【G・W企画 笑って泣いて7日連続投稿】 第1章 慧vs魔導師(パクダ・ カッチャーヤナ)-マドラ国シャーカラ-
マドラ国シャーカラに近い田園地帯。
慧は、北方大街道の宿駅であるシャーカラまで、3yojanaというところに来ていた。
Asiknī 川(現在のチェナーブ川・Chenab River)の渡し場で、3日間の足止めを食った。
南の海から上がってくる南西の巨大な偏西風は、ヒマラヤの山肌にあたり増幅する。そして雨雲となり、ガンジス平原に大量の水を与える豪雨となる。
雨季が遠くないことを知らせるかのような、温かい雨がカンボージャ北東領域に降り注ぎ、雪解けを促したのである。
―カカカラ~ カカカラララ~―
朝靄の立ち込めた北方大街道の両脇には蓮華の花が咲いていて、日の出間近の蒼い光を受けて怪しく揺れていた。
街が近くなったせいだろうか、足早に道を行き来する牛車が多くなり、人通りも増えてきた。
慧は、小さな小川を渡った。
小川を越えたところに古い祠がある。その祠を左手に慧は見ながら通り過ぎようとした、ちょうどその時。
その背後の草むらから人が出てきた。
パクダ・カッチャーヤナ:
“āvuso, sukhī hohi.”
慧:
“āvuso, handa, svāgataṃ.”
パクダ・カッチャーヤナ:
“āvuso, kuhiṃ nu gamasi?”
慧:
“Magadhe Rājagahaṃ gamāmi.”
パクダ・カッチャーヤナ:
“sādhu, āvuso, sādhu, sādhu.”
“kimatthaṃ pana?”
慧:
“paribbajissāmi, āvuso — sayaññeva caraṇaṃ.”
パクダ・ カッチャーヤナ は、慧の発した
”āvuso”
という言葉を聞き逃さなかかった。
道で、バラモン、沙門、比丘、修行者などが遭遇して、挨拶をする場合、相手に対して敬意を払うのが基本。
従って、この場合、年長であるパクダ・ カッチャーヤナ に対しては、
”Bhante”
と呼びかけるのが自然。
パクダ・カッチャーヤナ:
“ho-ho, sikkhāya tiṭṭhasi? tvaṃ vā?”
(カッチン~だな、このオッサン)
慧:
“tena hi vadāmi—tvaṃ pana kiṃ karosi idāni?”
Pakudha:
sattime, mahārāja,
kāyā akaṭā akaṭavidhā animmitā animmātā vañjhā kūṭaṭṭhā esikaṭṭhāyiṭṭhitā.
te na iñjanti, na vipariṇamanti, na aññamaññaṃ byābādhenti, nālaṃ aññamaññassa sukhāya vā dukkhāya vā sukhadukkhāya vā.
katame satta?
pathavikāyo, āpokāyo, tejokāyo, vāyokāyo, sukhe, dukkhe, jīve sattame
me satta kāyā akaṭā akaṭavidhā animmitā animmātā vañjhā kūṭaṭṭhā esikaṭṭhāyiṭṭhitā. te na iñjanti, na vipariṇamanti,kāyā akaṭā akaṭavidhā animmitā animmātā vañjhā kūṭaṭṭhā esikaṭṭhāyiṭṭhitā.
te na iñjan|ti, na vipariṇamanti, na aññamaññaṃ byābādhenti, nālaṃ aññamaññassa sukhāya vā dukkhāya vā sukhadukkhāya vā.
tattha natthi hantā vā ghātetā vā, sotā vā sāvetā vā, viññātā vā viññāp etāvā. yopi tiṇhena satthena sīsaṃ chindati, na koci kiñci jīvitā voropeti; sattannaṃ tveva kāyāna mantarena satthaṃ vivaramanupatatī’.
Asi satta-dhātūnaṃ antaraṃ yeva gacchati.
