名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
白銀の駒 ―― 名探偵 藤原彰子の宮中事件簿『転生皇后・藤原彰子』スピンオフ外伝
賀茂の競べ馬を控え、都の評判を一身に集める名馬「白銀」が忽然と姿を消した。同じ夜、厩を預かる馬監が野の窪地で無残な死体となって発見される。人々は賭事に絡むならず者の仕業だと騒ぎ立てるが、彰子は「吠えなかった犬」や「跛になった山羊」など、ごく小さな不自然から事件の裏を鮮やかに読み解いていく。華やかな熱狂の陰で、小さな見栄と欲が引き起こした哀しき悲劇とは。平安の都を舞台に、名探偵・中宮彰子が隠された真実に迫る本格歴史ミステリー。
世に、名探偵という言葉はまだありません。けれど、もしそのような名で呼ぶべき人が平安の御代にいたとすれば、わたくしは迷わず中宮彰子さまのお名を挙げるでしょう。
ものを大きな声で言わぬ。人を威圧して従わせることもなさらぬ。ただ静かに見て、聞いて、考え、誰も気づかぬ小さな綻びから、隠された真実を引き出してしまわれる。
そのお力を、わたくしは何度も目の当たりにしてきました。
今から記すのは、そのうちでもとりわけ不思議で、とりわけ鮮やかで、そして終わってみれば胸のどこかが冷たくなるような一件です。人は後にこれを、「白銀の駒の失踪」と呼びました。
その朝、わたくしが彰子さまの御前で文を整理していると、御簾の内から不意にお声がした。
「衛門、支度をなさい。西へ参ります」
顔を上げると、几帳の向こうに端然と座しておられる彰子さまのお姿があった。声はいつもどおり静かで、しかしその静けさの内に、すでに思案が固まっている気配があります。
「西、と申されますと」
「葛野の御牧です」
わたくしは思わず筆を落としかけた。葛野の御牧といえば、都の西、野広く開けた地にある名高い馬の飼養地です。そこで育てられた馬は、賀茂の競べ馬にも、節会の行幸にも出される。なかでも近ごろ都じゅうの評判になっていたのは、白銀と呼ばれる一頭の葦毛の名馬でした。
額に白い流星を持ち、前脚に淡い斑があるその駒は、まだ若いながらすでに幾度も勝ちを重ね、次の賀茂の競べ馬では勝利まちがいなしとまで言われていました。ゆえに白銀を失う者も、また白銀が出ぬことで利を得る者も、数多くありました。
その白銀が、三日前の夜に忽然と消えたのです。しかも同じ夜、その厩を預かる役人の一人が、野の窪地で死体となって見つかった。
都は、そして宮中もこの噂で持ちきりでした。公達たちは賭けの話をひそひそと交わし、女房たちは「物の怪では」「怨霊では」と囁きあっています。わたくしもまた、中宮さまがこの件に関わられぬはずがないと思っていました。
だから驚きはしなかったのですが、実際にお出ましになると聞くと胸が高鳴りました。
「検非違使から、内々に見てほしいとの申し出がありました」
と彰子さま。
「表向きには、ただ御牧見物ということにしておきます」
「犯人の見当は、もう」
「まだ、いいえ。ただ――」
そこで少し間を置かれた。
「人は皆、怪しい者ばかりを見ます。けれど真実は、たいてい見慣れたものの側にあります」
そうしてその日のうちに、わたくしたちは牛車で西へ向かいました。供にはわずかな女房と、検非違使庁から差し向けられた左衛門尉・藤原実成がつく。実成は三十余りの、目の冴えた男で、役人らしく簡潔な話しぶりをする人物でした。
御牧へ至る道すがら、実成は事件の骨子を語りました。
「死んだのは、大舎人部の馬監・源為則にございます。若いころは騎乗の名手として知られ、のちに馬の調練を預かって七年、主家からの信も厚うございました」
「家族は」
「妻が一人。子はなし。御牧より少し離れた家に住んでおります。下には若い飼丁が三人おり、そのうち一人が毎夜厩で番をし、二人は厩で眠るしきたりです」
