笑みの残骸
夜の部屋に、控えめなノックの音が響いた。
「……入ってもいいか?」
弟の声だった。
男が返事をするより早く、扉は少しだけ開き、続いて妹の気配もする。
「どうしたの、こんな時間に?」
男が問うと、弟は部屋の中を見回し、存在の姿を見つけて、少し緊張したように背筋を伸ばした。
「その……学園の話。どうなったのかなって」
存在は静かに瞬きをし、それから男のほうを一度だけ見る。
視線が交わり、男は何も言わずに小さく頷いた。
「行くわ」
存在は短く、だが迷いのない声で告げた。
「学園に、訪れる。教えるかどうかは、まだわからないけれど……見てみたいと思った」
一瞬の沈黙。
それを破ったのは、妹の声だった。
「……それなら」
妹は肩をすくめて、少し笑う。
「これは必要なかったね」
「だよなぁ」
弟は苦笑しながら、背負っていた包みを前に出した。
「実はさ、これ」
包みをほどくと、中から現れたのは黒を基調としたローブだった。
魔法使いの装束を思わせるが、ただの布ではない。縫い目や裏地に、微かに魔力の流れが感じ取れる。
「学園の制服……っていうか、魔装服。これを着たら、学園に行きたくなるかなって思って」
「用意がいいな」
男が呆れ混じりに言うと、弟は照れたように頭をかいた。
「でも、必要なかったみたいだ」
存在はローブをじっと見つめる。
黒は嫌いではない。だが、なぜか胸の奥がざわついた。
「せっかくだし」
男が、やわらかく声をかける。
「着てみるかい?」
存在は少しだけ迷い、こくりと頷いた。
弟がローブを差し出しながら、付け加える。
「これ、魔力を織り込んであるんだ。着る人の好みに合わせて、色が変わる。だから……好きな色を思い浮かべればいい」
存在の指が、ローブに触れる直前で止まる。
視線が揺れ、無意識のうちに男のほうを見る。
「大丈夫」
男は、安心させるように微笑んだ。
「自分の好きな色を、想像すればいいよ」
存在は、静かに息を吐き、ローブに触れた。
布が肌に馴染む感触。
その瞬間、脳裏に浮かんだのは──式の日の記憶。
ウツシハナの花嫁衣装。
白を基調に、淡い光を宿し、花が咲くように瞬間ごとに表情を変えていた、あの衣。
反応するように、黒だったローブが、ゆっくりと白へと変わる。
ただの色変化ではなかった。
光が舞った。
花が咲くように、瞬間的に、しかし確かに。
ローブの表面に淡い文様が浮かび、装飾となって定着していく。
「……わ」
妹が思わず声を漏らす。
「綺麗……すごく、似合ってる」
「ほんとだ……」
弟も目を丸くしている。
男は──言葉を失っていた。
気づけば、椅子から立ち上がり、存在へと歩み寄っていた。
距離が、自然と縮まる。
存在はその視線に気づき、首を傾げる。
「……どうかし──」
言葉が終わる前に、男の腕が伸びた。
存在を、強くも弱くもない、確かな力で抱きしめる。
「……どうしたの?」
存在は驚きながらも、抵抗はしなかった。
「ごめん」
男は、少し困ったように笑う。
「僕の妻が……あまりに可愛くて、綺麗だったから」
存在は瞬きをし、それから静かに息を整える。
「こういうのが……君の好み?」
「……そうかも」
男は正直に答えた。
「なんだか、新しい自分を知った気分だ」
存在は、少し考えてから言う。
「君の、好きなものをまた一つ見つけたわ」
抱き合う距離のまま、存在は確信する。
関係は、常に新しい自分を教えてくれる。
学園も、きっと同じだ。そこで、また別の“自分”に出会うのだろう。
「……あのさ」
弟が、遠慮がちに声を出す。
「うん」
妹は腕を組み、呆れたようにため息をついた。
「こういうのはね、わたしたちが居なくなってからやってほしいの」
「ご、ごめん……」
男は慌てて存在から離れ、耳まで赤くする。
「でもさ」
照れたまま、笑う。
「学園、楽しみだな」
弟も、妹も、存在も、そして男も。
自然と、笑みがこぼれた。
その笑い声は、魔力の残骸のように、淡く部屋に漂い、
夜の静けさの中へと、ゆっくり溶けていった。
──世界は、もうすぐ、さらに広がる。




