いつか本当に
夜風が静かに窓を揺らしていた。
デートを終えた男と存在は、ふたりで部屋に戻っていた。昼間の喧騒とはうってかわって、部屋には柔らかな静けさが満ちていた。
淡いランプの灯りの下で、男はソファに腰を下ろし、隣に座った存在へと声をかけた。
「……今日は、どうだった?」
存在は少しだけ目を伏せて、答えを探すように言葉を選んだ。
「観察記録には……“楽しい”って、たくさん書くことになりそう」
それは冗談のようでもあり、本音でもあった。けれど、その表情にはどこか戸惑いが混じっている。
「でも、思うことが多すぎて……うまく整理できそうにないの。初めてのことばかりで、ふいに笑いそうになることが何度もあった」
そう言いながら、存在は胸のあたりをそっと押さえるようにして微笑んだ。
「でも、少なくとも――美味しいものでは、いっぱいになったわ」
男はその言葉に、安心したように笑った。
「それならよかった」
「今日は、何か一つでも、君に“好き”って思ってもらえるようにって、ずっと考えて動いていたの」
男は目を丸くして存在を見つめた。
「妹さんが言ってた。“笑顔”がいいって。だから、私も……できるだけ笑いたかった。
でも……うまく笑えていたのか、自分ではよくわからない」
男は少し考えるような仕草をして、それから穏やかな声で返した。
「ちゃんと伝わってたよ。……今日は、いつもよりずっと、楽しそうだった」
存在は目を伏せ、何かを確かめるようにゆっくりと息を吐いた。そして、少しだけ体の向きを男へと向け、目を見据える。
「……私、まだ上手にできないけど……たぶん、今の私には“楽しい”っていう気持ちが、少しだけ残ってると思う」
言いながら、存在は一呼吸おいた。
「だから……練習していた“笑顔”、今、君に見せてみたい」
静かな宣言だった。
存在は目を細めて、ほんの少しだけ口元をゆるめた。感情をなぞるような、ぎこちなくも真っ直ぐな笑み。
誰かのために、初めて心から浮かべようとしたその表情に、男は言葉を失った。
「……ありがとう、今日はとても楽しかったわ」
その言葉に、男はゆっくりと手を伸ばした。そして、そっと存在を抱きしめる。あたたかく、やさしく、まるで宝物に触れるように。
「可愛いよ。その笑顔。いつかきっと、“本当”にしてみせるから」
存在は男の胸に額を預けながら、小さく笑った。
「そうなれば、いいわね」
夜は深まっていく。
けれどその静寂の中、ふたりの心には確かに、“楽しい”という灯がともっていた。




