第11話 目の前、千里
馬車が止まり、扉が開いた。
先に降りた侍女に続き、
アリアが地面に足を下ろす。
その瞬間、
迎えに出ていた男が、
一歩前に出た。
ニールスだった。
「ようこそ、オサリアへ」
声は落ち着いている。
表情も、崩れていない。
ただ――
ほんの一瞬だけ、
視線が交わった。
確かに、合った。
そう感じただけで、
言葉はなかった。
「こちらへどうぞ」
それ以上の間を与えず、
ニールスは踵を返す。
案内役としての歩幅。
業務としての距離。
アリアは、
何も言わずにその後に続いた。
廊下を進む間、
会話はない。
石床に響く足音だけが、
一定のリズムで続く。
ニールスは、
前を向いたまま歩きながら、
胸の奥にわずかな引っかかりを覚えていた。
――気まずさ。
理由は分かっている。
だからこそ、
振り返らない。
仕事だ。
今日は、それだけだ。
扉の前で足を止め、
振り向く。
「こちらが、控え室です」
淡々と告げて、
扉を開く。
アリアは、
一礼だけして中へ入った。
言葉は、交わされなかった。
そのまま、控え室に通された。
テーブルの上に、
資料が広げられた。
アリアは、
迷いなくそれを確認していく。
ニールスは、
説明を続けながら、
視線を落とす。
――ペン先。
削られ、
丸くなったままのそれ。
交換もできただろう。
新しいものも、用意できたはずだ。
それでも、
使い切るまで使う。
彼は、
何も言わなかった。
案内を続ける。
だが、
その小さな事実だけは、
はっきりと記憶に残った。
時間を告げる合図が入り、
人の流れが、ゆっくりと動き始めた。
「こちらへ」
ニールスが、先に立つ。
控え室を出て、長い廊下を進む。
足音が重なり、やがて大講堂の扉が見えてくる。
天井の高い空間。
石造りの壁。
すでに多くの人が集まり、低いざわめきが満ちていた。
ニールスは、振り返らずに言う。
「席はこちらです」
簡潔な案内。
アリア、イレーネ、クロエは、
それぞれ指示された位置へ向かう。
役割に応じた距離。
自然に決まっている配置。
全員が持ち場に着くと、
ざわめきが、次第に収束していった。
やがて――
前方の演台に、人影が立つ。
トキアス王立大学の学長だった。
形式的な挨拶。
学術交流の意義。
両国の長年の関係。
言葉は淡々としている。
続いて、
オサリア側の代表が紹介される。
「本日は、
王家を代表して、
第二皇子殿下にもご臨席いただいております」
軽いどよめき。
ユリウスは立ち上がらず、
席に座ったまま、軽く会釈した。
アリアは、
その位置を確かめるように、
一瞬だけ視線を走らせた。
(……本物だわ)
それ以上、考えない。
ニールスは、
すでに講堂の端へ下がっていた。
進行の確認。
資料の受け渡し。
合図。
裏方として、
静かに動いている。
アリアは、
一瞬だけ、その姿を視界の端で捉えた。
すぐに、
視線を前へ戻す。
講義は、
淡々と進んだ。
イレーネは、
落ち着いた口調で理論を示す。
無駄がない。
説明は簡潔で、
聴衆の理解を確実に拾っていく。
続いて、アリア。
姿勢を崩さず、
淡々と資料を示しながら話す。
感情は見せない。
けれど、
言葉の選び方に、迷いがない。
聴衆の反応を、
正確に捉えている。
クロエは、
少し緊張した様子だった。
資料を手渡す指先に、
わずかな硬さがある。
それでも、
視線は逸らさず、
最後まで役目を果たした。
一つ、深く息を吐く。
それだけで、
十分だった。
やがて、
最後の講義が終わる。
拍手は控えめだが、
確かなものだった。
学術交流会は、
無事に幕を閉じた。
再び、
控え室へ戻る。
ニールスが、
先に立って扉を開けた。
「お疲れ様でした」
業務的な声。
イレーネは、
立ち止まり、
一言だけかける。
「いい進行だったわ」
ニールスは、
小さく頷く。
「ありがとうございます」
クロエは、
軽く会釈した。
言葉はない。
けれど、
目には安堵があった。
アリアは――
一度も、
ニールスを見なかった。
視線を落としたまま、
控え室の中へ入っていく。
背筋は伸びている。
歩き方も、いつも通り。
ただ、
そこにある距離だけが、
はっきりしていた。
ニールスは、
その背中を追わなかった。
扉を閉め、
静かに一歩、下がる。
役目は、
終わっている。
大講堂のざわめきは、
すでに遠い。
残ったのは、
言葉にならなかったものだけだった。