「失踪した夜は」
「いつもどおり日暮れまで馬を見て、戌の刻に厩を閉めました。番をしたのは若い舎人の清原宗平。夜食を運んだ下女が厩の近くで見知らぬ男に呼び止められ、金をやるから番人へ渡してくれと文を差し出された、と申しております」
「文?」
「はい。折りたたんだ紙です。その男は、白銀ともう一頭の栗毛の具合を教えれば礼をすると言ったそうにございます。つまり、馬の様子を探る者――」
「賭け事の関係ですね」
とわたくしが口をはさむと、実成はうなずいた。
「さようにございます。下女は怖くなり、格子越しに宗平へ知らせました。するとそこへその男が近寄り、直接宗平に話しかけた。宗平は怒って犬を放しに行き、その隙に男は姿を消した、と」
「その夜食に、薬が入っていた」
と彰子さまが静かに言われた。実成はわずかに目を見張った。
「……はい。翌朝、宗平は昏々と眠っており、起こしても正気に戻らず、調べると夜食の羹に眠り薬が混じっておりました」
「そして馬監どのは」
「その夜半、案じて厩を見に行くと言い、外へ出たきり戻りませぬでした。朝になって探したところ、厩から少し離れた窪地に倒れておりました。頭は強く打たれ、腿には鋭い刃による深い傷。右手には細い小刀、左手には――」
「見知らぬ男のものとされた紐、ですね」
「まことに、その通りです」
わたくしは思わず実成を見た。まだ現場にも着かぬうちから、彰子さまの問いはすでに核心を穿っています。
「馬は」
「行方知れず。厩から消えたままにございます」
「疑わしき者は」
「その夜、下女と宗平の前に現れた男。名を橘季忠と申します。没落した受領の子で、今は賭事の仲立ちなどして暮らしている者です。宗平に薬を盛り、馬を盗み出し、追った馬監を打ち殺した――これが庁の大方の見立てでございます」
彰子さまは何も仰せにならなかった。ただ御簾の向こうで、扇の骨が一つ、かすかに鳴った。それが、この事件に対して彰子さまの思考が本格的に動き始めた合図でした。
葛野の御牧は広かった。春の草が低くひろがり、そのむこうに厩舎の長い屋根が見える。さらに遠くには、柵に囲まれた放牧地と、点々と草を食む馬の影があった。だが白銀の姿だけは、どこにもありません。
まずわたくしたちは、死んだ馬監・為則の家へ通されました。表向きは御見舞い、実際は所持品の確認です。
居間の中央に、実成が箱を置いた。中には為則の懐から出たものが収められています。
火打石と火打金。脂燭の短い残り。細長い香袋。懐紙、銭少々。そして――きわめて細い、異様な小刀。
彰子さまはその小刀を手に取られた。刃は柳葉のように細く、先は針のように鋭い。護身にも不向きで、男が野へ持ち出すにはいかにも頼りない。
「変わったものですね」
とわたくし。
「医師の道具にも見えます」
「ええ。荒事に持ち出す刃ではありません」
彰子さまは刃先を光にかざし、さらに脂燭へ目を移された。
「脂燭も短い。これは急ごしらえで持ち出したというより、使うつもりで持ち出したのでしょう」
そのあと、書き付けの束が示された。乾草や豆の代金、主家からの指図、雑事の控え。どれも平凡で、ひと目には事件と関わりそうにありません。
だが一枚だけ、上質の料紙に書かれた帳面の切れ端があった。そこには、洛中の装束店からの請求が認められている。
『代価 絹四十疋 紫苑襲唐衣一具 受取人 藤原通継殿方 みさお御前』
わたくしは首をかしげました。
「これは、為則どの宛ではありませぬね」
「ええ」
彰子さまはごく薄く笑われた。
「それに、為則の妻がこうした華美な装束を誂えるとは思えません」
「別人のものが、なぜ懐に」
「そこです」
実成が口を挟む。
「妻君は、通継という人も、みさおという女も知らぬと申しております。夫の知人のものではないか、と」
「なるほど」