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【ご留意】
これより先、慧とパクダ・ カッチャーヤナによる、コメディ感覚の舌戦が始まります。
物語の本流には影響しませんので、娯楽性・エンタメを嫌う方は読み飛ばしていただいて構いません。
二人の会話には、日本国固有、もしくは地域限定の微妙な意味を含むものや、国際基準を満たさない日本人特有の表記を伴うため、今回に限り、暫定措置として、パーリ語翻訳を一時停止させていただきます。
尚、会話文の中で、いくつかのトラップを仕掛けさせていただいております。
個人差がございますが、その人その人のもつ”ツボ”に入ると、電車やバスなどの公共機関の中でお読みのユーザー様におかれましては、いわゆるインシデントとなる場合もございます。
あらかじめ、ご嘲笑下さい。
真沙羅院がらむ
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❖❖❖❖❖(始まり)❖❖❖❖❖
「バンテ!七つ、七つってこだわるとこ見ると...
アンタもしかして!!」
「あっ!! わかったー!」
「宇宙戦◯◯◯レンジャー ”トリ◯クスター” テ◯ビンゴールドバランスだろ? そうだろ? えっ、えっ?」
「はぁ?何を言ってるのかね汝は?」
「わしは、 殺す者も、殺される者も存在しない。人が人を殺すように見えても、剣が七要素の間を通過しただけ、善悪はないと申しておる。」
「ほらっ!やっぱりそうですね。ヨオッ!口八丁手八丁でピンチを切り抜ける世渡り上手!」
「・・・・?」
「ちょっとリプレイしてもらってもいいすか? 例の口癖」
「『さんきゅーでーす!』とか、『しくよろ!』、『ごいすー!』とか、言ってくださいよぉ、バンテェ~♡」
「なにを言ってるのかは掴めんが、もう一度教えよう。七つの要素とは、
地(paṭhavī)
水(āpo)
火(tejo)
風(vāyo)
楽(sukha)
苦(dukkha)
命(jīva)
この7つは、作られたものではない。」
「変化しない」
「相互に影響しない」
「切断もしないし、破壊もせん。」
「これこそが、真理だ」
「ははー!バンテ!」
「間違いございません!
まさしく、まんまやんけぇ~でございます。」
「その、魔術師が逆チートするような表現!そして、奥歯に物が挟まったようなインテリっぽい話し方!
相手の神経をビンビンに逆撫でしてくれちゃうやりくち、
俺好きっす!」
「まさしく!まぁさしくぅー、どんぴんしゃんトッピンシャンのチャンリンシャンでは、あーりま温泉♨」
♫あ、すいすいすーだらっらった、すらすらすぃすぃすぃーっと♪
慧は、小躍りしながら喜んではしゃぎまわっている。
「・・・・汝よ、ホントーに大丈夫か?
親御殿は、さぞやご心配のことだろうよのぉ」
「わしは、断じて、九レンジャーでもなければ、五レンジャーでもない」
「へっ?・・・・」
ꉂꉂ(థꈊథ)੭ु⁾⁾ ギャッ ハハ~ハハ~!
(ノ∇≦、)ノ彡 ブぁっはっはっっはッッッはッッッはっは~!「」
(↑吹き出しすぎてカッコから飛び出ている)
「ぶぁ、ぶぁ、ぶぁんてぇ~ っへっへ。だめだ・・・、もう・・・やめて・・・お願い・・・ブぁっはっはっっはッ」
「おい、汝よ、いい加減にせんか」
「だってアンタ・・・、いえ、・・・バンテェ・・腹が・・痛くて・・・・はっはっっはッ、だめだっ・・これ以上・・・・笑わせないで・・・
タヒんでしまうま」
「だって、・・”五レンジャー”ってバンテ・・・
俺、言ってないもん
・・ぶぁはっはっっはッ~」
「えっ!そうだっけ?」
「そだね~」
〔↑カーリングか?↓〕
「まっ、いいんでないかい」
「バンテ、あんたどこの生まれよぉ?
