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42.萱津の戦い(2)

 天文二十一年八月十六日

 清須の守護代である織田(おだ)-信友(のぶとも)が織田弾正忠家との和議を破棄して、辰の刻(午前8時)頃に織田-伊賀守の松葉城と織田-信次叔父上の深田城を攻めた。

 辰の刻(午前8時)、潮が引いて笠寺に駐留している今川勢が海を渡れる時間であった。

 信長兄ぃの那古野、信勝兄上の末森に兵が集められていたがどちらも動かず、油断していた織田-伊賀守と織田-信次叔父上は少ない城兵で耐えきれずに降伏した。

 信長兄ぃは清須が和睦を破る兆候ありという手紙を送っていたが、二人はまったく気にしていなかった。

 織田弾正忠家は守護代の家臣であり、和睦を結んでいる以上はこちらから手が出せない。

 間違って手を出せば、“信長が下剋上をした”と噂され、朝廷や幕府から信頼を失い、周辺国との友好にヒビが入る。

 約定をいつ破るかも知れぬ無法者のレッテルを貼られる。

 清須勢が先に手を出すのを待つしかない。

 同時に攻めてくる公算が高かったので俺も中根南城で息を呑んでいた。

 信長兄ぃの援軍が期待できない以上、熱田勢のみで今川勢を抑えなければならない。

 熱田から天白川へ続く土手に簡易の壁を立てるか悩んだが、敢えて立てずに大弩バリスタと火炎壺で耐える選択をした。

 今川-義元は尾張守護代の救援に応じたのであって積極的に侵攻した訳ではない。

 今川勢は本気で攻めてこない。

 俺の山勘だ。

 万が一の備えはするが、できれば使いたくなかった。

 義元ならば漁夫の利を選ぶと読んだ。


 実際、今川勢は笠寺からほとんど動かなかった。

 一部が井戸田の対岸にきたがそれだけだ。

 対して、清須勢は積極的に動いた。

 松葉城と深田城を落とした清須勢の大将坂井甚介・河尻与一・織田三位の三人は略奪の限りを終えてから兵を東へ向けた。

 信長兄ぃが那古野から出てこられないと踏んだ。

 潮が満ち、夜まで今川勢が北上できないと判断した俺は馬に乗せて貰って“岩塚の渡し”へ移動した。

 岩塚は熱田と佐屋を結ぶ街道にあり、土岐川(庄内川)を舟で万場まで渡す場所である。

 俺が到着したときは、すでに清須勢と那古野勢が対峙していた。

 清須勢が川を渡りはじめたと報告を受けると、信長兄ぃは那古野から一気に岩塚の河川敷に兵を移動したのだ。

 その中には末森勢として柴田(しばた)-勝家(かついえ)の旗が見えた。

 信長兄ぃは松葉城と深田城を攻められた時点で弾正忠家の当主信勝兄上に援軍を要請し、それに応じた信勝兄上が勝家を派遣した。

 兵力はほぼ互角。

 背水の陣となった清須勢に勢いがあったが、烏合の衆と軍隊がぶつかればどうなるかなど明らかであった。

 森隊と伊丹隊の動きが良い。

 二人を信長兄ぃに推挙したのを後悔したが、俺が召し抱えても使う場所がないので仕方ない。

 これが“萱津(かやづ)の戦い”か。


「萱津ですか。川向こうで少々北になりますは……そうですね。すでに勝敗は決しました。ここから追撃した信長様が萱津まで追い掛けて掃討すれば、“萱津の戦い”とも呼べます」


