44.萱津の戦いのその後 と 太田牛一
天文二十一年八月二十八日
清須周辺が荒れ野原となって戦いが終わった。
権威が落ちた守護代織田信友に代わって那古野の信長兄ぃの権威が一気に上がった。
信長兄ぃは清須へ連日の嫌がらせの為だ。
あの合戦後、退却する河尻与一と織田三位は少数で清須までたどりつき、信長兄ぃと柴田-勝家は清須まで追撃した。柴田勢の目の前に中市場の兵が立ちふさがった。
中市場の守備を任された太田-牛一らが槍を持って門を守っていた。
中市場とは、清須城の南にある山王社の門前町である。
町の中を通る道は、“食違い”、“くの字”、“丁の字”と入り組んでおり、伏兵を配置しやすいようになっているので無防備に突入すると痛い目に遭う。
一旦、足を止めた柴田-勝家に牛一が単身で交渉にやってきた。
町を明け渡すので、町民が山王社に避難する時間が欲しいという願いであった。
勝家は信長兄ぃに相談し、一刻(2時間)の猶予を与えた。
一刻後、門が開けられ、押し入った那古野・末森勢が町を破壊して火をつけてから撤退した。
潮が引く時間が迫ってきたからだ。
なお、信長兄ぃは山王社への不入と乱暴狼藉の禁止の布令を発した。
敵地のすぐ近くに安全地帯が存在するのは不思議な気分だ。
翌日、今川勢が撤退をはじめたと聞いた信長兄ぃは、集めていた農兵五百人を引き連れて清須を攻めた。 そして、連日で何度も攻め立てた。
狙いは周辺の田畑への放火と町の解体であった。
まず、周辺の畑から稲を勝手に刈り取り、刈り残しには油を撒いて燃やした。次に城に南側から西側へ移動し、西にあった西市場も燃やした。
清須には、南に中市場、西に西市場、城の城下町として北側に北市場があった。
東は林家に近いので林秀貞に稲の強奪を命じた。
東西で強奪合戦となった。
徴収された農民は臨時収入に大いに沸いた。
北の田畑まで荒らし尽くすと北市場も襲った。
先の布令を出していたので犠牲者はいないが、清須の周囲は焼け野原となってしまった。
田畑や村が燃やされるのを清須勢もただ見ていたわけではない。
信長兄ぃの那古野勢は総勢一千五百人。対する清須城にいる避難民は三千人を超えた。
清須から二千人を率いて討って出てきたが、常備兵一千人が各個撃破で追い返した。
軍隊と烏合衆では兵の質が違った。
森-可行は水を得た魚のように暴れ回り、伊丹-康直がその間隙を守る見事な連携を披露し、
信長兄の本隊が出る幕もない。
これを見ていた清須方の味方が『織田-信友、頼りなし』と見切りを付けた。そして、信長兄への臣従がはじまった。
さくらが寝返った者の一覧を渡しながら、中島郡の地図の上に那古野方、清須方、中立、寺々を配置してわかりやすくしてくれた。
「若様、このように中島郡の領主の多くが寝返りました」
「名前だけではわかりづらいな」
「えっと・・・・・・(さくら、これ)綾、ありがとう」
「若様、こちらをご覧下さい。分かり易く地図で示しております」
「なるほど、中島郡は寺領が多いな。さくら、ざっと清須方はどれくらいになった」
「えっと・・・・・・」
「綾、どうだ」
「はい。中島郡の中立を除くと八割が信長様に下りました。残り二割は寺などに帰依し、その権威を頼りに抵抗を続けております」
「信長兄が寺の権威で怯むものか」
「はい、その通りです。しかし、今の作業員の数を考えますと、中島郡に回せる者がおりません。味方に与えると、直轄地に戻すのが面倒です」
「攻めて直轄地にしても面倒が見きれぬと言いたいのだな」
「中島郡は木曽川の支流が多く入り混じっており、土手などの改修をしっかりしないと使い物になりません。中途半端な土地を手に入れても改修が難しくなります」
「綾は俺から信長兄ぃに中島郡への介入を減らせと言わせたいのだな」