・・・・ぶああっはっっはっっはっっはっは~」
「バンテ、・・・だめだコリャ・・もう笑いのライフがつきてしまう・・・普段の五万回分ぐらい笑ってる・・ヒッヒッ・ふー・ヒッヒッ・ふー ヒヒッヒッッヒイッヒ」
「バンテ、それじゃ、・・・伺いますけど、バンテの言ってる要素が地、水・火・と来ているということは...やがてそれは、一週間になるわけですね」
「汝は、なにをとんちんかんなことを言っているのかね?
自分が何を言っているのか、ちゃんとわかっているか?
汝は、あんぽんたんなのか、それともオッペケペーなのか?
どうなんだ、このスットコドッコイ」
「でぇすぅかぁらぁ~。ビビビッーですよ!」
「なんだ、そのビビビッってのは?びびびのネズミ男かね?」
「へっ? アンタ、また、
やらかしちゃった?・・・・」
ギャッ ハハ~ハハ~!
「ヒッヒッ・ふー・ヒッヒッ・ふー ヒヒッヒッッヒイッヒ・・バンテ、レート高すぎシンサク・俺もうライフ終わる・・・・ほまに笑いすぎて、ぜってぇピエン超えてパオン・・・
・・・ヤベッ!
もうたぶん、明日起きれない・・」
〔↑そんな理由が、どこの世界にあるのだ?〕
「ヒヒッヒッッヒイッヒ~、それじゃヒヒッヒッッ、バンテ、〆行きますよ」
「うむ、望むところじゃ」
「バンテ、あんた、結局のところ、ヤマトタケシでしょ?」
「なにっ?」
少し後退りしたパクダ・カッチャーヤナの足の下に、大きな牛の糞が落ちていた。
はだしの踵がそれをしっかり踏みつけた。
―むぎゅぅ―
ぬらりとした感触に眉が跳ねあがり、その次の瞬間、藁の発酵した牛糞の匂いが、
むわっと立ち上ってきた。
―ぷーん―
パクダカッチャーヤナの顔がゆっくりとゆがみ、だらしなく笑ったような表情に変わった。
そんなことには気づかない、ノリノリの慧が言い放った。
「レインボ◯マンのヤマトタケシ!1972年実写版のぉ!」
「...?...というのは何者?」
「バンテの前世は......あれっ?、ちがうな逆だった」
「バンテの来世は、レインボ◯マン、ヤマトタケシだ!
これで間違いない。はい、これに決定!」
「どうせだからさぁ、いってくださいよぉ~、変身の呪文、例の、ほらっアレッ!
"アノクタラ サンミャクサンボダイ
アノクタラ サンミャクサンボダイ
アノクタラ サンミャクサンボダイ
ダーッシュ・ワン!!"
ってぇ!」
「先程から、黙って聞いていれば、好き勝手なことばかり言っておるが、
汝は、一度、医術師か霊媒師のところへ行って診てもらったほうが良いだろう。
なにか悪いものが憑いているらしい」
「吉祥を念じておる。では、これにて」
パクダ・カッチャーヤナはそう言い残すと、慧に背中を向け、足早に遠ざかっていった。
❖❖❖❖❖(ここまで)❖❖❖❖❖
慧も歩き始める、するとナヤカが言った。
(汝よ、相手の如何によらず、意・身・口の自制)
(この世界に来てから...
ずっと休みなく毎日毎日、夜が明ける前に起こされ、起きたと思ったらすぐに歩きそれも半日以上歩いて...
食べるものといえば薄くて酸っぱい粥、塩で煮た味気ない豆ばかり...
そいでもって、何を訳分からん事いってんだかわからん思想家オタクを相手にディベートなんて...
ああでもしてなきゃ、やりきれんすわ。
ショージキ
限界だったんす...もう。
正気で居ろ?
マジ無理ですって。
そもそも、俺、この世界で修行してたわけじゃないし、そうしたくて来たわけでもないのに)
[BGM]
"川の流れを抱いて眠りたい"
(汝は、
ここに居るは偶然、門違えし事と?)
