泡
丘の斜面を下るようにして、男と存在は訓練場へと歩いていく。
草地の上には大小さまざまな魔法陣が描かれ、あちこちで子供たちが好き勝手に魔法を放っていた。
火花を飛ばす者、風を暴走させる者、水を丸めて遊ぶ者。
整然とした授業というより、魔法そのものと戯れているような光景だった。
「……本当に、遊んでるのね」
存在がぽつりと呟く。すると男は、どこか懐かしそうに目を細めた。
「最初の魔法って、たぶんこれでいいんだと思う」
上手く使うためじゃない。誰かに勝つためでもない。ただ、“出来た”が楽しい。そんな感覚の延長に、学びがある。
そのときだった。
「あっ!!」
遠くで声が上がる。弟だった。こちらに気づいた瞬間、ぱっと表情を輝かせ、大きく手を振る。
「おーい!! 来たんだな!!」
さらにそのまま振り返り、周囲の子供たちへ叫んだ。
「せんせぇ来たぞー!!」
その瞬間。ざわっ、と空気が動いた。子供たちが一斉にこちらを向く。
そして――次の瞬間には、雪崩のように駆け寄ってきた。
「うわっ」
男が思わず苦笑する。弟は先頭で駆け寄りながら、嬉しそうに声を張った。
「遅かったじゃん!」
「ごめんごめん。午後からって約束だったろ」
「まぁな! みんな好き勝手に魔法で遊んでたから問題ないけど!」
そう言って笑う弟の横を、子供たちが次々とすり抜けていく。
向かう先は――存在だった。
「わっ、ほんとに綺麗!」
「白いー!」
「髪さらさら!」
「え、若いのに奥さんなの!?」
「どうやって結婚したの!?」
「魔法使えるの!? 強い!?」
「どんなご飯食べるの!?」
「ねえねえねえ!」
質問が、洪水のように飛んでくる。しかも内容に脈絡がない。容姿の話をしていたと思えば、急に結婚の話になり、次には食事の話へ飛ぶ。
存在は完全に囲まれていた。
「……え? えっと……」
普段なら、静かに相手を見据え、言葉を選び、淡々と返す彼女が。
「……待って」
今は明らかに困っていた。
視線が小さく揺れる。どこから返せばいいのかわからない。そもそも、この距離感が理解できない。
「近いわ」
「え?」
「近い」
「近いって何が?」
「全部よ」
真顔で返す存在。だが子供たちは気にしない。
「すごーい!」
「声きれー!」
「奥さんって毎日ちゅーするの!?」
「好きって言うの!?」
「ねぇねぇ!」
「……っ」
存在の目が、わずかに泳ぐ。男はその様子を見ながら、思わず口元を押さえた。
(……珍しいな)
彼女は、未知に対して強い。魔法にも、異質な存在にも、ほとんど動じない。
だが――こういう無邪気な“人の感情の奔流”には、驚くほど弱いのだと。
どう扱えばいいのかわからないのだ。完全に押されている。しかも子供たちは悪意ゼロなので、なおさら止めづらい。存在は助けを求めるように、ちらりと男を見る。
「ふふっ」
笑った。
「……笑ったわね」
「いや、だって」
「助けなさい」
「頑張って。……と言ってみたり」
「……」
じとり。冷たい視線。その視線にすら、どこか余裕がない。
そんな中。ふと、一人の少女が、そっと存在の指先に触れた。
「……?」
存在が視線を落とす。小柄な女の子だった。周囲の子供たちに比べると静かで、少し眠たげな目をしている。騒ぎの中でも不思議と落ち着いていて、声も小さい。
「お姉さん」
少女は、存在の指先を軽くつまんだまま訊ねた。
「どんな魔法が、好きなの?」
その言葉に。存在は、ぴたりと動きを止めた。
「……好き?」
「うん」
少女はこくりと頷く。
「わたしはね、泡の魔法好き。ふわってするから」
それは、あまりに素朴な問いだった。
強い魔法は何か。どんな術式か。どれほど優れているか。そういう話ではない。
“好き”。
その感覚。存在は、静かに考える。
(……好き)
その言葉は、もう何度も男から教わってきた。好きな食べ物、好きな景色、好きな時間。
誰かが笑うもの、自然と手を伸ばすもの、心が穏やかになるもの。
そういう感情を、人は“好き”と呼ぶのだと。
では。自分は――? 魔法を、どう見ていた?
生まれた時から在ったもの、呼吸のように扱えるもの、世界を観測するための感覚。
だがそこに、“好き”という概念を向けたことは、一度もなかった。
「……わからない」
存在は、正直に呟いた。少女はきょとんとする。
「わかんないの?」
「ええ。考えたことがなかった」
子供たちは不思議そうに顔を見合わせる。だが少女だけは、なぜか納得したように小さく頷いた。
「そっか」
そして。
「じゃあ、これから見つけるんだね。楽しいね」
その言葉に、存在の瞳が、わずかに揺れた。
見つける、好きな魔法、好きなもの。自分が、自然と惹かれるもの。そんな視点で、魔法を考えたことなどなかった。魔法は、ただ“そこに在る力”だったから。
けれど、ここには、それを楽しそうに語る子供たちがいる。
火が好き、風が好き、光が好き。そんなふうに、自分の感情と結びつけて魔法を見ている。
「……不思議ね」
存在は、小さく呟く。少女が首を傾げた。
「なにが?」
「あなたたちの魔法は……とても、うるさいわ」
「うるさい?」
「ええ。でも」
存在は周囲を見る。
騒がしくて、未熟で、まとまりがなくて。なのに、そこには確かに、“楽しさ”があった。




