56.六角家老 後藤賢豊の手紙
天文二十一年十一月八日
俺は六日から二泊三日で那古野城に泊まり込んだ。
家老衆が月初めに集まって話し合い、来月の予定を決めてゆく。その予定に合わせて、役方が予算書を組み上げた。その予算書と先月の決算書を睨めっこして、ダメ出しをするのが俺の仕事だ。
最悪、信長兄ぃや帰蝶義姉上を呼び出す。
親父の代までは収穫を無視して、家臣に手弁当でやり繰りさせ、戦手柄を立てられない者が困窮すると銭を貸していた。良くも悪くも、独立した領主の談合政治で戦をしていたのだ。
今はまったく違う。
計画経済で開発を進め、戦を想定して兵站をしっかりと管理しておく。独立領主の権限を減少させ、直轄の兵を増やしている中央集権化への移行期だ。すべての家臣を管理するから、その苦労は昔の比ではない。
信長兄ぃには、不平不満を溜めている家臣のアフターケアもやって貰わねば困る。だというのに信長兄ぃは呑気に見える。俺の方が頑張っている。
俺の予定は詰まっていた。
今月後半、十一月十七日の武闘大会の奉納試合を終えると、「斎戒」と呼ばれる、神職が心身を清める期間に入り、熱田神宮に籠もって飲食・行動を慎まなければならない。十八日に新穀を炊く準備である「神饌調進」を執り行い、十九日に「新嘗祭を迎える。
十九日の「新嘗祭」は大事な行事だ。できれば十一月の登城は中止したかった。だが、那古野の役方のみで事務処理を終わらせるのは無理なのだ。上がってくる膨大な報告書を処理するには、人数が圧倒的に足りていなかった。
このままでは年貢の管理もままならない。俺に入ってくる配当金も、年貢から発生する帰蝶義姉上の取り分も捻出できない。信長兄ぃの問題なのに、俺に被害が押し寄せる。だから、俺が侍女らを引き連れ、彼女らの「数の力」で書類の整理を終わらせた。
処理が終わると、俺が最後の精査をした。彼女らは、どんな困難な事務作業も素早く完結させる最強の顧問業務の職員なのだ。俺がそう呟くと、筆頭の千代女が苦笑いして言った。
「若様。我らは若様の障害を取り除くのが仕事ですが、主たる任務は若様の護衛だということを忘れないでください」
「わかっている。俺がいない所に派遣はできない。だから、俺がわざわざ那古野まで足を運んでいるんだ」
「我らは若様をお助けしたいだけです。那古野の信長様を助けたいわけではありません」
同行した十五名が一斉に、うん、と頷いた。那古野の人材不足は深刻だ。信長兄ぃの家臣の子供を中根家が引き取って、学校で強制的に教育するのが手っ取り早い。今度、進言しておこう。
「常備兵を二千人に増員し、那古野の北に新しい町を造る。護岸工事と並行して、土岐川(庄内川)の内側の新田開発と旧田の区画整理だ。人事を一新して命令系統を統一しないと、支障をきたす。一通り終わるまで付き合うつもりだ。しばらく我慢してくれ」
「わかっております。不満はありますが、納得はしているのです」
「皆、悪いな」
「しかし、問題は信長様です。家臣の教育がなっておりません」
「旧体制が混在しているし、信頼も足りない。家臣をまとめるのも大変なのだろう」
「若様なら有無を言わせません。根回しで談合の多数派工作を終えてから会議を行われます。信長様は根回しをやっておりません」
「俺だってやりたくない」
「信長様も立場は同じです。今はやるべき時期です。やることをやっていないから怒っているのです」
「それには同意する」
俺は酒造りのとき、入念に根回しをした。
かつて堺商人との件では、根回しをせずに失敗し、堺衆を『ぎゃふん』と言わせる平手-政秀の根回し術を学んだ。以後、俺は根回しに重点を置いている。それを見ている千代女らにとって、信長兄ぃの交渉は稚拙に見えたのだろう。俺もそう思う。
