70.舞姫の魯坊丸、おこづかい欲しさに陥落す。
天文二十二年一月三日。
フワリ、フワリ、フラフラフラリ。
目線は遠くに置き、指先まで神経を通し、ゆっくりと着地して、観客に感謝の笑顔を浮かべて頭をゆっくりと下げた。
太鼓の音が消え、ピィーーーーーーと甲高く響く笛の音だけが細く長く響いて消えていった。
うっすらと目を開け、満員の広場を見下ろした。
想像以上だ。
枡席一万人、立ち見一万人が埋まるとは思っていなかった。
本宮の西側に建てられた舞台(現在の祈祷殿の北側)の広場は、鎮皇門(西門)まで続いており、神宮の敷地と西の街道と境界にわずかに林が残っている程度だ。
神官らは惜しみもなく、その中間の原生林をすべて切ってしまった。
広場をショートカットすると、下知我麻神社が近くなった。
本当にこれでよかったのかと疑問に思う。
元旦は信勝兄上に呼び出され、舞が一回というイレギュラーとなり、街道から林の中まで人で埋め尽くされ、人の多さに圧倒された。
二日目一回目から満員御礼で林が開放されたが、初日ほどのギュウギュウ詰めではなかった。
最後の舞まで満員御礼が続くとは思っていなかった。
神官たちは早くも「来年は枡席をやめ、もっと多くの参拝客を入れよう」と話し合っている。
えっ、来年もするの?
そんなことを考えながら、顔を上げると、「ありがとうございます」、「熱田明神様」、「魯坊丸様」の叫び声が『うおぉぉぉ』と地響きのような歓喜となって湧き上がった。
同時に舞台へ向かって無数の銅銭が投げ込まれ、カランカランカランという下の床に銅銭がぶつかる音で溢れ、その風景を眺めながら立ち上がり、最後に礼をして舞台を降りた。
階段の下にお市、お栄、里が待っていてくれた。
「魯兄じゃ、綺麗じゃったのじゃ」
「お市も手伝ってくれてありがとう」
「当然なのじゃ」
「兄上様、お飲み物です」
「お栄も疲れただろう」
「いいえ、兄上様の舞を見れば、疲れなど吹き飛んでしまいます」
「兄上、早く退場しないと捕まります」
「そうだった。里、準備はできているか」
「大丈夫です」
俺は控え室に逃げて着替えると、裏戸から舞台小屋を抜け出した。
特別席で観覧した乗客が出口で待ち受けており、捕まると宴会に連れて行かれてしまうのだ。
元旦と二日は諦めて付き合った。
当然、本日の宴会にも参加と思っているのだろうが、明日は朝一に中根南城に戻るので逃げ出した。本宮側の出口は人で溢れているので、裏口から抜け出した。
本殿脇の道を北に進み、一之御前神社の前で曲がった。
ぐるっと回って、清水社、宝物殿の前を通る脇道を抜けると、東門から一度出て、熱田神宮の南側の千秋邸を目指した。
「かくれんぼみたいで楽しいのじゃ」
「皆、西の舞台に目が入っているからな」
「いつまで経っても、お兄様が出て来ないので焦っているかも知れません」
「お茶を飲んで寛いでから迎賓館に移った。まだ、焦る時間ではない」
「兄上が出て来ないとがっかりするでしょうね」
「里が俺の名代として、偉い人の相手をするか?」
「いいえ、遠慮します」
「千代、母上はどうしている」
「神官と巫女に混ざって、若様の舞を語り合っておられました」
「合格点は貰えたようだな」
下手な舞を披露すると、母上の駄目出しが五月蠅い。
舞の練習時間をこれ以上は増やしたくない。
人目を避けながら、熱田神宮の南にある千秋邸に入った。
お茶を一杯いただき、ようやく人心地ついた。
お市らがきゃきゃと楽しそうにしゃべり出す。
俺は前座の稚児舞を褒め、お市らが俺の舞を褒めてくれた。
最初はどうなると思ったが成功だろう。
しばらくすると、お市付きの侍女長が口を開いた。
「お市様、もう帰る時間でございます」
「もうそんな時間なのかや」
「本日は、土田御前様がお食事に同席されます。お市様の報告を楽しみにされております。遅くなる訳に行きません」
土田御前は非常に信心深く、お市が巫女見習いに選ばれたことを喜んでいた。
尼と巫女では意味が違う。
尼は髪を切って、俗世を離れる。
巫女は神と人を結ぶ。
お市らは『神の祝福を受けた娘』と付加価値が付く。
この時代の者は信仰心が強いので、元巫女というだけで大切にされる。
しかも舞の名人と称された母上のお墨付きで、熱田神宮の大宮司から推薦を受けた。
お市らの舞の師匠は母上だ。
そのためか、母上と土田御前の関係も良好だ。
突然、お市と里が喧嘩をはじめた。
「魯兄じゃと同じ部屋でお泊まりとか、里は狡いのじゃ」
「二人ではありません。母上も一緒です」
「親子三人で川の字で寝ておるのかや」
「そんなことできません。母上が許してくれません」