彰子さまはそれ以上何も仰せにならず、箱を閉じさせた。そのお顔には、わずかに興味の色が濃くなっています。
次いで、妻の源氏が呼ばれました。まだ三十にもならぬ女で、泣きはらした顔をしています。言葉少なに、夫は夜半に「気がかりだから厩を見てくる」と言って出たきりだったと語った。
「雨の音がしていたので、止めました」
と女は袖で口元を押さえながら言った。
「でも、どうしても行くと」
「お出かけの時、その小刀を」
「はい。いつも几帳のそばに置いてあったものを、何気なく懐へ入れました」
「もとより、護身のためと思ったのですね」
「そのように存じます」
彰子さまは、しばらくその女の顔を見つめておられた。わたくしには、ただ気の毒な未亡人にしか見えなかった。でも後で知ることになります。
彰子さまはこのとき、すでにこの女が知らぬことと、知っていて隠していることを分けて見ておられたのです。
現場は厩から四半里ほど離れたところにありました。小さな窪地のまわりには灌木が茂り、昨夜の雨で土はまだ柔らかい。為則の外衣が灌木に掛かっていた場所は、そのまま残されていました。
実成は役人としてはかなり気が利くらしく、現場を荒らさぬよう莚を敷かせていた。
「助かります」
と彰子さま。
「最初の形が、まだ少し残っています」
それから彰子さまは、ほとんど無言で窪地に降りられた。裾を汚すのも厭わず、土の上にしゃがみこみ、草の倒れ方、蹄の跡、人の足の踏み込みを一つひとつ見ていかれる。
やがて突然、土を指先で掘って、小さなものをつまみ上げられた。
「衛門、見えますか」
それは半ば泥に埋もれていた、燃え残りの細い脂燭の芯でした。
実成が顔色を変える。
「わたくしどもは見落としておりました」
「泥と同じ色ですから。ただ、ここに脂燭が使われた証が欲しいと思えば、探せます」
わたくしは思わず息をのんだ。欲しいと思えば探せる――彰子さまの探索は、いつもそうです。何もかも漫然と見るのではありません。まず筋を立て、その筋に従って現実を照らすのです。
窪地を出ると、彰子さまは周囲の地面を見て歩かれた。しばらくして、草の薄い泥地に明瞭な蹄跡が現れた。
実成が持参していた白銀の蹄の型を合わせると、ぴたりと重なる。
「白銀の跡です」
「ええ」
さらに進むと、しばらく蹄だけだった足跡のそばに、人の足跡が並ぶように現れた。わたくしは声を上げた。
「どなたかが、ここで追いついたのですね」
「あるいは、ここで出会った」
「白銀は自ら走り、人は後から」
「そう見えます」
だがさらに不可思議なのは、その跡がいったん御牧から離れる方向へ進んだ後、途中で向きを変え、また別の方角へ向かっていたことである。
彰子さまはその向きの先をしばらく見つめ、やがて言われた。
「この先に何がありますか」
「西の岡を越えれば、春日部少将の私牧がございます」
実成が答える。
「その牧には、今回の競べ馬に出る駒が?」
「はい。白銀に次ぐと評判の、黒鹿毛の夕嵐がおります」
彰子さまはうなずかれた。
「では、そちらへ参りましょう」
実成は目を瞬かせた。
「今すぐに、でございますか」
「ええ。白銀が野を彷徨っているのなら、もう見つかっているはずです。見つからぬなら――見つけたくない者の手にあるのでしょう」
その一言で、風の中の草の音さえ鋭く感じられた。
春日部少将の牧は、御牧ほど大きくはないが、よく整えられていました。厩の前では馬丁たちが忙しく動いていたが、われらの牛車が着くと、年かさの男が出てきた。がっしりした体つき、色黒の顔、眼だけが妙に素早い。
「何の御用で」
「御牧の件です」
と実成。
「管理役の惟宗行親殿にお会いしたい」
「私が行親です」
その男はぶっきらぼうに答えました。わたくしはその声を聞いた瞬間、胸に小さな引っかかりを覚えた。何かを隠そうとする者に独特の、乾いた硬さがあります。
彰子さまは御簾越しに穏やかに言われました。