だが、俺には信長兄ぃのように尾張の民を慈しむ『天下安寧』の精神はない。尾張の君主は、やりたい奴にさせるのが一番だ。少なくとも、俺はやりたくない。
「信長兄ぃは尾張の民のために頑張りたいと言ってくれている」
「若様の悪い癖です」
「仕方ない。俺はそんな面倒なことはやりたくない。だから、俺は『頑張ってくれ』と背中を押しているだけだ」
「だから、嫡長子相続で信長様なのですか」
「そうだ。正妻の長子が継ぐ、古代の周の宗法制度だ。それが一番だ。次に信勝兄上では心許ないし、信光叔父上はやりたがらない。俺も嫌だ。残り物と言ってはなんだが、やはり信長兄ぃしかいない」
「信長様に、尾張の国主たる才覚があるのでしょうか」
「あるさ」
今の信長兄ぃは足りないものだらけだ。しかし、史実の織田信長は信長包囲網を破り、天下統一間近までいった。失敗を重ねて成長した姿こそが、あの信長像なのだろう。俺も失敗して成長した。信長兄ぃにも、失敗が必要なのだろう。
「しかし、佐久間-信盛殿は許せません。若様の御心も知らず、無用の心配をして無礼なことを申しておりました」
「言ってやるな」
「若様が望むならば、信長様などすぐに排除できます。信光様も納得するでしょう」
「わかっている。だから、怒るな」
斎藤-利政(道三)様が信長様との会談を望んできた。
帝の使者である飛鳥井-雅春と、織田家取次役の平手政秀は京に上がる予定があった。そこで前回と同様、取次代の堀田-正貞に俺の補助を付けて交渉させると信長兄ぃが言ったが、佐久間-信盛が猛烈に反対した。俺の影響力が増すことを嫌ったのだ。
「家臣どもの目は節穴です」
「千秋-季忠殿と千代の傀儡だと噂を流したのは、俺自身だ」
「身近にいながら気付かないから節穴なのです」
「家臣らが成長するまで待ってやるしかない」
「他家の後藤家ですら、若様に使者を送ってきたというのに……。斎藤利政様が会談を望んだのも、若様に祝いの言葉を述べたいからでしょう」
「だろうな」
熱田周辺の民は俺を熱田明神の生まれ変わりと信じ、敬い恐れている。しかし、『神に会えば神を斬り、仏に会えば仏を斬る』のが武士である。迷信を信じても、現実には恐れない。
親父(織田信秀)が生きている間は、千秋季忠殿と千代の傀儡だと馬鹿にしていた者の方が多かった。しかし、親父が死ぬと一変する。消えてなくなると思われた俺の株が上がった。
まず、熱田衆と津島衆が俺を支持し、信長兄ぃも俺を無視できなくなった。次に、千代女や望月家の息女が側にいることで、「六角家が俺の後ろ盾」という噂が流れた。六角家との交流が盛んになったからだ。
しかし、親父が古い外洋船を後藤家に貸し出したのが実情であり、千代女は関係ない。そんなことは関係なく、六角が後ろ盾だという噂は大きな影響を与えた。信長兄ぃの後ろ盾が美濃の斎藤利政、俺が近江の六角義賢となれば、織田弾正忠家としては盤石だ。でも、派閥争いが激化する。佐久間信盛が警戒するのも間違いではない。
ただし、俺が織田弾正忠家の家督を狙う者だった場合のみだ。
俺は家督に興味がない。だから、家老衆が集まる場にも出席していない。俺の控えめな態度が“わからない者ら”へ、千代女らの怒りが向いていた。
さて、俺はこのまま那古野城から中根南城に帰るつもりだった。
しかし昨日、六角家家老の後藤賢豊の使者が来ると先触れがあった。佐久間-信盛らが「信長様ではなく、魯坊丸様にだと?」とあらぬ疑惑を騒ぎ立てた。大人しくしている千代女らに油を注がないでほしい。
