みてろ
紙の上に並ぶ、小さな部屋たち。
存在の指が、その一つに触れると、男はためらいがちに口を開いた。
「……この部屋は、子供のため……かな」
頬が熱い。
声がかすれる。
心臓の音が、耳の奥で大きく響く。
だけど、伝えなくてはならない。
曖昧なままではいけない。
今の彼女に、まっすぐに向き合いたかった。
「え?」
存在が、目を見開く。
その瞳の奥に、不思議そうな揺らぎが浮かぶ。
男は、静かに息をつき、言葉をつなぐ。
「……子供がいたら、部屋は必要だし。家族の時間を楽しむための、広いリビングもいる。
だからこれは、そういう場所。……家族の未来のための部屋だよ。どう、思う?」
存在はしばらく黙っていた。
その沈黙が、夜の静けさをいっそう深くする。
そしてようやく、低く呟くように返した。
「……そうね。夫婦には、子供がいるものよね」
その言葉に、男はわずかに眉をひそめた。
——無理もない。
存在にとって「子供」は、想定外の概念だったのだろう。
興味すら向けたことがない。
そもそも、彼女は“どうやって子供が生まれるのか”を知らない。
人間と、彼女のような存在のあいだに子が宿るのか、そんな実例すら聞いたことがないのだから。
存在はゆっくりと紙から目を離し、男の顔を見つめる。
光の中で、彼女の瞳が冷ややかに、けれどわずかに微笑を浮かべて光る。
「……ということは。ようやく、子供がどうやってできるのかを、私に教えてくれる気になったのかしら?」
その問いは、どこか懐かしさを孕んでいた。
あの日のデート。
無邪気に訊ねられて、誤魔化してしまった過去の問いかけが、いま再び返ってくる。
男は、目の前の存在を見た。
彼女の髪が、頬にふれて落ちる。
潤んだ瞳。穏やかに動く唇。
そのすべてが、今はもう“ただ美しい”だけでは済まされない。
——愛おしい。
たまらなく、愛おしい。
仕草が、声が、空気のすべてが、男の心を染め上げていく。
触れたくなる。
抱きしめたくなる。
この腕で、彼女の存在を確かめたくなる。
“教えたい”なんて建前で、彼女と一つになりたくなる。
けれど——それは、違う。
それは、彼女にとってまだ届かない“言葉”であり、“形”でしかない。
いま手を伸ばすことは、自分の欲でしかない。
彼女が本当に笑う未来のためには、それは“今”ではない。
男は、そっと手を握りしめた。
触れたい衝動を、苦く甘い痛みとして噛み締めながら。
「……まだ、かな」
短く、でも真摯な言葉だった。
存在は男を見つめたまま、小さく瞬きした。
その顔から感情は読み取れない。
表情は静かで、瞳には波ひとつない。
「……そう、なのね」
ただ、その一言だけが返ってきた。
言葉の奥に、何があったのかはわからない。
ただ、確かに“何か”が彼女の中に残ったことだけは、わかる気がした。
男は視線をそらさなかった。
逃げずに見つめた。
この先の会話は、きっと未来への一歩。
——家を建てる。その意味を。
——子供という存在を、共に想像することの意味を。
そして、彼女に“教える”ということの覚悟を。
「それは、家を建てた後でどうかな?」
男は軽やかな声で続けた。
「目標があったほうがやる気になるだろ? 楽しみが後にあるって、ワクワクしない?」
言いながら、どこか本気で楽しげだった。
未来に向かって積み上げるための小さな約束。それが、目の前にいる彼女となら、心から待ち遠しく思えた。
存在はそんな彼を見て、ほんのわずかに目を細めた。
「……悪くないわね」
「うん、家が完成したら、絶対に教える。約束するよ」
男が胸を張って宣言すると、存在は不意に少し視線を逸らし、呟くように言った。
「そもそも私は、どうやって生まれるのかが気になるだけよ。子供が欲しいとは……思っていない。知識として知りたいだけ」
「あ、そうだったんだ……」
浮かれていた自分が、急に間の抜けた存在に思えて、男は少し頬をかいた。
「だって、子供がいたら騒がしそうだし、美味しい食べ物を横取りされそうじゃない。そんなの、私は困るもの」
あまりに率直な彼女の言葉に、男は吹き出してしまった。
想像していた“母性”とは程遠いが、それもまた彼女らしい。
「ははっ、いいね。じゃあ僕、ちょっとワクワクしてきたよ」
男の目がいたずらっぽく光る。
「みてろ、君をその気にさせてみせるから」
それは、もう意地だった。
でも、押し付けじゃない。無理強いでもない。
彼女の心を、本当の意味で“未来”に導くこと。それが、男の挑戦だった。
「ふふ、君ってほんと面白いわね」
存在はくすくすと笑った。
「さっきまで顔真っ赤にして慌ててたかと思えば、急にやる気満々になって……ホント、変な人」
柔らかな笑み。
微かに眉を下げた、慈しむようなまなざし。
「でも、私も家の完成は楽しみよ」
「ああ、不安だけどさ。一歩ずつ、近づいていこう」
男の言葉に、存在は少し考えるように首を傾げた。
「不安……。それなら……これでいいかしら」
そう言って、彼女はそっと男の手を握った。
小さくて、柔らかくて、冷たくも温かい、不思議な手。
——不安なときは、手を握る。
彼女の中でそう定義された行為。
それを、今、男に向けてくれた。
「助かるね……まったく、僕の妻は頼りがいがある」
静かに笑い合い、二人はベッドに体を預けた。
向かい合って眠るのは、もしかすると初めてかもしれない。
彼女の方から手を繋いできたことが、ただただ嬉しかった。
「おやすみなさい」
小さく口元を緩めて目を閉じる存在は、美しく、愛おしかった。
この人と作る理想の未来。
その輪郭はまだぼんやりとしたままだが——きっと家が完成したとき、はっきりと見えてくるのだろう。
男はそう願いながら、そっとランプの灯を消した。
「おやすみ」
ふたりの理想は、ゆっくりと夜の静けさの中に溶け、
星のまたたきに吸い込まれていった。