うん、親子でも添い寝なんてあり得ない。
今回は、他にも客が泊まっている。
護衛の数を減らしたくないので、同室で寝泊まりを一緒にしている。
もちろん、部屋は衝立で仕切っている。
しかも朝は早く、夜も遅い、寝る以外に利用していない。
「狡いのじゃ、狡いのじゃ、狡いのじゃ」
「狡くないよ」
「わらわもお泊まりするのじゃ。するのじゃ」
お市の我が儘にお市の侍女が慌てた。
里は朝一番に挨拶できる以外、城と変わらないと文句を言っている。
里は兄にべったり育ってしまった。
里に引き摺られ、お市とお栄も競って甘えてくる。
妹らに甘えられるのは悪くない。
土田御前を説得する取引材料はあっただろうか……俺が考えていると、お栄がお市に言葉を掛けた。
「お市姉上、私が土田御前様に説明しておきましょうか」
「ほんとか」
「はい。稚児舞の大任を果たされ、気を抜かれると体調を崩したと言えば、土田御前様も一晩くらいは熱田神宮でのお泊まりを許してくださるでしょう」
「お栄は凄いのぉ。そんな手があったのか」
「これでお泊まりは問題ありません。しかし、体調を崩れた姉上が明日の宴会へ出向くのは、ご迷惑になるので中止となります」
「待て、中根南城の宴会は、正月参賀を終えた家臣を労うために、『おせち』という特別な料理が出てくるのじゃぞ」
「はい、お正月だけしか食べられない特別な料理が出てきます。お市姉上は参加できず残念ですね」
「嫌じゃ。わらわも『おせち』を食べるのじゃ」
「では、今日は素直に帰って、土田御前に報告するしかありません。 “お泊まりされますか”、それとも“宴会に参加しますか”、どちらになさいますか」
お市はしばらく悩んで、「わかった。一緒に帰るのじゃ」と諦めた。
お栄はお市の扱いが巧いな。
二人は侍女と護衛を伴って部屋を出て行った。
入れ替わるように母上が戻ってきた。
「魯坊丸、今日の舞は素晴らしかったです」
「ありがとうございます。母上にそう言って頂ければ、素直に嬉しく思います」
「神官の方々も褒めておりました」
「そうでございますか」
「来年は、より素晴らしい舞を披露すると約束してきました」
「ら、来年もですか。別に私でなくとも……」
「何を言うのです。皆が期待しております。一年のみで終えるなど許しません」
来年も元旦から慌ただしいのは嫌だな。
歳旦祭、特別な使者から受けたご祈祷だけでも十分に忙しく、二日目は、ご祈祷の合間に三度の奉納の神楽舞を披露した。
当然だが、俺は巫女舞などやらない。
巫女舞の宮流神楽(熱田神楽)は、テンポが速く、非常に力強い“お囃子”に近く、神掛かった巫女が神の加護を落とすもので疲れるからだ。
祝詞を一緒に詠む方が楽でいい。
ご祈祷と奉納舞を一緒にするのは疲れるから今年限りだ。
そう思っていると、母上が千代女の方を向いた。
千代女が溜息を付きながら報告を始めた。
「奉納舞に対する投げ銭ですが、しめて十八万枚に達するようです」
「意外と集まったな」
「散銭櫃(賽銭箱)も初めて百六十万枚に達したそうです」
「百六十貫文か。中々の回収だな」
「若様のお陰ですので、八割を若様に差し出すと申しております」
「気前がいいな」
「さらに、百文以上のお布施をした方に破魔矢・お札・お守りの三点をお渡しました。同時に舞台への入場が許可されます。ご寄付の総額はおおよそ一万八千貫文となりそうです」
「俺の取り分は一割の千八百貫文か」
「はい。昨年の五倍、一昨年の十倍となります」
「よく集まったな」
「若様が舞うというのは民にとって特別なのでしょう。舞を見た者は寿命が十年延びると噂されております」
「そんな眉唾はどうでもいい。それにしても千八百貫文か」
最初は、酒造所を建てるために、三千貫文(三億六千万円相当)を親父から借りた。
その半分を超える額が三日で稼げる。
お、おいし過ぎる。
最近、お小遣いは増えているに関わらず、投資額に対してお小遣いが足りない。
私的な出費が増えているからだ。
「若様が奉納舞をしないとなれば、参拝者は半分、三分の一に減るやもしれません」
千代女の声がずしりと響いた。
参拝者が三分の一に減ると、単純に売上も減ってしまう。
千八百貫文が六百貫文に……それは嫌だ。
「皆、若様の舞を楽しみにしており、士気も上がります」
母上が俺の顔を覗き込んでいた。
「わかった。俺の負けだ。来年も舞えばいいのでしょう」
「よくいいました」
「兄上、私も来年もお手伝い致します」
「よろしく頼む」
母上、千代女、里に頼まれると断れないな。
さて、千八百貫文か。
使い道を考えながら、頬を緩めた。