密談などと思われぬよう、俺は熱田神宮で会うと返事をした。那古野からまっすぐ熱田神宮に下り、千秋邸に到着すると迎えが出てきた。使者は待合室で待ってもらっているという。
なぜか、そこに飛鳥井雅春がいる。その使者と知り合いだったらしい。俺は賢豊を呼び出させず、俺の方から待合室へ足を運んだ。雅春は後藤家の奉行、野寺忠行と楽しげに話していた。
「邪魔をする」
「これは魯坊丸様。このような無作法なところをお見せいたしました」
「構わん。飛鳥井様の邪魔をしてはいかんと思ったまでだ」
「お気遣いありがとうございます」
「野寺殿とお知り合いとか」
「六角家に行った折に世話になりました」
「そうでしたか」
野寺が席を譲り、俺は飛鳥井卿の下座に腰掛けた。野寺が改めて、官位を賜ったことを祝う言葉を述べ、後藤賢豊からの手紙を差し出した。内容は官位拝受への祝いだった。
野寺の横に、元服したばかりの若い侍が頭を下げている。その侍が着ている衣服は、地味で目立たなくしてはあるが見事な刺繍がされており、かなり高位の者であることは察しがついた。
「野寺殿。そちらの方はどなたでございますか」
野寺が紹介する前に、若い侍は後藤壱岐守を名乗った。
「後藤家の嫡子様と知らず、申し訳ない。どうぞ、こちらに腰掛けてください」
「いいえ、まだ若輩ゆえ、こちらで結構でございます」
「そう言わずに」
「いいえ、魯坊丸様は某より年下でございますが、官位を賜るお方。格式は魯坊丸様が上でございます。ぜひお会いしたいと思い、無理に付いて参りました」
「こんな小僧で残念だったでしょう」
「いいえ。飛鳥井様からも、年に似合わず落ち着いた振る舞いに感服しているとお聞きいたしました。……実は、熱田で美味いものを食いたいのが本音なのですが。そんな某とは雲泥の差でございますな」
「では、できる限りの馳走を用意させましょう」
「ありがとうございます。魯坊丸様が弟になる日が楽しみでなりません」
野寺が「若様!」と喋りすぎを慌てて止めた。
後藤賢豊は従五位下「但馬守」を賜っており、俺の「典薬頭」と同格になる。後藤家との格式の差が縮まったのだ。望月家の千代女を後藤家の養女に貰い受け、俺の正室に据えることができると、後藤賢豊が豪語したらしい。
「申し訳ございません。当主様が勝手に仰っているだけでございます」
「忠行、父上が申したのだ。(望月)出雲守が断れるわけがないであろう」
「若様。政とは、そんな簡単なものではございません。後藤家、望月家、魯坊丸様が密になれば、それだけ反発する者も出てきます。それらを調整した後でなければ、迂闊なことを言ってはなりませぬ」
「そうか、わかった。魯坊丸様、今言ったことは忘れてください」
「承知しました」
千代女は元々、輿入れありきの存在だ。そこは問題ないが、千代女が後藤家の養女になると、俺の影響力が増しすぎてしまう。どう対処したものか。そもそも、六角義賢が許すかもわからない。しばらく保留としておこう。
それより、飛鳥井雅春に「後藤家が琉球交易に一枚噛んでいること」を知られた。念のために口止めしておくが、公家に口止めの効果はない。公家にとって情報は武器だ。「織田弾正忠家以外に、琉球の交易品を手に入れるルートが存在する」という情報は価値が高い。
しかも、最初の船が半年後に帰ってくる。その時点で秘密の意味は失われるのだ。情報の漏洩を二、三カ月早める程度のことに、大金を払って口止めする意味もないか。この情報が広まることで、他国がどう動くかだ。
後藤家の嫡子は人が良さそうだった。だが、ちょっと口が軽すぎる。
なお、未成年に酒は勧めないが、勝手に飲むのを止める気はなかった。
戦国時代だけにね。




