薔薇はどこにでも咲く
学術交流会、
出発の前日。
机の上には、すでに整えられた資料が並んでいた。
年号順、分野別。
付箋も整理され、確認の跡だけが残っている。
アリアは、それを一度見ただけで言った。
「準備は、大丈夫?」
「はい」
クロエは、迷いなく頷く。
「学術交流会の資料は、
最終確認まで終えています。
念のため、写しも用意しました」
「……違うわ」
アリアが間髪入れずに言う。
クロエが、きょとんとする。
「え?」
アリアは、視線を上げずに言った。
「私が聞いているのは、
晩餐会の準備よ」
一拍。
「あ……」
クロエは、少し間を置いて声を漏らす。
「ドレスは?」
「ええと……
一応、持ってはいますが……」
歯切れが悪い。
アリアは、その反応だけで察した。
「いいのを持っていないなら、
私が貸してあげるわ」
「いいんですか?」
「当然でしょう」
即答だった。
クロエは、思わず苦笑する。
「やっぱり、アリアさんですね」
「何が?」
「学術交流会のことは、
全然聞かれないので」
アリアは、わずかに肩をすくめた。
「そこは、心配していないもの」
事実を述べるだけの口調。
「あなたは、
ちゃんとやるわ」
クロエは、その一言に、
小さく背筋を伸ばした。
信頼されているのが、
はっきり分かる。
アリアは、再び書類へ視線を戻す。
「だから」
淡々と続ける。
「明日は、
余計なところで困らないようにしなさい」
クロエは、深く頷いた。
「はい」
その返事を聞いて、
アリアは何も言わなかった。
必要なことは、
すでに伝えた。
一方、オサリア王城。
廊下の空気は、いつもより慌ただしい。
人の行き来。
指示の声。
紙の擦れる音。
その中心で、ニールスは立っていた。
「交流会の席順は、
この配置で問題ありません」
「晩餐会の進行表、
最終版です」
「教授陣の到着時刻は、
すでに確認済みです」
次々に飛んでくる声。
次々に返す答え。
迷いはない。
「……あいかわらずだな」
横から、声がした。
ユリウスだった。
腕を組み、
どこか面白そうに眺めている。
「明日が楽しみで仕方ない、
って顔をしてないね」
「そんな余裕はありません」
ニールスは、
書類から目を離さず答える。
「そう言うと思った」
ユリウスは、笑みを浮かべた。
「でもさ」
少しだけ声を落とす。
「今回は、悪くないと思わないか?」
ニールスの手が、
ほんの一瞬だけ止まる。
「……何が、ですか」
「全部だよ」
意味ありげな言い方。
ニールスは、
ユリウスを一度だけ見た。
「それは、
殿下の感想でしょう」
「冷たいな」
ユリウスは肩をすくめる。
「ま、いいけど」
その間にも、
別の使用人が声をかけてくる。
「ニールス、
晩餐会の控室ですが――」
「後で確認します」
即答。
ユリウスは、その様子を眺めながら、
小さく息を吐いた。
(……本当に、相手にしてもらえない)
ニールスは、
もうユリウスを見ていなかった。
確認事項。
段取り。
抜けがないか。
それだけに集中している。
明日は、ただの一日ではない。
だからこそ、失敗は許されない。
それでも――
ユリウスの、
あの妙な笑みだけが、
どこか引っかかっていた。
学術交流会当日。
馬車は、一定の揺れを刻みながら進んでいた。
車内は広くはないが、
四人が向かい合って座るには十分な空間だ。
窓の外には、
ゆっくりと流れる街道と、
次第に変わっていく景色。
クロエは、
膝の上で指を組み、
小さく息を吐いた。
「……なんだか、
緊張してきました」
ぽつりと漏れた声。
アリアは、
窓から視線を外さずに答える。
「まあ、
晩餐会では第二皇子と
交流できるかもしれないものね」
クロエは、
一瞬きょとんとしてから、
首を振った。
「いえ、そうじゃなくて……」
少し言い淀んでから、
正直に続ける。
「学術交流会、ですよね」
アリアは、
ようやくそちらを見た。
「そっち?」
少し意外そうな声。
「イレーネ先生もいらっしゃるし、
大丈夫よ」
隣に座るイレーネは、
何も言わない。
ただ、
会話を遮らずに聞いている。
クロエは、
苦笑いを浮かべた。
「まあ……確かに、
私が重要な役割を担っているわけでは
ありませんけど……」
その言葉に、
イレーネがようやく口を開いた。
「そういう立場でいる時の方が、
案外、よく見えるものよ」
声は穏やかだった。
「気楽にしなさい。
良い経験になるわ」
それだけ言って、
再び黙る。
クロエは、
少し背筋を伸ばした。
「……はい」
やがて、
馬車は速度を落とす。
窓の外に、
オサリア王立大学の建物が見えてきた。
重厚な石造り。
広い中庭。
人の動き。
馬車が止まり、
扉が開く。
先に降りた侍女に続き、
アリアが外へ出た。
その瞬間、
周囲の視線が、
自然と集まる。
ただ立っているだけで、
空気が変わる。
オサリアの地でも、
それは同じだった。
クロエは、
一歩遅れて降りながら、
その背中を見つめる。
(……やっぱり)
場に立つ人は、
最初から違う。
そう思いながら、
自分もまた、
その場に足を踏み出した。