(それしかないでしょう)
(否、Niyati(宿命)なり)
(ほら、やっぱり。
そうやって唯我独尊、手前味噌の思想やら教義だとかで丸めようとする。
だから、俺そういう押し付けがましい宗教なんて絶対に受け付けないし、
何を信じるんだかわからん、ふわふわした信仰にも興味持てないんだ)
(されば聞くが、以前、如何に?)
(何って......そうだなぁ、外国を歩いて、観たり食べたりして、自分って何なのかを考えてた。最近は、食べるほうが多かったけど)
(故、その果にて今の自分があるのではないのか?)
(!)
(自らが望む事、それは自らが選択する宿命)
(自らが望まぬ事、それも自らが選択する宿命)
(自らが望むと望まざるになき事すら、自らが選択した宿命)
(宿命の果報、自らが心地好い未来、自らを苦しみに導く未来は、いずれ訪れる)
(自らの宿命に逆らってはならん)
(如何あれ傍観のみ)
(譬うに、河岸に立つ樫の木、流れる川面ただ是傍観するが如し)
(汝、内界に執着せず外界を手放して生きるのみ)
【脚注】
◯yojana
古代インドの距離単位。
Ashokaの碑文(Major Rock Edict XIII)に用例あり。
換算値には諸説(約7–15km)。
本作では地理座標に基づく実距離計算を基準とし、
便宜上 1ヨジャナ=8km相当 として表現する。
◯Kamboja北東領域
カンボージャは国そのものよりも、カンボージャ族の勢力範囲を指す。
ガンダーラの西方を広く席巻し、ガンダーラ及びマドラ国の北部であるヒマラヤ山岳地帯を抜けて、現在のジャンムー・カシミール地方にまで広がった。
◯マドラ国シャーカラ
現在パキスタンのパンジャーブ州シアルコート市
◯Pakudha Kaccāyana パクダ・カッチャーヤナ
DN02 Sāmaññaphalasuttaṃ
長部経典02 沙門果経より
聞き手:ブッダ
話し手:アジャータサットゥ王
「別のとき、私はパクダ カッカヤナに近づき、到着すると丁重に挨拶を交わしました。友好的な挨拶と礼儀を交わした後、私は脇に座りました。座りながら、私は彼に尋ねました。
『カッチャーヤナ尊者、普通の職人がいます。…彼らは、今ここで目に見える職人技の成果で暮らしています。…尊者よ、今ここで目に見える瞑想生活の同様の成果を指摘することは可能ですか?』
こう言われると、パクダ カッチャーヤナは私に言ったのです。
『偉大なる王よ、この七つの物質があります。作られず、還元できず、創造されず、創造主もなく、不毛で、山の頂のように安定し、柱のようにしっかりと立っています。これらは変化せず、流転せず、互いに干渉せず、互いに快楽、苦痛、またはその両方を引き起こすことができません。
どのような七つか?
