薔薇と大星、相まみえる
控え室の空気は、
いつの間にか少しだけ変わっていた。
静かだったはずの部屋に、
かすかな緊張が混じる。
ノックの音。
「ご準備は、
お済みでしょうか」
扉の向こうから、
丁寧な声が届いた。
「ええ」
アリアが短く答える。
ほどなく、
控え室の扉が開いた。
立っていたのは、
ニールスではなかった。
見慣れない使用人が、
一礼してから言う。
「晩餐会の会場へ、
ご案内いたします」
イレーネが、
ふと首を傾ける。
「あら、
ニールスくんは?」
問いかけは、
何気ないものだった。
使用人は、
即座に答える。
「はい。
会場の準備を担当しております」
それ以上の説明はない。
「そう」
イレーネは、
それだけ言って頷いた。
アリアは、
そのやり取りを横で聞きながら、
何も言わない。
最初から、
そうなると分かっていたかのように。
案内され、
廊下を進む。
昼間とは違う、
柔らかな灯り。
遠くから、
人の声と音楽が聞こえてくる。
扉が開かれた瞬間、
空気が変わった。
晩餐会の会場は、
思ったほど堅苦しくはない。
立食形式。
円卓は少なめで、
人が自由に行き交れる配置。
楽団の演奏が流れ、
奥では簡単な社交舞踏の準備も進んでいる。
談笑する声。
グラスの触れ合う音。
学問の場とは、
明確に違う空気。
会場に入った途端、
いくつかの視線が、
自然とアリアに集まった。
昼間と同じ。
場所が変わっても、
それは変わらない。
少し離れたところで、
テオドールの姿が見える。
オサリアの関係者らしき人物と、
穏やかに言葉を交わしていた。
気づくと、
軽く目礼を返してくる。
アリアは、
それに一度だけ頷いた。
反対側では、
ノクスが、
ソルやオサリア側の教授陣と
談笑している。
肩の力は抜けているが、
立ち位置は崩していない。
場を読む人間の佇まいだ。
そして――
会場の端。
人の流れの外側で、
ニールスが動いていた。
配置の確認。
合図。
進行の調整。
誰かに声をかけられれば応じ、
必要がなくなれば、すぐに離れる。
主役にはならない。
なる必要もない。
ただ、
滞りなく進むために、
そこにいる。
アリアは、
一瞬だけ、その姿を視界に入れた。
すぐに、
目を逸らす。
晩餐会は、
始まったばかりだ。
――ここから、
それぞれの夜が動き出す。
楽団の音が、
一段、抑えられた。
会場のざわめきが、
ゆっくりと収束していく。
中央に、
一人の男が立った。
ユリウスだった。
「本日は、
オサリア王国を代表し、
皆様をお迎えできることを、
嬉しく思います」
形式ばった挨拶。
言葉は簡潔で、
長くは続かない。
学術交流会への敬意。
遠路への労い。
今夜は、肩の力を抜いて楽しんでほしい、という一言。
拍手が起こる。
大きすぎず、
小さすぎず。
ちょうどいい温度の反応。
その間、
アリアは、
もう一度だけ視線を走らせた。
(……予定通りだわ)
昼間、確認した位置。
今度は、はっきりと。
ユリウスの存在を、
確かめるように。
同時に――
ユリウスも、
わずかに視線を動かした。
意識して探したわけではない。
だが、
確かに感じた。
――見られている。
視線が合うことはない。
けれど、
そこに「認識」はあった。
挨拶が終わり、
再び会場は談笑の空気に戻る。
アリアは、
クロエの肩に軽く手を置いた。
「行きましょう」
「え?」
戸惑うクロエに、
静かに微笑む。
「オサリア側の方々に、
ご挨拶を」
そう言って、
歩き出す。
数名の貴族。
丁寧な紹介。
短い会話。
クロエは、
最初こそ緊張していたが、
アリアが一歩引いた位置に立つことで、
自然と場に残された。
「……大丈夫そうね」
耳元で、
小さく告げる。
「こういうのも、
経験よ」
クロエは、
はっとして頷いた。
アリアは、
そこで離れる。
預ける、というより、
任せる。
そのまま、
視線を巡らせる。
(……今なら)
ユリウスの位置。
周囲の人の動き。
流れ。
すぐに向かうほど、
性急ではない。
待つ。
その時――
楽団が、
新しい曲を奏で始めた。
柔らかな旋律。
自然と、
人の足が動くリズム。
社交舞踏の時間だった。
会場の空気が、
さらに一段、緩む。
ユリウスは、
その変化を、
誰よりも早く察していた。
視線を巡らせる。
そして、
見つける。
アリアの前に、
ユリウスが立つ。
距離は、
適切。
近すぎず、
遠すぎず。
「一曲、
いかがですか」
差し出された手。
命令ではない。
試すようでもない。
ただの、
申し出。
アリアは、
一瞬だけ彼を見る。
(……第二皇子)
この場で、
この距離で。
「ええ」
短く答え、
手を取った。
音楽が流れる。
二人は、
人の輪の中へと進んでいく。
その背中を、
何人もの視線が追っていた。
けれど、
本人たちは、
気に留めていない。
今は、
一曲分の時間だけ。
互いの距離を、
確かめるために。
——夜は、
まだ、始まったばかりだった。




