立場
「……あなたは、私に何を求めているの?」
存在が静かに問いを投げると、老人――学園長は、フフ、と喉を鳴らして笑った。
その笑いには、嘲りも油断もない。ただ、長く世界を見てきた者だけが持つ余裕があった。
「簡単なことじゃよ。君に“学び舎”に来てほしいのだ。わしの学園にな。そこで、教え子たちに魔法を教えてやってほしい」
「……教える?」
存在は、言葉の意味を反芻するように小さく首を傾げた。
「どうして、私が?」
「弟くんから聞いたのじゃ。“自分より遥かに魔法に長けた人がいる”と。こうして目の前に立たれてみれば、疑いようもない」
学園長の視線が、存在の内側を静かに貫く。
「君は……“規格外”じゃよ」
存在は、何も言わずに見つめ返した。
その言葉に、驚きも誇りもなかった。事実を述べられただけのように受け止めている。
「弟くんは、学園でも随一と言っていい魔力を宿しておる。その子の魔力が暴れたとき、君は迷いなく制御した。しかも、力で抑え込むのではなく、“流れ”を整えた。あれは教えられる者の技ではない」
弟は、少し照れたように頭をかいた。
「……うん。俺、あれ以来、魔法が怖くなくなったんだ」
存在は、その言葉に一瞬だけ目を伏せた。
“学ぶ”という行為には、彼女はまだ慣れていない。
男と暮らし始めてから、“知る”ことの楽しさは知った。知らなかった感情、知らなかった日常、知らなかった未来。
だが――“教える”という立場は、まだ遠い。
「いま、学園では教師が不足しておってな」
学園長は、少しだけ声の調子を落とした。
「王都は軍備拡張に躍起じゃ。才ある者も、若者も、皆あちらへ引き抜かれていく。魔法は本来、“自分との対話”だった。がむしゃらで、楽しくて、自然で……自分を表現する一つの手段だったのじゃ」
老人は、遠い記憶を見るように目を細める。
「だが今は、成果だ、効率だ、評価だと……魔法の精神性が失われつつある。魔法が“道具”になってしまった」
「……私は、あなたたちとは違う」
存在は、はっきりと言った。
「私が教えても、同じ場所には立てない。あなたたちの常識も、価値観も、私にはない」
その言葉は拒絶ではなく、事実の提示だった。
だが、学園長は微笑んだまま、首を横に振る。
「それでもよい。いや、むしろ――“違う”からこそ意味があるのだ」
その目に、計算された熱が宿る。
「君が何者なのか。君が、自分をどう使いたいのか。どう生きたいのか。それを知る手助けを、我々はできる」
存在の胸に、小さなざわめきが走った。
「君のような存在が、今この時代に現れたこと。それが偶然だと、わしは思わん」
隣で、弟が大きくうなずく。
「兄貴も言ってたよ。“あの子は、自分を知ろうとしてる”って。だったらさ、学園……悪くないと思うんだ」
存在は、言葉を失った。
知らない世界。
知らない価値観。
その先に、何かがあることは、ずっと感じていた。
けれど、自ら“扉を開く”選択を迫られたのは、これが初めてだった。
「まぁ、俺はさ!」
弟が急に明るい声を出す。
「せんせぇと一緒に、魔法で遊びたいだけなんだけどな! たぶん、学園のみんなも会いたいと思ってる。……ねぇ、ダメかな?」
すがるような上目遣い。
存在は、しばし考え――ぽつりと口を開いた。
「……報酬は、あるのかしら?」
学園長が目を見開き、次いで愉快そうに笑った。
「ほぉ。そういうものに興味があるとは、意外じゃな」
「彼と、家を建てるの。必要なだけ」
迷いのない答えだった。
「無論、それなりの報酬は用意しよう。魔法は特別な力だ。人々の生活にも、社会の基盤にもなり得る重要なものじゃ」
存在は、しばらく黙り込んだ。
「常に教える必要はない。気が向いたときに顔を出すだけでもよい。どうじゃ、まずは学園を見に来るだけでも」
「……考えさせて」
それだけを言って、彼女は居間を後にした。
背中に、学園長の声が静かに届く。
「“学ぶ”とは、自分の中にある“可能性”と出会うことだ。君がそれを望む日が来たら、いつでも迎えよう。君のような存在を、学園は歓迎する」
その言葉は、彼女の背に重く残った。
世界は、今まさに広がろうとしている。
その扉を開くかどうか。
決めるのは、彼女自身だった。
心が、静かにざわついていた。
それは恐れではない。
――ほんの少しだけ、胸が高鳴っていた。