「少し、お話を伺いたいのです。白銀が行方知れずと聞いて、こちらも心配しておりまして」
「こちらには何の関わりもございませぬ」
「そうでしょうか」
たった一言だった。けれどその声の冷ややかな静けさに、行親の肩がわずかに強張ったのをわたくしは見逃しませんでした。彰子さまは続けられる。
「昨朝、そなたは誰より早く起き、牧の外れで見知らぬ馬を見つけた。近づいて額の白い流星を見た時、それが白銀だと気づいた。最初は御牧へ戻すつもりで綱を取った。でも途中で思いとどまり、白銀を自分の厩に隠した――違いますか」
行親は見るみる顔色を失った。口を開いたが声にならず、やがてようやくしぼり出す。
「な、何を根拠に」
「足跡です。白銀の蹄跡と、そなたの角張った草鞋の跡。さらに言えば、白銀が消えて最も得をするのは、夕嵐を擁するこちらです」
行親はなお抗おうとしたが、彰子さまは静かに畳みかけられた。
「わたくしは、白銀をそなたが盗んだとは申していません。逃げてきた馬を見つけ、出来心で隠したと申しているのです」
その瞬間、男の膝が折れた。
「……お赦しを」
実成が鋭く進み出るが、彰子さまは手で制された。
「正直に申せば、すぐに捕らえるつもりはありません。白銀は無事なのですね」
「は、はい……毛を染め、額の白を煤で隠しました。競べ馬の日が過ぎれば、どこかで見つかったことにしようと……」
「馬を傷つけては」
「おりませぬ。怖ろしくて、そのようなことは」
「ならばよろしい」
行親は呆然と顔を上げた。
彰子さまは言われた。
「白銀はこのままここで世話をしなさい。ただし、競べ馬の日まで一切動かしてはなりません。毛もそのまま。そのうえで、後日、わたくしの指図どおりにするのです」
「……なぜ、でございます」
「今ここで白銀を戻せば、馬は戻っても、人がなぜ死んだかが曖昧になります。わたくしはそれが嫌なのです」
男は深く額づいた。あの尊大そうな管理役が、まるで鞭を打たれた犬のように震えている。白銀の所在は知れた。でも、それは事件の半分に過ぎません。むしろ本当の謎は、ここから始まるのでした。
御牧へ戻る道すがら、わたくしはこらえきれず尋ねました。
「姫様、行親が白銀を隠したのであれば、為則どのを殺したのも」
「いいえ」
「ですが利もあり、機もありました」
「機は、ありません」
「と申しますと」
「厩には犬がいたでしょう」
「はい」
「その夜、犬は騒ぎましたか」
わたくしははっとした。実成もまた、同じ瞬間に息をのんだ気配がしました。
「……いいえ。厩で寝ていた若者たちは、何も聞いておりませぬ」
「ならば、夜半に厩へ入って白銀を連れ出したのは、犬にとって見慣れた者です」
「御牧の内の者」
「ええ。見知らぬ盗人ではありません」
それだけで、庁が追っていた橘季忠の像は大きく揺らいだ。季忠はたしかに怪しい。賭け事に関わり、下女に近づき、番人に話しかけた。だが犬に知られた者ではない。
「では、薬を盛ったのも」
「内の者でしょう」
「為則どの御自身が?」
「そこまではまだ。ただ、外の者が偶然都合よく薬の匂いを消す食を選び、番人だけに盛るのは難しい」
「薬の匂いを消す食」
「宗平が食べたのは、何でしたか」
「蒜と香草を強くきかせた羹でございます」
「強い味ですね。眠り薬は、そうしたものに混ぜると分かりにくい」
実成が唸った。
「では、季忠は……」
「別件で来たのでしょう。馬の様子を盗みに、あるいは賭けのために」
「しかし死者の手には、季忠の落とした組紐が握られていました」
「それもまた、都合がよすぎるのです」
彰子さまはそこで言葉を切り、遠く草地を見るように視線を向けられた。
「衛門。真実の敵は、嘘そのものではありません。あまりにもっともらしい嘘です」
