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薔薇の令嬢と星を見る人 ――社交界に戻った令嬢が、使用人の天文学者を好きになるまでの話  作者: 直助


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第16話 黄昏、覆水を返さず

 夕暮れの街。


 石畳を打つ蹄の音が、

 わずかに速くなる。


(……遅くなった)


 ニールスは、

 手綱を強く引いた。


 風が、

 頬をかすめていく。


 日が落ちきる前に、

 王都を抜けなければならない。





 建物の影。


 人通りは、

 多くない。


 押し倒されたまま、

 アリアは地面に押さえつけられていた。


 息が、

 うまく吸えない。


 胸が、

 動かない。


 声が、

 出ない。


 喉に何かが詰まったように、

 空気だけが漏れる。


「……っ」


 抵抗する。


 腕を振る。


 だが、

 力が入らない。


 男の体重が、

 そのままのしかかってくる。


 石の冷たさが、

 背中に広がる。


 逃げ場はない。


(……無理、)


 一瞬、

 そう思う。


 力が抜けかける。


 ――誰か。


 なぜか、

 顔が浮かぶ。


(どうして……)


 こんな時に。


 理解できない。


 それでも――


 残っていた力を、

 無理やり引き寄せる。


 喉を、

 こじ開けるようにして、


「……だ、」


 声にならない。


 それでも、


「――誰か!」


 声が、空気に溶ける。


 届いたかどうかも、

 分からない。


 その瞬間――


「何をしているのですか!」


 声が、

 割り込んだ。


 足音。


 一直線に、

 こちらへ向かってくる。


 人影が、

 飛び込む。


 男の肩に、

 手がかかる。


 振り払われる。


 そのまま、

 拳が振り抜かれた。


 鈍い音。


 顔が、

 揺れる。


 それでも、

 離れない。


「あなたは、貴族の――」


 言い終わる前に、

 再び掴みかかる。


「こんなことは、

 許されませんよ」


 押し返す。


 ぶつかる。


 足がもつれる。


 均衡が崩れる。


 男は舌打ちを一つ。


 そのまま、

 身を引いた。


 影の中へ、

 消えていく。


 静けさが、

 戻る。


 荒い呼吸だけが、残った。


 アリアの視界に、

 一人の男が映る。


 頬に、

 赤く痕が残っている。


 乱れた呼吸。


 それでも、

 まっすぐこちらを見ている。


「……アリアさん」


 声が、

 低く落ちる。


「大丈夫ですか」


 手が伸びる。


 支えようとする。


「触らないで」


 言葉が、

 先に出た。


「使用人如きが」


 沈黙。


 自分で、

 分かる。


(……しまった)


 視線を、

 上げられない。


 ニールスは、

 一瞬だけ目を伏せる。


「……申し訳ございません」


 短く。


 それだけ。


 それ以上は、

 言わない。


「しかし、

 このままでは――」


 一歩、

 距離を保ったまま、


「大学までお送りいたします」


 静かに言う。


「……こちらへ」


 外套を外す。


 何も言わずに、

 肩へかける。


 触れないように。


 距離を保ったまま。


 ニールスは、

 馬を引き寄せる。


 足場を作る。


 手は伸ばさない。


 ただ、

 待つ。



 アリアは、

 わずかに躊躇う。


 そのまま、

 自分で足をかける。


 

 鞍に、上がる。


 布が擦れる音。


 息が、揺れる。


 アリアは、

 鞍の前に収まる。


 ニールスは、

 その後から跨る。


 

 距離は、ない。


 

 触れないようにしていたはずの身体が、

 否応なく重なる。


 

 手綱を引く。


 馬が、ゆっくりと歩き出す。



 夕暮れの風が、

 頬をかすめる。


 

 誰も、何も言わない。



 蹄の音だけが、

 規則正しく続く。


 

 アリアは、

 視線を下げたまま。

 

 ニールスは、

 何も言わない。


 

 ただ、

 一定の距離を保つように、

 身体を引いていた。


 

 それでも――


 触れている。



 空は、

 もう暗い。


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