「そこまで申しません」
「わかった。検討しておく」
「ありがとうございます」
さくらに政治的な話は無理であり、代わって綾が説明した。
真清田神社、国府宮神社、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺などの古い神社・仏閣が多数あり、その勢力は領主より大きい。
織田弾正忠家に属する妙興寺二百石〔200石 =約20町 = 約20ヘクタール(20万㎡)〕などもあるが、神社・仏閣は中立を維持する。
合戦までは、神社・仏閣を除く、領主の八割が清須派であった。
そのうちの六割がひっくり返った。
また、尾張の北部を支配する岩倉城の尾張上守護代織田-信安、犬山城の織田-信清は腹に一物を持っており、信用できないが同盟関係を続けている。
東尾張の岩崎城の丹羽-氏勝も織田家と今川家に両属している。
体裁だけを見れば、織田弾正忠家は尾張を再統一したと言っても過言ではない。
街道沿いの領主らは『尾張の虎の子も虎』と信長兄ぃを褒め出した。
信勝兄上はババを引いた。
指揮を信長兄ぃに任せ、後方で総大将として座るだけで、初陣で尾張再統一の栄光が転がり込んだというのに・・・・・・援軍を柴田-勝家に任せ、末森に引っ込んでいた信勝兄上の評判は相対的に下がった。
馬鹿だね。
側近の津々木-蔵人が信長兄ぃの敗北を予見し、今川との講和を模索したからだ。
つまり、信長兄ぃが負けた時点で織田-信友と和睦し、織田弾正忠家の領地である笠寺・鳴海を割譲し、今川家と講和に持ってゆく。
生き延びる策としては悪くない一手であったが、戦力分析が未熟過ぎた。
津々木-蔵人の予想は今川が勝って織田が負ける前提なのだ。
小競り合いであっても信長兄ぃは今川に対して三戦三勝であり、信長兄ぃに勝ち筋もあっただろう。
あっさりと勝ったが・・・・・・。
実際、駿河の状況、兵の移動距離、兵の士気、戦場の地形を考慮すれば、負ける要素は一つもない。
一番考えられるのは、勝敗が付かずにグダグダと長引くことくらいだった。
それでも総大将として織田弾正忠家を信勝兄上が率いていた方が、交渉の主導権を握れる。
津々木-蔵人の外交力が皆無とわかった。
対して、信長兄ぃは那古野で籠城と思わせ、清須勢を河川敷に引き込んで一気に片付けた。
最後は完膚なきまで清須を追い詰めた。
中島郡の領主らが震え上がって臣従してくる訳だ。
俺と綾の会話にさくらが「わたし、いらない子ですか」と青ざめていた。
知らん。
「そう言えば、太田-牛一の名があったな。その後はわかるか」
「太田-牛一ですか。彼は勝手に交渉を進めたようで清須で居場所を失いました。柴田家を頼ったようです」
「柴田の家臣になったのか」
「そのようです。大した才もなかったので、こちらから声は掛けませんでした。今からでも誘いますか」
「いや、必要ない」
なるほど。
太田-牛一は清須の家臣だったのか。
彼が書いた建勲神社本『信長公記』(十五巻)に首巻がなく、首巻は後世の者がメモなどを参考にまとめ直したと伝わる。
信長の幼少期は敵方の清須で住み、柴田家に仕えてからも美濃攻略が終わるまで下級の家臣で直接に会うこともなかったのだろう。
首巻はすべて口伝を集めたものとなる。
首巻で那古野城下の万松寺で信長を差し置いて、信勝が喪主になるなんてことが絶対に無理だ。
しかも信長兄ぃは悪戯好きの傾奇者“うつけ”ではあるが、仕事は至って真面目だ。
親父の葬儀一つを見ても、首巻は嘘ではないが真実でもない。
それは仕方ない。
清須の下級武士が葬儀に招かれる訳もないからだ。
しかも勝家は信勝の守役であり、信勝贔屓の見方が入っていた。
口伝がねじ曲がっても仕方ないか。
ともあれ、この世界は史実とも違う。
俺がとやかく言う意味もない。