わたくしはその言葉を胸に刻んだ。確かに、季忠は怪しすぎるほど怪しい。怪しいからこそ、人はそこで考えるのをやめます。でも彰子さまは、そこから先を見ておられた。
その夜、わたくしたちは御牧の離れを借りていました。実成は庁へ使いを飛ばし、橘季忠の詳しい身元や、為則の出入り先をさらに調べさせています。
灯の下で、彰子さまは昼に見た請求書を思い返しておられた。わたくしも対座して、帳面に控えを写します。
「衛門」
「はい」
「為則の妻に、今日わたくしが何を尋ねたか覚えていますか」
「園遊の折に見かけた、と申されたことにございますか」
「そう」
「ですが、あの方は否定なさいました」
「当然です。わたくしは、わざとある装束の記憶を口にしたのです」
わたくしは目を見張った。
「では、試されたのですか」
「ええ。もし請求書の装束が妻のものなら、驚き方が違ったでしょう。けれどあの人は、本当に知らぬ様子でした」
「では、為則どのは別に女を」
「その可能性が高い。しかもかなり金のかかる相手を」
そう言われて、わたくしの胸にいやな感じが広がった。忠実で実直と評判だった馬監が、実は外に女を囲い、その費えに追われていたとすれば――。
「借財があったなら、白銀を走れなくして利を得る企てに及ぶことも」
「ありえます」
「では、白銀を連れ出したのはやはり為則どの」
「その線がもっとも自然です」
「でも、なぜ自ら命を落としたのでしょう。季忠が待ち伏せしていたわけでもないなら」
彰子さまは灯火のほうへ顔を向けられた。その横顔は穏やかなまま、けれど目だけが冴えている。
「昼の窪地を思い出しなさい。外衣は灌木に掛けられていた。脂燭が使われた跡があった。そして、護身に不向きな細い小刀」
「はい」
「もし為則が白銀をあの場へ連れ出したのなら、そこには白銀に対して何か細かな作業をする意図があったはずです」
その瞬間、わたくしはぞっとした。
「まさか……馬を」
「軽く傷つけるつもりだったのでしょう。表には分からぬほどに、けれど走れば跛が出るように」
声にしてしまうと、何とも言えぬ嫌悪が込み上げた。信頼を受けた者が、己の欲のために名馬を故意に潰す。しかも競べ馬の前夜に。
「そのための小刀……」
「ええ。荒々しい刃ではできません。細く、鋭く、深く入りすぎぬ道具が要る」
「では、為則どのは夜中に白銀を連れ出し、眠らせた番人の目を盗んで、野で馬を傷つけようとした」
「おそらく」
「それで、白銀に蹴られた」
わたくしの言葉に、彰子さまはわずかにうなずかれた。
「驚いた馬が後脚を振り上げれば、人の頭など容易く砕けます。腿の傷は、倒れる拍子に自分の刃が刺さったのでしょう」
わたくしはしばし言葉を失った。すべてがつながっていく。吠えなかった犬。薬入りの羹。細い小刀。外衣を脱いでいたこと。脂燭の灯。
「では、橘季忠は無実……」
「無実とは言いません。あの男はあの男で、御牧の情報を盗みに来た。組紐も本当に落としたのでしょう。為則はそれを拾い、いざというとき自分に都合のよい罪人に仕立てる材料にしたのです」
「なんという……」
「欲を抱く人は、ひとつの嘘だけでは足りません。次の嘘、そのまた次の嘘を用意しておくものです」
その時、外から実成が早足で戻ってきた。文を差し出して言う。
「都より急ぎの返事にございます。源為則は近ごろ、洛中の女御所勤めの下がり女房と深く通じ、名をみさおと申すそうにございます。また橘季忠は、白銀が出ぬ方に多くの財を動かしておりましたが、殺しの前科などはなし」
「みさお」
と中宮さま。
「やはり」
請求書の名と、噂の女の名が重なる。これで為則の二重の暮らしは、ほぼ確かなものになった。だが彰子さまは、なお一つ確かめるべきことを残しておられた。
翌朝早く、彰子さまは厩の裏手を歩かれた。わたくしと実成も従う。
そこには草地があり、御牧で飼う数頭の山羊がつながれていた。乳をとるために置かれているもので、下働きの者が世話をしているという。
