第1章-SP ワジラの一日 ーガンダーラ国クムダ村ー
ガンダーラ国クムダ村。
Phagguṇamāsa(2-3月)、満月まであと三日。
年に一度のバラモン大礼祭が行われている村で、旅芸人一座は五日間の興行中だった。
舞台が始まるのは、日が沈み涼しくなってから。
一座は軽い朝食を食べてしまうと、もうやることがなかった。
寝るか、祭礼に合わせてやってくる大道商人の露店を見て歩くぐらいでしか、時間を潰せない
ワジラも皆と同様、やることがないので、ずらりと並んだ露店の前をぶらついていた。
飲み物や菓子、古着、他国の乾物などを並べる店の前には、人が二、三人はいたが、生活に直接必要ではない雑貨や金物、装身具などは、あまり人気がない。
もっとも、この祭礼はまだ二日目だから、最終日の一番盛り上がる日を待って買いに来る人もいるのだろう。
最終日には、たたき売りをする店が結構あるからだ。
強い風がさっと吹き、濃い紫で染めた無地の腰巻きの裾をハラリとめくっていった。
麻で、ゆったりした小麦色の八分袖を着たワジラの胸元には、うっすら汗がにじんでいるのか、陽の光が鈍く照りかえしていた。
-チュン! ッジャァ~-
小麦の少し焦げる香り、甘い匂いを漂わせる揚げ菓子屋が右手にあった。
―ジュクジュジュク プッ プッ―
熱くなった油の中には、いくつも丸い生地が浮かんでいて盛んに大小の泡を出しながら、みるみるうちにこんがりと焼けた小麦色に染まってゆく。
見るからに美味しそうだな、とは思いながらも、さっき食べたばかりのお腹には、買いたくなるほどの衝動はなかった。
その店の横には、装身具を売る店があり、そこでワジラは足を止めた。
ほかに客はなく、店主は台の向こうで座ったまま居眠りをしていた。
品物を並べている、腰の高さほどある台の上には黒いガンダーラ羅紗が敷いてあり、安い装身具も高級に見える。
ワジラは並ぶ品々の中、淡水真珠の連なりに翡翠の玉を四つ散らした腕輪に、目がピタッと止まり、
(あ、ナガ♡)
気持ちがふわっと飛んだ。
Ayyā!
ワジラが呼んでも店主は起きない。
āgato gāhako!
寝ぼけた返事を返しながら、店主がムックリと起き上がった。
Idaṃ kittakaṃ?
ワジラはその腕輪を指さして尋ねた。
E, taṃ? taṃ paṇṇarasa māsakā.
Ati-mahaggaṃ! satta māsakehi gaṇhāmi.
Na sakkā, na sakkā, na sakkā, na sakkā, na sakkā!
Tena hi nava māsakā.
「九」と聞いた瞬間、店主の目から眠気が剥がれた。店主はニヤリと卑屈な笑みをこぼしつつ、
Evaṃ na vikkiyissati.
Evaṃ ce, evaṃ.
ワジラは、クルッと回れ右、店主を背にして歩き出した。
三歩、歩いたところで店主が声を掛けた。
Dvādasa māsakehi hotu.
一瞬、ワジラの左足の踵が浮いたところで止まった。が、すぐに歩きだした。
Dasa māsakā!
ワジラの足は止まらない。
Sādhu, nava māsakā!
周囲の露天の店主たち、周囲にいたお客が一斉にワジラの方を向いた。
ワジラはクルッと反転し、スッと戻ってくると、ニコッと微笑みながら腕輪の横に九マーシャカを置いた。
そして、腕輪を陽にかざしてみて、
(ナガ......)
と心のなかでつぶやき、それを左手首にはめた。
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日が西に傾きだした。
ヴェーダ寺院内の講堂。その興行舞台の裏では、遅い昼食を食べてひと眠りしたワジラが、舞台衣装の準備に取り掛かっていた。
衣装をつけるには結構苦労する。
だから、いつも飯炊きの年増女マリカに手伝ってもらう。
Aham-pi daharā kāle vattha-alaṅkāraṃ nivāsetuṃ tayā mātuyā sahāyitā.
Tadāyeva seṭṭhaṃ ahosi.
ワジラは、いつもの話がまた始まったと思いながら聞き流していた。しかし、この茶番にも、お約束の合いの手がいるのだ。
Hūṃ… Marikā kasmā na gāyati?___________
Jānāmi nu kho? ko jānāti.
こうして決まり切った昔話をしながら、マリカはワジラの緊張をほぐしていた。
着付けが終わったマリカは奥の方から、緑青の浮いた円盤状の香炉と小さな壺を持ってきた。
ワジラに香炉を持たせ 、壺の蓋を開けて乳香を一粒取り出した。
そして、香炉の蓋を開き、その中に置いた。
しばらくすると、ランプの灯りの中に白い煙が立ち上り、ドファールから交易でもたらされた乳香の香りが広がった。
はじめは柑橘類を思わせるような、新鮮で爽やかな香りがするが、後からその爽快さが消え、気持ちが落ち着く不思議な香りだった。
Āhā, passambhāmi.
辺りはすっかり暗くなり、わずかに風が吹いて暑さが和らいできた。
座長のスラナディが舞台裏に来た。
Vajirā, idāni raṅga-pariyante gaccha.
ワジラは舞台袖に入り、出番を待った。
Gāyituṃ icchāmi, gāyituṃ icchāmi, gāyituṃ icchāmi… ahaṃ gāyituṃ icchāmi…
Āhā, chambhāmi! avasānaṃ yāva ṭhātuṃ mama ati-appiyaṃ—sabba-seṭṭhaṃ appiyaṃ!
慣れた舞台でも、出ていく前には緊張するワジラだった。
Gāyituṃ icchāmi, gāyituṃ icchāmi, gāyituṃ icchāmi…
やがて、会場の歓声と拍手が鳴り響くと同時に、美女三姉妹が明かりのない舞台袖に戻ってきた。
Vajirā! tava vārā idāni!
と、長女のカリヤがワジラの尻をポンと叩いた。
(キタ~!)
-シャリリーン-
ワジラの腕輪が鳴った。
両脇の下に、じっとりと汗が滲み出すのを感じながら、
-タ・カ・タッ-
-シャシャシャリーン-
ワジラは、深紅の布地に金のガルーダをあしらった腰巻きの裾をたくし上げ、右・左・右と軽いステップを踏む。その勢いに任せて、拍手と歓声がまだ鳴り止まない、篝火の照らす明るい舞台へ出ていった。
舞台の中央に立ち、笑顔で客席をぐるりと見渡した。
さっと両手を上げ頭の上で手首を交差し、顔を右斜め下へ向けると、憂いのある表情を作った。
BGM:
Eshal (I Shall Ask) - Ofra Haza
伴奏の弦楽、そのあとから打楽器が追いかけてくると、顔を上げながら眼を大きく開け、明るい表情に変貌した。
しかし――やがて訪れる忌まわしい夜のあと、舞台のために作ったはずのその翳りが、笑顔の底に残り続けることを、ワジラはまだ知らなかった。