土の物質、液体の物質、火の物質、風の物質、快楽、苦痛、そして七番目としての魂です。これらが、作られず、還元できず、創造されず、創造主もなく、不毛で、山の頂のように安定し、柱のようにしっかりと立っている七つの物質です。これらは変化せず、流転せず、互いに干渉せず、互いに快楽、苦痛、またはその両方を引き起こすことができません。
そして彼らの中には、殺す者も殺させる者もなく、聞く者も聞く者もなく、認識する者も認識する者もない。誰かが(他人の)首を切るとき、誰かの命を奪う者はいない。剣が通過するのは、単に七つの物質の間だけである。』
このように、今ここで目に見える瞑想生活の果実について尋ねられたとき、パクダ・カッチャーヤナは無関係に答えました。
ちょうど、マンゴーについて尋ねられたときにジャックフルーツと答えるのと同じです。または、ジャックフルーツについて尋ねられたときにマンゴーと答えるのと同じです。
このように、今ここで目に見える瞑想生活の果実について尋ねられたとき、パクダ・カッチャーヤナは無関係に答えました。
私は考えました。
「私のような者が、彼の領域に住む瞑想者やバラモンを軽蔑することを考えることができるだろうか?」
私はパクダ・カッチャーヤナの言葉に喜ぶことも、抗議することもありませんでした。喜ぶことも抗議することもありませんでしたが、私は不満でした。しかし、私は不満を表明することなく、彼の教えを受け入れることなく、それを採用することなく、私は席から立ち上がって去りました。」
◯口業・vaca kamma
原始仏教においては、言葉のアクティビティに関しての戒律がある。
DN02 Sāmaññaphalasuttaṃ>Cula sila
長部経典02 沙門果経・小戒より
偽りの言葉を捨てる。
真実を語り、堅実で信頼でき、世間を欺かない。
二枚舌を捨てる。
こちらで聞いたことをあちらで話して分裂をさせたり、
あちらで聞いたことをこちらで話して仲を引き裂いてはいけない。
粗く低俗、虐待的な言葉を捨てる。
耳に優しく、愛情深く、心に響き、礼儀正しい言葉を使う。
魅力があり、世間の人々を喜ばせる話しをする。
無駄な話しを捨てる。
綺語(真実をぼやけさせるために早口で別の話しをする)、無意味な話をしない。
季節に合った話し、事実、法、戒に沿ったこと、価値あることを話す。
◯内界と外界
Saḷāyatana-vibhaṅga Sutta (MN 137)
ブッダによる説示。
『「六つの内的感覚野を理解するべきだ」と私は説きました。
では、なぜそう示したのでしょうか?
感覚野には、眼、耳、鼻、舌、身、意があります。
このことから、「六つの内的感覚野を理解するべきだ」と私は説きました。
「六つの外的感覚野を理解するべきだ」と私は説きました。
では、なぜそう示したのでしょうか?
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、知覚という感覚野があるからです。
このことから「六つの外的感覚野を理解するべきだ」と私は説きました。
「六つの意識を理解するべきだ」と私は説きました。
では、なぜそう示したのでしょうか?
意識には、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識があります。
このことから「六つの意識を理解するべきだ」と私は説きました。
「六つの接触の種類を理解するべきだ」と私は説きました。
では、なぜそう示したのでしょうか?
接触には、目、耳、鼻、舌、体、そして心があります。
このことから「六つの接触の種類を理解するべきだ」と私は説きました。
では、家庭内の幸福にはどのような六つの種類があるのでしょうか?
目で見る光景には、好ましく、望ましく、心地よく、喜ばしく、肉体の世俗的な快楽に結びついています。幸福は、そのような光景を得ることが利益であると考えるとき、あるいは以前得たが過ぎ去り、消え去り、消滅した光景を思い出すときに生じます。
このような幸福を家庭内の幸福といいます。
耳で知る音、鼻で知る匂い、舌で知る味、体で知る感触、心で知る観念には、好ましく、望ましく、心地よく、肉体の世俗的な快楽に結びついています。
幸福は、そのような観念を得ることが利益であると考えるとき、あるいは以前得たが過ぎ去り、消え去り、消滅した観念を思い出すときに生じます。
このような幸福を家庭内の幸福といいます。
これらが家庭内の幸福の六つの種類です。
では、六つの出家(沙門)の幸福とは何でしょうか?
それは、物事の無常性、すなわち滅びること、消えること、消滅することを理解し、正しい智慧によって、それらすべての光景が今もなお無常で、苦しみ、消滅するものであることを真に理解したときに幸福が生じます。
このような幸福を出家の幸福といいます。
光景、音、匂い、味、触感、想起、
これらの無常性、すなわち滅びること、消えること、消滅することを理解し、正しい智慧によって、それらすべての考えが今もなお無常で、苦しみ、消滅するものであることを真に理解したときに幸福が生じます。
このような幸福を出家の幸福といいます。
これらが六つの出家の幸福です。』
《Saḷāyatana-vibhaṅga Sutta(MN137)》