彰子さまは何気ないふうを装って、近くにいた若い飼丁へ尋ねられた。
「この山羊、皆よく肥えているのですね」
「は、はい」
「病んだものはありませんか」
若者は首をかいた。
「それが近ごろ、三頭ばかり、どういうわけか後脚をひいております」
わたくしと実成は、同時に顔を見合わせた。
彰子さまは平然として続けられる。
「転んだのですか」
「いえ、傷も見えませぬのに、歩くと少し変で」
「誰か、見てやったのですか」
「為則さまが『捻ったのだろう』と仰せで……」
それで十分でした。馬にいきなり刃を入れる前に、まず小さな獣で試す。皮膚の上から分からず、けれど歩きに障るように腱を傷つける――。
わたくしはぞくりとしました。彰子さまの推理が当たったことへの感嘆より、それほど用意周到に悪事を重ねた男が、すぐそばで善良な顔をして暮らしていたことへの寒気の方が勝ちました。実成が低く言いました。
「これで、ほぼ」
「ええ」
彰子さまは山羊の一頭の脚を見てから立ち上がられた。
「けれど、最後まで確かめましょう。人を裁くには、筋が通るだけでは足りません」
彰子さまが白銀の所在を隠し続けた理由は、競べ馬の日になってはじめて明らかになりました。
賀茂の競べ馬は、都人にとって大きな見世物である。上達部から庶民までが集まり、勝敗に熱を上げる。白銀が消えたとあって、今年の騒ぎは例年以上でした。
出馬の列に、見慣れぬ黒みがかった一頭がいました。体つきは見事、脚さばきも力強い。乗り手は白銀の主家の色をつけていますが、肝心の額の白い流星がない。周囲はざわめいた。
「まさか代馬を」
「いや、姿は似ているが……」
彰子さまはわたくしにだけ聞こえるように小さく言われた。
「よく見なさい、衛門。毛色の下に、本当の色が隠れています」
競べ馬が始まると、その駒は他を寄せ付けなかった。最初は少し抑えていたものの、終盤にぐっと伸び、一気に前へ出る。勝負は明らかでした。
見物のどよめきの中、主家の者も実成も、ただ呆然としています。勝った馬が引かれてくると、彰子さまは実成へ命じられた。
「酒を少し持ってきなさい。そして布も」
馬の顔と前脚を布で拭わせると、煤と染料が落ち、下から真白い流星と淡い斑が現れました。
「白銀……!」
あちこちから叫びが上がった。そのざわめきのなか、彰子さまは淡々と告げられる。
「白銀は生きておりました。昨朝、西の私牧に迷い込み、欲心を起こした者に隠されていたのです」
行親はその場で崩れ落ち、すべてを白状した。だが彰子さまは、そこを事件の結びとはされなかった。
「この男は白銀を隠しました。しかし殺しはしていません」
人々はざわめきを増した。主家の者も、実成も、皆が彰子さまの次の言葉を待つ。
「源為則を死に至らしめたのは、白銀自身です」
空気がぴたりと止まったようだった。馬が人を殺した――その一語の重みが、誰の胸にもすぐには落ちなかったのです。
その日の夕刻、関係者のみが集められた別室で、彰子さまは静かに真相を語られた。わたくしはその場にいて、一語一句を逃すまいと胸に刻みつけました。
「最初、皆は橘季忠を疑いました。確かにあの男は怪しい。夜、下女へ近づき、番人へ話しかけ、馬の様子を探っていた。けれど、怪しすぎるのです」
実成がうなずく。
「番人に眠り薬を盛ったのも、外の盗人と思われておりました」
「ですが、薬は強い香りの羹に混ぜられていた。外の者が偶然それを見越して仕込むのは難しい。しかもその皿だけに薬が入っていた。番人の食を扱える者、すなわち御牧の内の者でなければなりません」
「そして犬が吠えなかった」
と実成。
「そう。夜半に厩へ入ったのが見知らぬ者であれば、犬は騒いだでしょう。吠えなかったということは、犬の知る人物――源為則であったということです」
彰子さまは続けられる。
