柳恵那―16
すっかり気持ちが離れてしまったな。
まるで……犯されて無理矢理妊娠させられて味覚の好みが変化したように、文章に対する気持ちが変わってしまった。
今まで好きだった恋愛詞も、文章で表されている限りは自分とは相容れない世界、自分には馴染めない世界にしか思えなくなった。
どうしたって……私が強く望んでも手の届かない世界なんだ。読みたくなくなった。フィクションでも辛い……でも私の頭の中には、まるで犯された体験がフラッシュバックで甦るように、自分の都合などお構いなく後から後から言葉がわき上がってくる。
また在君が来た。なんで泰午君じゃなくて在君なんだろう。実は私に中学の時から惚れていたのかな。で、私を追いかけて同じ高校へ来た……そんな訳無いけど。
那々。こんな時に限って私にちょっかい出しに来なくていいのに。あんまり目の前でうろちょろしてたら八つ当たりするよ。
なによ。そんなにデジカメ買ってもらったのが嬉しいの? いつも何でも撮ってる。そんなの誕生日に買ってもらわなくても、お父さんの借りたらいいのに。デジカメかあ……言葉よりもマシか。それ、何? これはまた可愛くない写真撮っちゃって。こっちは友達? 楽しそうで結構な事だね。どこへ遊びに行ったのか全然分らない。最近の小学生は何をやってんだろ。どこかのビルの探検? 女の子のクセに?
なにこれ……ここ……あれじゃん。紀志法律事務所のあったビルだ。どうしてこいつが知ってるの? 誰も知らないはずなのに。どうして? 警察も結局、私に事情を聞きに来なかったし。単なる自殺じゃ来ないのが普通? どうしてよ! なんで那々が。
在君も何か興味を持っているみたいだった。あの法律事務所の事、知っているみたいだった。どうして私の周りの人間があの事務所の事知ってんのよ! おかしい。……在君、あの時、勝手に中に入ろうとしていたけど、どうなったんだろう。怒られなかったのかな。
那々達。那々と那々の友達もちらちら写っている。こいつ、中にまで入ってる。鍵は? どうして? 誰も写っていない。那々と那々の友達以外。誰も。大きな植木鉢は私の記憶にもあるけど……家具類以外が何も無い。何も。空っぽだ。
……どうして。ちゃんとここに何度も通っていたのに。在君と一緒に行った時は、人のいる気配は無かったけど、鍵はかかっていた。でも――え? いつ? 昨日?
今はまるで、ずっと放置されてきた空き家のようになっている。何があったんだろう。というより、私があそこに何度も行っていたということが、無かったことにされているみたい。
よく考えたら、那々があそこを知っているわけない。那々が写真に撮ってきたのは、あの法律事務所に似ているけど全然別の場所だ。きっと。
そういえば遺書は。遺書はどこ? もう絶対見たくないけど、誰かに見られるのも嫌。なんで今まで捨てずにいたんだろう。どこ? きっと那々はあの遺書を見たんだ。何を書いたのかよく思い出せない。私も知らない内に余計な事をいろいろ書いてしまったんだ。
遺書もほんとに書いたのかな。だって、ほんとに書いたのなら、もう失語してるはず。言葉が残っているってことは、やっぱり書いてないってことなんじゃ。
もしかして……頭の中を覗かれている? 私に、勝手に、無断で。そんな訳ないじゃんなんて気軽に否定できない。頭が丸裸にされてる気がする。何もかも覗かれてる。だって、来るはずのない在君が私の部屋に来るし、在君も那々もあの法律事務所の事知ってるし、知っているはずのない事を知っている。
病院で寝ている間に見ていた夢。全部夢だったんだ。まだ痛いし、傷だけが残っている。自殺しようとしたことだけが本当で、あとのことは全部はっきりしない。失語症になったと思い込んでいたのも夢? だって、現に失語してないわけだし。でも……でも……あれが、夢? あの喪失感が夢の中のこと? そこまでは信じたくない。
空っぽになった事務所の写真は、じゃあ何?
確かに見覚えがある感じの部屋なのに。空っぽなだけで。こいつが友達と、お菓子食いながら、くだらないお遊び気分で出かけてったんだ。こいつが勝手に! ……私にこの厭な現実を突き付けるために。世の中の誰も彼もが、寄ってたかって私を狂わせようとする。
あれ……? 那々? いなくなった。いつのまに。あんな奴、視界から消えてくれて良かった。あのまま私の目の前で憎たらしい顔を晒されていたら、私は何をしたか分からない。でも、代わりに、いつのまにか在君がいる。傍に立っている。在君が私に会いに来ていたっていうのは、じゃあやっぱりほんとのことだったのね。そう信じていいんだね?
それは……? 私にくれるの?
詩? 小説? 今はそんなもの見たくもないんだって。
これ……私の字だ。
遺書も現実だったんだ。もう、何ページ書いちゃってんのよ。はは……我ながら有り得ないよね。本当に私が書いたの? こんな訳分んない事。信じたくない。え、でも。でも、どこにも書いてない。ない。ない。紀志法律事務所のこと。
……知らないうちに喋っちゃったのかな。自分が一番信用できない。本当に知らない内に喋ったかもしれない。在君が前にも私の家に来ていたっていうのはほんとっぽいから、その時にボケた頭で勝手に色々喋ってたのかな。もう、死にたい。
在君はどうしてここにいるの?
自殺なんて今時誰でもするじゃん。放っておいてよ。
カレンダー。私が最期に事務所行ってから、今日までに3週間も経ってる。も、ていうか、たった、だ。
どうして言葉なんてあるんだろう。初めから無ければ良かった。覚えなければ良かった。万莉姉え、莉恵姉え、それと母さんが私に言葉を教えるからだ。お姉ちゃんと母さんのせいだ。言葉の無い世界に行きたい。
……でも……本当にそれでいいの? このまま無くなって。
これだけ分厚い遺書を書いたんだし、今までも他人よりは多くの文章を書いてきたと思うし、どうせあとちょっとでなくなるんだ。あと少し、何か詩を書いたりして失語するのなら、高い所から飛び降りるより優しい。恐い思いもしない、簡単なことだ。
でも、本当にもう捨てていいの? 後から後悔はしない?
病院に居た時の私は、もっと恐ろしいものに包まれていた気がする。
言葉をなくしたら……出口を失い、私の感情は閉じこめられる。硬い頭蓋骨の中に。言葉によって吐き出す事ができなくなったら、行き場を失った私の感情は……言葉を失って、直接、私の荒れ狂う感情に裸の心がさらされたら、耐えられない。言葉を今失ったら、暗闇に閉じ込められる。




