 だが、奥屋敷に近づくと帰ると言い出した。

 引き摺られてやってきたお市が、俺の前でポツンと座った。

 ずっと俯いたままで黙っている。


「お市、どうかしたか」

「魯兄じゃはわらわを軽蔑せぬのか」

「何のことだ?」

「その、あの……おね、ごにょごにょ」


 おね?

 お栄が代わりに口を開いた。


「お市姉上は、おねしょをしたことがバレてしまい、魯坊丸兄様に軽蔑されて、嫌われたと思っております。昨日、末森の自室に引き籠もってしまいました」

「おねしょ……あ、昨日のあれか」

「あれです」

「子供がおねしょをするのは当たり前だろう」


 俺がそう言うと、お市が怒り出した。


「当たり前じゃないのじゃ。里、お栄もおねしょをしないのじゃ。わらわの方が姉なのに恥ずかしいのじゃ」

「昔は私もしておりました。お市姉上が中根南城に連れて来てくれるようになってしなくなっただけです」

「私も去年くらいからだよ」

「わらわはお姉さんなのじゃ。妹より劣っているから、魯兄じゃも呆れて、嫌いになったのじゃ」


 阿呆らしい。

 俺は立ち上がって、お市の前でしゃがむとデコピンをお見舞いした。


「何をするのじゃ」

「どうして、そんな下らないことでお市を嫌いになる。俺を侮るな。あと五年経っても治らないようなら、一緒に悩んでやる」

「五年?」

「裳着を終え、嫁ぐ頃になってもおねしょが治らぬようなら問題だろう。まぁ、赤子を産むと、尿を漏らしやすくなる女性もいると聞く。女は大変だな」


 俺はそう言って、お市の頭を撫でてやった。


「わらわのことを嫌いになっておらぬのかや」

「なっておらんな」

「ほんとか」

「あぁ、本当だ」


 お市がパッと明るい顔になった。

 いつものお市だ。

 廊下で待機していたお市の護衛侍女の千雨が「恐れながら申し上げます」と頭を下げた。


「千雨か、何だ」

「お市様におねしょ癖の心配はございません」

「どういうことだ」

「はい、まず一度目は夏でございます。甘い瓜が手に入ったのですが、お市様は一人で十個も食べて寝込みました。翌朝、大きな地図ができました」

「瓜を十個も」


 瓜はスイカと同じだ。

 カリウムが多いから利尿作用が大きく、腹痛で動けなければ、翌朝におねしょは当然だろう。


「二度目は十二月の中頃です。熱田から正月用の酒が届きました。お市様は一合壺を二つも飲まれ、目を回されました。自室の布団までお運びしましたが、翌朝に大きな地図ができておりました」

「あれは信長兄ぃに頼まれて作った特別な酒だぞ」

「甘い香りがして、二つとも美味しかったのじゃ」

「阿呆か」


 俺はお市にキツくデコピンした。


「さっきより痛いじゃ」

「あれは酒豪殺しの特別な酒だ。砂糖漬けにした金柑と蜜柑を、三回も蒸留したキツい酒で寝かせた。口当たりがよく飲み易いが、度数はトンでもない代物だ」

「そうなのか」

「酒の毒に当たって死ぬこともある。おねしょで助かったな」

「怒っているかや」

「あぁ、怒っている。いいか、那古野では一合を一気飲みして倒れる者もいたそうだ」

「魯兄じゃは、わかわを嫌いになったのか」

「嫌いになっておらんが、お市の無鉄砲さに怒っている。まったく、二合も飲んで目を回しただけとか、後々は酒豪になるかも知れんな~」

「そうなのか」

「褒めていないからな。死ぬところだったのだぞ」

「生きておるのじゃ」


泣いたカラスが笑っていた。

 お市が笑うと、里とお栄も笑う。

 千雨は何度もお市に説明したが、まったく聞いてくれなかったと愚痴を漏らす。

 お市は思い込みが激しいようだ。


「昼飯を早めに食べて、凧上げをするか」

「するのじゃ」

「千代、問題ないか」

「問題ございません」

「お市姉上に負けません」

「私も」

「わらわが一番なのじゃ」


 いつも明るい日常が戻ってきた。


この話は、「12.信長の師匠は平手政秀」と「13.凧揚げ」の間の話です。

お市がおねしょをバラされて逃げた。

翌日には、何もかも忘れたように凧上げを楽しんでいる。

でも、実はこんなやり取りがあったというエピソードです。

このあと、自信を取り戻したお市は、信長に直談判に行き、京へ上る許可を求めます。


本編では、長くなるのでカットした部分です。


妹の里がおねしょをしないのに、自分はまだおねしょをするというのは、お市の悩みだったみたいですね。


ちなみに、

初版で本編を書いているときは、お栄の優秀さを考えていませんでした。

あとで、本編でお栄が賢いという設定を追加したので、改正版からお栄が登場するようになっております。

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