「為則は、何らかの理由で白銀を走れなくしたかった。その理由は懐から出た請求書が示しました。妻も知らぬ高価な女の装束。つまり彼は外に女を持ち、多額の費えに迫られていた」
室内に重い沈黙が落ちる。為則の妻は青ざめた顔でうつむいていた。
「次に、小刀です。あれは争いに使うものではありません。きわめて細かな切開のための刃です。しかも夜の野へ、脂燭とともに持ち出していた。外衣を脱いでいたのも、仕事の邪魔だったからでしょう」
「仕事、とは」
「白銀の脚を、表からは分からぬように傷つけることです」
その瞬間、何人かが息を呑んだ。主家の男のひとりは怒りに拳を握りしめた。
「馬の腿の筋、あるいは腱にわずかな傷を入れれば、見た目には分かりにくくとも走れば跛が出る。病か捻りかと思われ、不正は見えにくい。その練習をした跡もありました」
「山羊」
と実成。
「ええ。裏で飼われていた三頭が同じように跛になっていた。傷も見えず、ただ歩きがおかしい。為則は本番の前に、それで試したのでしょう」
わたくしは改めて震えた。真相はいつも、噂より残酷だ。
「では、季忠の組紐は」
「本当にその夜落としたのでしょう。為則はそれを拾い、もしことが露見したときには、季忠へ罪をなすりつける算段をした。ゆえに死の間際まで握っていたのです。それは犯人の証ではなく、死者が用意した偽りの証でした」
「頭の傷は、白銀の後脚に蹴られたため……」
「そうです。夜の野で脂燭を灯し、刃を当てようとした瞬間、白銀は驚いた。あるいは本能で危険を感じたのでしょう。後脚をはね上げ、為則の額を打ち砕いた。倒れた拍子に、為則自身の小刀が腿へ深く入った」
すべてがそこでぴたりと収まった。外衣が灌木に掛けられていたこと。争いの痕に見えた窪地。不自然な小刀。吠えぬ犬。薬入りの羹。そして消えた白銀。
「白銀はそのまま逃げ、西の私牧へ迷い込み、行親に見つけられて隠された。これが全容です」
長い説明が終わっても、誰もしばらく口を開けなかった。人を殺したのが人の悪意ではなく、名馬の自然な反撃であったこと。しかもその死者こそ、もっとも信頼されていた者だったこと。それは皆の胸に、じわじわと重く沈んでいった。
その夜、御所へ戻る牛車の中で、わたくしは長いあいだ黙っていました。
何か言えば、すぐに為則をただの悪人と決めつけてしまいそうで、それがどこか浅はかに思えたからです。
やがてわたくしは、小さく尋ねました。
「姫様。為則どのは、もとより許されぬことを企てました。けれど……」
「ええ」
「ただ欲深かった、とだけ言ってしまってよいのでしょうか」
彰子さまは御簾の内で少し間をおかれた。その沈黙には、いつも答えより深いものがある。
「人は、突然悪くなるのではありません」
と、やがて仰せになった。
「小さな見栄、小さな嘘、小さな欲――それらを重ねているうち、いつのまにか戻れぬところまで行く。為則も、はじめから馬を傷つけるつもりだったのではないでしょう。けれど借財がかさみ、女に溺れ、体面を守ろうとして、ついに白銀へ刃を向けた」
「それで自ら滅びた」
「そうです。だからこれは、天罰と呼べば簡単ですが、それだけでもありません」
「では」
「哀れです」
わたくしはその一語に、胸を衝かれた。
悪を働いた者に対しても、ただ憎しみではなく「哀れ」と言う。それは甘さではない。人が壊れていく道筋を見通したうえでの、厳しい慈しみだった。
「白銀は悪くございませんね」
とわたくしが言うと、彰子さまは少し笑われた。
「もちろん。あれはただ、自らを守っただけです」
たしかにそうだ。白銀は人の欲も賭けも知らない。ただ鋭く危険を感じ、身を振ったにすぎぬ。それでもその一蹴りが、一人の男の生涯を終わらせ、都じゅうを騒がせた。
人の世は、なんと脆く、そして入り組んでいることか。