 俺の後ろで馬の手綱を握っていた千代女は俺の呟きを拾って答えた。

 俺も馬に乗れるが走らせると振り落とされる未来しか見えない。

 俺の後ろに千代女が乗ると手綱を任せてやってきた。

 二人とも楔帷子を着ており、いつもの背中の温もりが感じられない……が、千代女のふんわりといした甘い匂いに包まれると、刺客が寄って来ても大丈夫という気分になる。

 俺は安心して信長兄ぃの戦を堪能できた。

 史実の“萱津の戦い”は松葉城と深田城の奪回のために信長が兵を上げ、対して清須勢が清須から援軍を出し、萱津で対峙したから“萱津の戦い”と呼ばれたと考えている。

 千代女が何度か『萱津の戦い』と呟いたので、皆も『萱津の戦い』と呼ぶような気がする。


「勝敗が決しました」

「みたいなだ」

「八月に入って雨も少なく、鎧を脱ぎ捨てれば渡河できる者も多そうです」

「鎧のままで渡河する馬鹿も多そうだ」

「はい、そのようです。しかし、わかっている者が降伏しております。すぐに追撃は無理でしょう。また、松葉城と深田城の奪還も必要です。そろそろ宜しいと思いますが」

「やってくれ」


 千代女が合図を送ると、海で待機していた貨物用の小早が河口から入って、信長兄ぃの渡河を助けさせる。

圧勝だった。しかし、思わず溜息が出た。


「千代。信長兄ぃが河川敷で決戦するつもりだったのならば、俺は稲刈りを急がなかったぞ」

「信長様はどこで戦うかを事前に決めておられません。那古野まで引き付ける策を取られた場合は甚大な損失がでます」

「田畑を踏み荒らされ、村を焼かれるか」

「それが数日続く可能性もありました」

「それが嫌だった」


 今川の総数は一万人であり、七割が荷を運ぶ農民であった。

 鳴海に入って荷を置き、槍を持てば一万の兵に変わった。山口勢を含むと一万二千人に膨れ上がった。

 それが井戸田に押し寄せるとどうなるか?

 信長兄ぃはこうなる事を予測していたかのように那古野から動かなかった。

 俺も那古野に出向いて、今川の動きの予想を告げた。

 その時点で、信長兄ぃは何も言わなかった。

 河川敷の決戦をいつ決めた。

 動物めいた直感だろうか?

 味方すら謀って、敵の油断を誘った?

 わからない。

 とにかく、見事な兵運用だった。

 信長兄ぃと常備兵、“鬼に金棒”という言葉が過る。

 史実の信長は兵農分離で常備兵を整えたという嘘がまかり通っているが、実際は兵農分離などしておらず、税を免じた半農半士が主力だった。

 それは信長に限らず、武田-信玄や上杉-謙信も同じだ。

 寧ろ、寄親・寄子を強化した今川-義元の方が先進的だのかも知れない。


「信長様ははじめから清須勢のみに集中していたと思われます」

「そんな感じだな」

「若様は今川の目的は兵糧入れとおっしゃりました。信長様はそれを信じたと思われます」

「兵糧入れが主たる目的であって、攻めてこないとは言っていないぞ」

「信長様はそう信じたのでしょう」

「今川の動きを無視し、清須勢に集中したということか」

「万が一、若様が何ともするだろうとか」

「嫌な信頼だな」

 

 千代女の考察が正しければ、信長兄ぃは合理的だ。

 清須勢を油断させ、ギリギリまで引き付けて岩塚の河川敷で掃討し、そのまま逆渡河して清須を攻め、もう一隊は松葉城と深田城の奪回に回す。

 最後に戌の刻(午後8時)までにすべて終わらせて那古野に引き上げる気だな。

 戌から亥に掛けて再び干潮になる。

 那古野に戻ってさえいれば、熱田湊から海を渡って井戸田に攻め寄せる今川勢の背後から、熱田水軍を利用して奇襲を掛ける手も打てる。

 何より清須勢が敗北したと触れ回れば、今川勢の士気が落ちる。


「清須勢の敗戦は、荷ノ上城の服部(はっとり)-友貞(ともさだ)を通じて伝わるでしょう」

「連絡を断つ術もあるというのだな」

「はい、最短の道は潰せます。一時凌ぎですが、どう致しましょう」


 荷ノ上城は木曽・長良・揖斐三川の河口にある長島の隣であり、友貞は服部水軍を持つ。

 長島は一向衆の拠点であり、友貞が浄土信徒なので手が出せない。

 織田弾正忠家は長島一向衆へ献金を行っている。

 また、総本山である石山本願寺に清酒を卸しているので、服部水軍も織田家に手が出せない。

 津島水軍と小競り合いが絶え間ないだけだ。

 大高と荷ノ上に交易路があるが、熱田水軍の庭で好きにさせていない。

 長島と伊勢の航路が確率しているので、織田弾正忠家と今川家が再び和睦すると、大高と荷ノ上に交易路の安全を上げるだろう。

 堂々と今川水軍を伊勢湾に引き込み、織田家の交易に蓋をする。

 交易路を失えば、織田弾正忠家は終わる。

 もちろん、そんな事はさせない。

 させないが、今はまだ今川と決戦する時期ではない。

 今回は通してやる。


「千代。服部水軍に手を出すな。笠寺の今川勢に清須勢の敗戦を教えさせろ」

「今川との対決は後日ですね」

「そういう事だ。」


 さて、帰るか。

 終わったと、俺は息を吐いて背中にもたれた。

 楔帷子がぶつかってガシャンと音を立てる。

 千代女が落ちると危ないので気を引き締めて下さいというが、顔が笑っている。

 周りの皆も笑みを浮かべた。

 後始末が沢山残っていたが、今だけは忘れることにした。


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