数日後、白銀は正式に主家へ戻された。毛を洗い落とされたその姿は、やはり見事でした。額の白は雪のように明るく、前脚の斑も美しい。厩に立つだけであたりが華やぐような、不思議な気品があります。
主家の殿は、彰子さまへ深く礼を述べられた。検非違使庁もまた、橘季忠については賭けの取り締まりのかどで別に沙汰し、為則の死については「白銀暴れて主を斃す」とのみ記したという。表向き、主家の恥をあまり大きくせぬためでした。
春日部少将の牧の行親にも沙汰は下りましたが、彰子さまのとりなしもあって、馬を害さなかったことを考慮し、重罰は避けられました。
そして御所では、何事もなかったかのように日々が流れました。歌会があり、贈答があり、月の夜には管絃の遊びもある。
でもわたくしの胸には、あの窪地の湿った土、泥の中に埋もれていた脂燭の芯、吠えなかった犬のことが、いつまでも鮮やかに残っていました。
ある夕暮れ、わたくしがその話をもう一度持ち出すと、彰子さまは文机の前で筆を置かれた。
「衛門。人は大きな証を求めたがります。血の跡、刃の跡、目撃の言葉。けれど真実を決めるのは、案外もっと小さなものです」
「吠えなかった犬、にございますか」
「ええ。それから、跛になった山羊。余計な請求書。そして、持ってゆくはずのない小刀」
「誰もが目にしても、誰も意味を考えぬもの」
「そういうものほど、真実に近いのです」
わたくしは深くうなずいた。たしかに、もし彰子さまでなければ、この件は橘季忠の仕業として片づいていたでしょう。組紐もあり、賭けの動機もあり、下女と番人の証言もある。それを覆したのは、たった一つの大証拠ではなく、いくつもの小さな不自然でした。
「では、この一件も、記しておくべきでしょうか」
とわたくしが問うと、彰子さまは少しだけ首をかしげられた。
「好きにしなさい」
そして続けておっしゃいました。
――ただし、人の醜さを書くなら、同じだけその哀れも書くことです。
〜出典〜
Silver blaze(白銀号事件)
作:Arthur Conan Doyle 訳:三上 於菟吉
コナンドイル青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000009/files/42929_15759.html
〜舞台背景〜
「白銀号事件」(しろがねごうじけん、はくぎんごうじけん、Silver Blaze)は、イギリスの小説家、アーサー・コナン・ドイルによる短編小説。シャーロック・ホームズシリーズの一つで、56ある短編小説のうち13番目に発表された作品である。「白銀号事件」という訳題のほか、「銀星号事件」、「名馬シルヴァー・ブレイズ」、「シルヴァー・ブレイズ号事件」などの訳題も用いられている。翻案小説まで含めると、三津木春影の呉田博士シリーズに「名馬の犯罪」というものがある(馬の名前は「銀月」)。ドイルの自叙伝によると、彼は競馬に詳しくなかったという。このため本作品の競馬に関する記述には、非現実的な点や誤りが散見される。具体的には、出走表の各馬の勝負服の記述が胴、袖、帽子と揃っておらず不完全であること、分数方式の賭け率の表記がおかしいこと、馬主とホームズの行動(馬を隠していた人物をレース主催者に知らせず勝手に不問に付した上に、馬を変装させた状態のままで出走させた)が競馬規則に違反することなどが指摘されている。こうした誤りについては、作品発表直後に手厳しい批評を受けたという。「吠えなかった犬の推理」で有名な事件。「一見すると不自然ではないことが、状況を踏まえて考えれば極めて不自然であること」にホームズは気づき、犯人を特定した。平常時に番犬が吠えずにいるのは普通のことだが、白銀号が厩舎から連れ去られた夜に犬が吠えなかったのはむしろ不自然で、馬を連れ出したのが外部侵入者ではなく厩舎内の人間であることを示している。出典:wikipedia




